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NO MORE Nagasaki

1945年(昭和20年)・8月9日(木曜日)・午前11時2分
アメリカ合衆国は、人口約24万人の長崎市に、日本に2つ目の原子爆弾ファトマンを投下。3日前に広島に投下されたウランを原料としたものとは異なり、プルトニウムを原料にした広島型の約1.3倍の強い原子爆弾だった。一瞬で長崎の街は廃墟となり、死傷者は約7万4千人(推定)。この日以降、街への原子爆弾投下は一度もない。

2024年8月6日 長崎原爆の日から79年
あの日のことを語り伝えてくれた大阪寝屋川市にお住まいの被爆者、山下しのぶさん(広島)と今井セイ子さん(長崎)の被爆体験をここに書き残します。
決して忘れることのないように。

長崎出身 今井セイ子さん(79歳)
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 私は長崎で被爆しました。
 8月9日、私は朝7時頃産まれまして、その約4時間後に長崎に原爆が投下されました。記憶も何もないのですが、ただ、爆風がひどくて母親と私と2人、死ぬ覚悟でいたみたいですけども、なんとか助かることができました。
 父親も長崎市内の方へ葬儀に行く予定だったのですが、私が産まれたてバタバタしていたので出発時刻をずらしたので助かったという話は聞きました。
 そのうちに中学生だった姉は、学徒動員で草刈りなどをやらされて学校の勉強どころではなかったわけです。男の子は、機関車の仕事をさせられたり、駅に勤めたりということが多かったそうです。
 その当時、私より15歳くらい年上の姉のお婿さんになる人は、学徒動員で長崎駅に動員されていました。あの日は、外でおじさんと2人で仕事をしていて、若い子だからお腹も空いただろうとお昼前にご飯食べなさいと小屋の中に入れてくれて、おじさんが外へ出たその時に原爆が投下され、おじさんは影も形もない、どこへいったかも分からないくらになり、亡くなってたそうです。お兄さんは、着るものは吹き飛ばされ、履くものもなく必死に逃げ、浦上川まで辿り着いたものの川を渡ることができない。浦上川には死体がいっぱい浮いていて、誰かが渡してくれた一本のロープをつたい稲佐の方へ逃げたけれど、人を踏み、「水、水」と言っている人に水をあげることもできなかったことを悔やんでいました。 そうして、稲佐山の中腹まで来た時に一休みして石に座っていたときに偵察機が一機飛んで来たのを見たそうです。それから爆心地を抜けて歩いて家に帰ってきて、それからが大変です。次の日からは下痢と嘔吐に見舞われて、1ヶ月くらいした時に首の後ろからガラスの破片がたくさん出てきたそうです。ガラスの破片はたくさん散らばっていたら手術もできなかったらしいです。ガラスが少しずつ出てくると。 そのうち何年か経った頃に、今度は目が見えなくなって、少しずつ少しずつ目が見えなくなって、大体60歳ぐらいの時に完全に失明してしまいました。「停電しても目が見えなくても一緒よ」って言いながら暮らしていたそうです。80歳くらいまで生きていましたけど、折に触れては私にそういう話をしてくれました。
 姉は軍需工場に勤めていて、当時24時間稼働していたもんだから、たまたま夜勤で帰ってきてたから命は助かったんです。10時頃に家に帰ってきて休んでいた時に原爆が落とされて、何事かと思って出てきたら、長崎市内の軍需工場は全滅だっていうことだったらしいです。 次の日から母親に代わって怪我をしていた人たちの看護をするようになったんです。放射能を浴びてると、今度は自分の体から放射能放出するからそれを吸い込み二次被爆をし、何日間か続けた後に体調を崩して24歳で亡くなりました。一度も結婚することなしに亡くなってしまい、母は自分の代わりに出て行って亡くなったということで一度も姉のことを話してくれませんでした。親としたらものすごく辛い思い出だったと思います。私も姉の顔も覚えていません。覚えているのは葬儀の時のことだけです。
 私はほとんど記憶が無いのですけども、学校の社会見学で天主堂の天使像の頭部が転がっているのを見に行った覚えがあって、ものすごく怖いって思ったのを今でも覚えています。天主堂の跡に、あちこちに転がっているんです。天主堂の焼け残ったところを修復して、今みたいに新しくなってなかった頃です。今でも、残されているので長崎に行かれた時は見学されるといいと思います。 一本足の鳥居もあります。山王神社(ニの鳥居)です。あの鳥居は79年立っています。吹き飛んだ分は横に置いてあります。山王神社の楠木も丸坊主になったのが、今は綺麗に葉っぱが出て生き生きとしています。生き残って私らに訴えてくれているのかなと思っています。

寝屋川被爆者の会 今井セイ子さん


質) 川中 ▶︎原爆が投下された時、お父さんはいらっしゃったということですが、徴兵へは行かれなかったのですか?

 私の父は、もう年だったんです。兄弟姉妹が8人の末っ子だから、父はもう48歳でしたので徴兵には召集されなかったのですが、自警団とかなんとか、そういうものの仕事はしていたみたいです。それぞれにいろんなことはやらされてたって話があります。

寝屋川被爆者の会 今井セイ子さん


質) 川中 ▶︎岸田首相は、NPT体制(核拡散防止条約)などは核兵器を無くすためには現実的だけれども、核兵器禁止条約は現実的でないとご自身nの著書で書かれています。このことについて、被爆者としてどのようにお考えか聞かせてください。

 核兵器を持つ必要がないと思います。
 禁止条約というのは持ちませんっていう条約ですよね。NPTは持ってても使いませんってことで、そこがやっぱり違うんかなと思います。持ってたら使いたくなりますよね。
 2、3年前にNHKが調べたんですけど、広島で0歳から9歳までの人が7,907人、10歳から19歳までは8,724人が亡くなっていて、長崎では0歳から9歳までは6,349人、10歳から19歳までは約8,000人が亡くなっています。これは、分かっているだけの人数なんです。子どもたちがこれだけ犠牲になるっていうのは大変なことだと思うんですよね。だから、やっぱり核兵器はダメだと思うんです。生き残ったとしても後遺症が残るから。

寝屋川被爆者の会 今井セイ子さん


質) 川中 ▶︎岸田首相に対して何か訴えたいことはありますか。

 79年経った今でも裁判(原爆症認定・黒い雨・被爆2世など)が起こっているというのはおかしいですよね。それだけ後遺症に苦しまれている方がたくさんいるわけですから。

寝屋川被爆者の会 今井セイ子さん


質) 橋口大阪原水協事務局長 ▶︎被爆者として色々と病気もされたと思うのですけども、よく言われている差別があるので被爆者ということを隠していたという経験はありますか。

 私は身内から言われます。 あなたは医療費がいらないからいいですねって言われました。医療費のこととか色々と私は結構言われてました。
 私はいつも被爆手帳持ってて、ちょっと優遇される分や半額とかあるからって使おうとすると、主人がすごく嫌がりました。そんなん出さなくていいって。子どもたちを海遊館(大阪の水族館)に連れて行った時にそんなことをしてたら、すごく怒りましたから、それから一切しません。主人が生きてる間はしませんでした。何も卑下することはないと思うんだけどねって私は言ったんだけど、すごくそれを隠したがりました。私が被爆しているっていうことを。 70過ぎてからですかね、主人が亡くなってから被爆体験の話をするようになりました。

寝屋川被爆者の会 今井セイ子さん


質) 橋口大阪原水協事務局長 ▶︎当時のことを喋れる人ってのはなかなかいないですよね。

 90歳の兄がまだ元気でいるから、聞いとかないとと思っています。
 この前、話してくれたのは、中学校が病棟になっていた時、遺体を埋めているんですね。その穴掘りをしていたのが中学生の男の子。男子生徒は全員穴掘りさせられていてですね、兄はまだ小学校だったから見に行っているわけです、興味本位で。それを見ているから、ウクライナで亡くなった人を穴を掘って埋めていたでしょ、それを見た途端、あの光景が浮かんできたって言っていました。あれと同じことだったって。 学校を出て、20歳過ぎて町役場で勤めた時に、遺体引き取りが終戦後10年20年経ってもあるんですよね。そしたらこの人は遺体の引き取りはもう遺骨になってるから、これが自分のとこの遺骨だと思って供養しますって言って引き取ってくださるんですけど、その時に掘り返さないといけないんですよ。井桁に組んで遺体が乗ってる、それを掘った途端残されていた骨が崩れていくのよという話もしてました。

寝屋川被爆者の会 今井セイ子さん




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