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高校生企画「ひばくしゃの話を聞く会」

‘23年12月17日(日)
大阪原水協事務所で 枚方市原爆被害者の会 森 容香さんの被爆体験を聞かせていただきました。枚方市では、被爆者手帳を持っている方が現在187名。元気で動ける方は少数で、ほとんどの方は、施設や病院に入っているそうです。
森さんは現在83歳、5歳の時に広島の被爆地から北に1.8㌔の楠木町の自宅で、家族と共に被爆。この時に受けた放射能で甲状腺癌を煩い、今も苦しんでいます。
一見、元気そうに見えますが、被爆の影響は大きくとても疲れやすいそうです。母も姉も癌で失っています。
多くの被爆者は、「被爆したことを話しても、いいことが無いから言わないほうがいい」と教わってきたそうです。差別があるからです。
子どもの時は、「ピカドンが来た。うつるぞ〜逃げろ〜」と仲間に入れてもらえないことがあったそうです。成人後は、結婚が問題になりました。被爆者だと知られたら、破談になることがありました。理由は、生まれてくる子どもの被爆二世問題です。
今でも、多くの被爆者の方は言えずにいるそうです。
それでも、語り伝えることを続けてくださっている、森さん。
ぼくたち、戦争を知らない世代は、知ることで学び考え続けていくことが責任だと思っています。今日、聞かせてもらった話をひとりでも多くの方に共有したいと思いnoteに残します。


当時、今のように、どの家にもテレビがあるわけではなく、お金持ちの家にしかテレビが無い時代。どのようにして、この歌が子どもたちの間に広がっていったかは分からないが、遊びながら日露戦争の歌を歌っていた。そう言って、森さんは歌ってくださいました。

一列談判(ランパン)破裂して
日露戦争が始まった
さっさと逃げるはロシアの兵
死んでも尽くすは日本の兵
五万の兵を引き連れて
六人残して皆殺し
七月八日の戦いに
ハルピンまでも攻め寄せて
クロパトキンの首を取り
東郷元帥 万々才

聴いて、驚きました。
森さんが歌ったのは、意図を持って特定の主義や思想に誘導するプロパガンダ歌謡だったからです。78年経った今も、その歌は森さんの記憶から消されていないのです。

この頃、日本は大変な時期だった。
知らないうちに戦争が始まって、兄姉と一緒に、この歌を歌いながら遊んでいたら、ある日突然、父に赤紙が来た。召集令状です。戦争に行きなさいと。
今、思い返すと、その時はもう既に日本は負け戦をしていたのではないかと思うんです。何故かというと、その時、わたしの家は兄姉4人と母のお腹の中に弟がいました。そんな父親を戦争にとるということ自体が、人材が無いということ。
食べるものも十分に無く、物資も人材も底をついていたんだと思います。
なのに、日本は戦争に強い国なんだ!負けるようなことはない!と言って、私たち子どもは何も知らずに、ロシアに勝った!と歌を歌って遊んでいたんです。

5人もの子どもがいる父が戦争に取られるということ。
戦争に行く父も大変だったと思いますが、残された母も、子どもを抱えて生活しないといけないから、大変だったと思います。母の人生は何やったんやろうと思います。
当時、政府は産めよ増やせよで、子どもが増えたら、子どもいる父を戦争に取り、後は、ほったらかし。母も被爆していたので、体も辛かっただろうに、必死で子育てしてくれました。
どれだけ大変でも、政府は助けてくれませんでした。
戦争がダメと言えば、憲兵が来て連れていくんです。捕まってしまうんです。
*『はだしのゲン』のお父さんも、戦争はダメだと言っていた人ですが、大っぴらには言えない時代でした。非国民と言われ村八分にされて、『はだしのゲン』に描かれている話と同じ。その通りだったんですよ。

1945年8月6日午前8時15分
弟も生まれ、子ども5人と母の6人で生活をしていました。
家族で丸いテーブルを囲み、朝食中でした。
そしたら、突然、ピカッと光ったかと思ったら、ドーーーーーーンと、
ものすごい熱と爆風で、天井、屋根が落ちてきて、吹き飛ばされ、わたしはしばらく気絶していました。
私たち家族と同じように、家の中にいた方の多くは、瓦礫に挟まれて亡くなりました。
被爆地から2㌔以内は全滅と言われていましたので、1.8㌔のわたしの家族全員が死んでいても不思議ではなかったです。
わたしの家は、奇跡的に屋根が斜めに落ちてきたので、瓦礫に挟まれることがなく、家族全員無事でした。屋根の隙間から光が入ってくるのが見えて、そこから、まず兄が這い出ました。外から兄が引っ張って、中から母が押してくれて、家族全員助け出されました。

朝食の時間の爆撃だったこともあり、母は火事を心配しました。火事が起これば逃げれなくなると思ったんです。家の近くの大田川の川べりに竹藪があり、そこへ一時避難しようということになりました。「竹藪で会おう」と約束をした後、兄と母は家の中から何か一つでも取り出せたらと瓦礫の下に戻り、長女は赤ちゃんの弟を抱っこして、姉と5歳のわたしは手を繋ぎ先に竹藪へ向かいました。
わたしは、靴も無く裸足で歩きました。
道には、全身がただれ指先が溶けて地面まで伸びた人がたくさんいました。それは、人間の姿ではありませんでした。
瓦礫の下から「助けてー」という声も聞こえました。
大田川に着いた時に見た光景は、「熱い。喉が渇いた」と水を求め川に飛び込み、そのまま亡くなった方。水を飲もうと川に頭を突っ込んだまま死んでいる人の上に、さらに死体が何重にも重なっていました。
映画などで観る、そんなもんじゃない。言葉では言い表すことない生き地獄でした。

待ち合わせの竹藪には、多くの人が逃げて来ていました。兵隊さんもいました。家族とはぐれ探している人もいました。わたしは、家族と会えました。これも奇跡だと思います。

竹藪で家族が揃い、母はその足で楠木町よりもっと北の父方の田舎、高田郡八千代町へ行こうと言い、みんなで歩いて向かいました。長い道のりで、足も痛かったです。1歳の弟は誰かが抱っこをして、どんなに足が痛くても、誰もわたしを抱っこしてくれませんでした。自分で歩くしかなく、泣きながら歩きました。
その日のうちに広島市内から出ていました。
だから、今、わたしは生きていると思います。
黒い雨に遭わなかった。被爆の土地で生活することにより、2次被爆、3次被爆することもなかったからです。
だけど、とても貧しい暮らしだった。食べるのがないということが、一番辛かった。
それに当時、私たち被爆者に何の補償もありませんでした。

父は、戦争から帰って来ました。
生きて帰って来たので、政府からは何もなかったです。
帰って来た父は、広島市内の楠木町の家があったところへ行くと、私たちの住んでいたところに建物を建て、別の人が住んでいたそうです。そのまま、その土地は返って来ませんでしたが、そこに住んでいた方は、被爆した土地での生活によって被爆しました。その当時、誰も放射能の怖さを知らなかったのです。
折り鶴の佐々木貞子さんもそうです。
貞子さんの自宅は、爆心地から約1.5㌔。当時、2歳で、わたしと同じ町名、楠木町でした。貞子さんは、爆弾が落とされた1ヶ月後に、自宅があった場所に家を建て、学校に通うことによって放射能をたくさん吸ってしまい、12歳で亡くなりました。

私が、学校に通っていたときも、ある日突然、元気だった友達が来なくなるんです。
先生に聞いたら入院したというので、病院へお見舞いに行ったら、首がなくなるくらい喉のところが腫れていたんです。甲状腺癌です。友達は、学校には戻ってきませんでした。白血病で亡くなる友達も多かったです。

戦争をして、いいことはない。得るものは何もない。
78年前に受けた放射能で、いまだに苦しんでいます。
政府は、裕福な時代を迎えても、運動をしないと何もやってくれないです。
大変な思いをして生きてきました。
二度と私たちのような、被爆者をつくってはいけない。戦争は絶対いけないです。

被爆者手帳は、1954年ビキニ被災事件をきっかけに、原爆投下から12年後に制定されたが、認証が非常に厳しく、今でも認められずに苦しんでいる人がいる。
被爆者手帳、【1号】直接被爆した方。【2号】入市被爆、原爆投下から2週間以内に爆心地から2㌔の区域以内に立ち入った方。【3号】救護・死体処理にあたった方。【4号】体内被爆された方。

*『はだしのゲン』・・・中沢啓治による、日本の漫画作品。自身の被曝体験を基に描かれた。広島市では、二度と同じことを繰り返さないようにと平和への願いを込め、小学3年生の平和学習教材に掲載されていた。’23年2月、「検証会議」から「改訂会議」までにどのような議論がされたか明かされ無いまま、平和学習教材から削除された。被曝者や教職員団体、保護者からは賛否の声が上がっている。

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お話を聞かせてもらった後に、森容香さんに質問をさせていただきました

▶︎元高校生平和大使の方々が、今年11月ニューヨーク国連本部で開かれる『核兵器禁止条約第2回締結国会議』へのオブザーバー参加を求め、署名活動をし、約43,288筆の署名を外務省に提出したにも関わらず、日本政府はオブザーバー参加をしませんでした。
このことについてどう思われますか?

日本が参加しないことは、被爆者として、非常に残念でしょうがないです。
私たちが生きている間に、核兵器の無い世界にしたいと願っていたが、もう間に合わない。若い人に委ねないとどうしようもないです。

▶︎広島市長が広島市の新規採用職員研修の資料に『教育勅語』の一部を引用していたことについて、どう思いますか?

私たち、被爆者にとっても思うように動いてくれず困ることがあります。
とにかく、今の政治をどうにかしないといけないと思っています。
皆さんが大きくなって、選挙権を持ったら、選挙へ行っていい人を選んでくださいね。

なんで、話し合いができないんだろうね。
せっかく人間、いい頭持って生まれて来ているのにね。
助け合いで、それぞれの国が無いものを補い合っていけば、戦争にはならないと思うんだけどね。やっぱり、自分の国さえ良ければいいという思いがあるんだろうね。
その思いが先に立つんだろうね。だから、戦争になるんだろうね。







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