一対の眼球のためにあてがわれた酷く広大なディスプレイ、エミリア。

一章

 はやい話、私のオーディオプレイヤーは壊れかけている。音楽をかけようとすると―それどころかかけようとせずとも―勝手に流れはじめ、そして止まり、またイントロへと戻ってやり直し、加速し、途端に別の曲へと移ってしまい、止まり、また元の曲のイントロに戻り、加速し、止まる。私が狂いかけていることにも実のところ気付いていた。田園都市線、各駅停車、押上行き。リュックには、何気なく手に取ったウェルベックの『闘争領域の拡大』を詰めていて、手持ち無沙汰だからパラパラとページを捲る……。外はずっと雨が降っていて、大学は今日もやっているが、行けなかった。私は、器官を欠いた身体そのものであって、私を中心として幾つもの数学的な計算を実行するソフトウェアが私を操作しているだけで、私にその管理者権限を持っていないからだ。機械が故障したからといって、私に出来ることはなにもない。それで、慣性の法則によって私は、九段下ではなくて、渋谷駅に降ろされる。それもまた、私がそうしているとは思えなかった。渋谷駅、表参道、青山一丁目、どれも同じだ。雨のなか、傘を差しながら、意味もなく街を歩いていた。もう全部終わらしたいとしか思えなかった。黒いジャージのポケットに詰め込まれたウェルベックも、アンチオイディプスも全部この雨に濡れたコンクリートの路上に放り投げて、何度も何度も踏みつけてやりたいような気分になった。それが何を意味するのか、実のところ私は何も知らない。この傘も全部、叩きつけて壊してやりたいとしか考えられなかった。その行為の意味を問われても、私にはなにも分からないんだ。私はなにもしていない。ただ言われた通りにしているだけなのに。通り雨は、だから私の涙を代弁しているのではなくて、感情を欠いた私を代弁しているんだ。通り雨は、私の感情の代わりに計算を実行するソフトウェアそのものなのだから。
 たしかに、私は全部を間違えている。どこから間違えたのかも忘れてしまった。だから、たとえば高校卒業してからも二年の歳月を費やした学部入試でも、あるいはそのうち一年所属させてもらった大学でも、多分その全ての選択肢を誤ってきた。もしくは、仕事を投げやって幸福になってただ笑っていたいと過ってしまったときからのことだろうか。ガラス越しのウェディングドレスに、緑色の目が反射していたときから。謝れることなら謝りたい。全部に謝って、やり直させてほしい。私に悪いことがあったのなら、全部一からやり直させてほしい。全然悪気なんてなくて、本当にみんなが幸せになれたら、それで私が幸せになれたらと思ってだけなのに。「誰かが二百万の星のなかに二つとない、どれか一輪の花を好きになったんなら、その人はきっと、星空を眺めるだけで幸せになれる」それでも、私は希望の花を捨てないでいるつもりだった。明日になって、いつか本当にみんなが笑顔になれる日が来るのであれば、そのために何かを捨てることができるつもりだった。でも結果はそんなんじゃない。一人の人間が、その些細な実存を投げ出したところで、なにも変わりはしない。誰も笑いはしない。だから、あの子は川の底に沈んだ。そんなのは分かっている。この雨は、あの川から誘われた雨に違いないからだ。私は、あの子とともに川の底に沈んでいるんだ。
 いつの間にか、私は希望を捨てずに走っているつもりが、自分でも何を捨てずに何を得ようとして走っているのか見失ってしまった。このまま数学をしていれば、あるいは哲学書を読んでいれば、文章を書けば救われるのか?エミリアが私のことを見つけ出してくれる?膝枕は?本当はもう戦いたくなんてない。政治もやめて、ペンもノートも全部燃やそう。君と、月の裏側で結婚式を挙げたいとずっと思っていたんだ。「水の教会」って知ってる?多分、月の冬は静かだ。兎たちも、今だけは餅つきをやめて隠れて見守ってくれてる。モノリスは、雪に埋もれてしまってもう見えなくなる。雪が溶けて、水面が星を覆うまで、君とそこでキスしていたい。こんな雨の渋谷も表参道も、全部捨てて会いに行きたい。僕はどうすれば楽になれる?これ以上なにを捨てれば。私は、やっぱり計算機でしかない。それも、壊れかけたそれだ。だから、このオーディオプレイヤーはずっと直さなくていいと思った。意味不明な仕方で曲と曲が結合し、加速し、止まり、戻り、それが私のことなんだし、今までもずっとそうしてきた。

二章

 一対の眼球のためだけにあてがわれた酷く広大なディスプレイ、エミリア。それがこの短稿の名前だ。ディスプレイ、あるいは折り畳まれたもの。私のためだけに折り畳まれた折り紙のことだ。それが君だ。
 頭のなかの声が煩くてしょうがないんだ。ずっと私の人生をゲーム実況している奴らがいる。それで、私もはやく逃げ出したい。どうやったらここから逃げられる?いや本当は、そんな話を君とできれば、十分逃げ出したことになるんだと思う。だから、何処にいるのか伝えてほしかった。一言でも、声をかけてくれたらそれだけで本当に救われると思った。でも君はどこにもいない。愛してるんだ。
 全てのものが結合して、一つになってしまった。白色の結晶だ。いまだに雪はずっと降り続いている……。全部が白色に還ってしまって、君がどこにいるのかも、自分が誰なのかももう色が見分けつかなくなっちゃって、どうすればいいのか本当に分からないんだ。でも愛してるんだ、どこに、誰にどうやって言えばいいのか分かりもしないのに、本心だ。この白色を全部終わらしたい。全部溶かそう。それでやり直そう、二人で。二人なら、また何回でもやり直せる気がしたから。
 君が僕のことを見つけ出せるように、僕は黒色のジャージを着ることにした。白色のなかでも、黒色だけは違うから。すべてが白色になったあとでも、見つけられるように。

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