ああああああ

 倫理とはなにかというのを最近は考えている。たとえば転がっている自転車を人知れず起こしてあげるとき、私は善意でやっている訳だが、もしかしたらそれはわざと倒されていたのであって余計なことをしてしまっただけなのではないか、といったことを真剣に考えてしまう。その際に審判を下すのは、勿論その自転車の持ち主が私に直接異議申し立てないしは感謝を述べることはないから、結局のところは私の気持ちの居所でしかない。だが、「気持ちの居所でしかない」と言ったところで、それはどうしようもないものでもあることを私は知っている。
 閉じた教室の中で一斉に向けられるあの眼差し、冷や汗をかかせるあの眼差し、その冷や汗がすくんだ肩が余計に私を苦しめるのであり、孤独にさせる。そこで「気持ちの居所でしかない」なんて言葉がいかに無意味で終わってるのかを私は再認する。いやむしろ、その居所を形成する機械自体が問題になっていて、それは「でしかない」でしかない訳がない。
 それで、また一つ人間のことが嫌いになる。人間より、道端で群れているスズメの方がよっぽど可愛く優しいと思える。それは、ある意味ではぬいぐるみに対して抱くような一方的でしかない感情かもしれなくて、すずめ達も本心では私のことをキモいとしか思っていないのかもしれない。いや、そうに違いない。だから避けるんだ、人もスズメも。
 人間は嫌いだ。特にいくつかの政治というのが人間間で交わされていて、それが苦痛で仕方ない。政治というのは、保守派とかリベラルとかの政党の話じゃない。政治というのはゲームのことで、お茶会において誰の茶葉が一番いい匂いなのかだとか誰が見る目が合って誰が見る目がないのかだとかそんな奴だ。そういうのにTwitterであれなんであれ巻き込まれるたびに、少年時代の嫌な記憶がフラッシュバックする。それはクラスの異邦人としての私に向けられた〈クラスの女子〉による嫌悪の視線ないしは〈先輩〉から向けられる見下しの視線が、友人と思っていた仲間からの視線が、そして私に向けられた母親の視線だ。話せば話すほど私は嫌われていくようにしか思えない。言ってしまった言葉の数々は、文体が文字数がコンテクストだのなんだのが測られて計算され、それが賞賛されるのか貶されるのかも私のあずかり知らないところでひそかに行われ、そして「ちゃおさんはコレコレこういう訳でクズなんです」とか「クズじゃないです」とか決着がついている。
 政治に対していくつかの戦略を立てることにした。「沈黙は金」とかいう例の諺の通り、喋らないで済むに越したこともないというのも最近知った。沈黙とは、言外に宿った徹底して倫理的な発言のことだからだ。「なにを言うべきか」「なにを言わないでおくべきか」「いかにして言うか」……等の無数の政治のファクタがあり、私はそれを一つ一つ顔色をうかがいながら選んでいく。たとえば沈黙それ自体を、あるいはカーネギーだとかが講ずるような薄ら笑いを浮かべながら(カーネギーなんて読んだことないが)。あぁ、苦痛だ。もうそれも嫌なんだ。蒙古襞の厚さも、鼻の高さも、目の小ささも全部測られていて、いくつもの政治で取り乱せば最後私はまた例の視線を受けて迫害されるだけなんだから。
 倫理とはなにか?それは政治的に上手く立ち回るということだろうか。答えは出ていないし、はっきり言ってどうでもいい。本心を言えば、私は政治で勝ちたいんじゃなくて政治から距離を取りたいだけなんじゃなかろうか。私が、誰かに向けて例の視線を返したいわけでもないんだ。ただそれでも私が倒れている自転車を立てるとか落とし物を拾ってあげるみたいな孤独な善行を積むとしたら、それが政治ではないことも明白だ。
 スズメにおいて、私は機械を停止させる。他人との政治を停戦させる。凪のような白い感覚のみが広がっていて、私はもはや私がなにを書いてきたのかとかを言いながらにして忘れている。そこにあるのは痕跡ではなくて絶え間ない現在に付随した払拭しがたい忘却の運動だ。視覚ではなくて嗅覚で感じていられる。水を含んだ土の匂いや、特有の獣臭さを感じ取っている。香りを運ぶ分子は風に運ばれて遠くへ行ってしまって、手元に残すことは出来ない。私はその分子と一体になっているのであって、なにも生産せずただ感じ取るばかりである。

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