寂しさの衝動 "das alleine Gefühl"

 朝起きたら家に誰もいなかった時、遊んでいる途中に寝落ちして目覚めたら一人になっていた夕方、実際はただ母さんが寝ている僕を起こさないようにそっと買い物や集まりに出掛けただけなのに、どうしようもない寂しさを感じることがあった。世界が終わってしまって、僕一人だけ取り残されたんじゃないか。そんな風に思った。

 僕が「寂しさの衝動」と呼んでいるそれは、小学校中学年の時に犬を飼い始めたことでだいぶ減った。家の人間が僕を置いて留守にし、静まり返った誰もいない家で焦り、戸惑い、不安になるのだけどリビングの戸を開けて縁先に出ると丸くなって寝ている犬が庭にいた。犬はドアの音で僕に気がつきゆっくりと顔をこっちに向け「ばっかじゃねーの?」と鬱陶しそうな視線を向けるのだ。それは生命の存在であり、少なくともこの世界に取り残されたのは僕一人ではないということを裏付けた。しかし小学校高学年でも中学校でも高校でもそれは完全に僕の中からなくなった訳ではなく、僕は家でも学校でも旅行先でも「寂しさの衝動」を感じることがたまにあった。

 大学は地方の私立大学だったから僕は引っ越して一人暮らしを始めた。2006年に入学してすぐに彼女ができた。大抵は彼女が僕の部屋にいるか僕が彼女の部屋にいたから、朝起きたら天使のような寝顔がそこにあった。僕はこの寝顔がいつまでこうしてここにあるのか不安だった。

 僕に決定的に足りていないものは自信だ。村上龍氏の小説のどれかの中で書かれていた。自由・自信・自分、人間には三つの大切な“自”がありその一つでも欠けてしまうと人は奴隷になる。奴隷・・・もしかしたら『フィジーの小人』で書かれていたかもしれない。僕は32年間生きてきた人生の中でこれといって人に誇れるような偉大なことを成し遂げたことがないし、同時にこれといって人を失望させるような重大な過失を犯したこともない。良くも悪くもないし、一番上でもないし一番下でもない。ナンバーワンでもなければオンリーワンでもない。平凡なのだ。平凡といっても何もない訳ではない。何かを一生懸命頑張った(当時はそう思っていた)こともあるし、悔しい思いをしたこともある。誰しもがしたことのあるような成功と失敗くらいは体験したことがある。

 それでも僕は何かに成功しようが、何かを手に入れようが自信と呼ばれるものを身につけたことがない。それどころか何かを手に入れてしまったら、それがいつか消えて無くなってしまうんじゃないか、自分の元からいなくなってしまうんじゃないかと考えて、不安にもなる。

 当時付き合っていた彼女が玄関先で泣きそうな顔で僕にいった。

「まさ、、、わたし幸せ過ぎて怖いよ・・・」

(まさとは僕のあだ名だ)

 彼女のそれが、いつかそれを失ってしまうのではないかという僕と同じ不安だったのかそうじゃないのか分からない。でも怖いのは自分だけじゃなくて、二人とも怖かったんだということが分かって僕は少し安心したことを覚えている。

 もともと誰もいない世界だったらこんな気持ちは起こらないのに、誰か大切な人の存在があり、それは家族であり友人であり恋人であり、彼らと出会ってしまったことで彼らの消失が怖くなる。人間って強欲で不自由な生き物だと思う。

 2007年大学2回生の時に同学部のF教授が「人は誰しも死ぬ。死ぬことは理解できるのに、まさか自分が死ぬということは想像しにくい」というようなことをいった。

 2008年に交通事故で死にかけて、ようやく少し話せるくらいになったがまだ死ぬかもしれないリスクが残っていた時、それを知らされた時僕は死ぬのが怖かった。毎晩毎晩いつ死神が迎えに来るのか怖くて怖くて、死にそうなくらい怖かった。まだナースステーションから近い個室に入っていた時に見舞いに来た親父と話した。

僕「なぁ親父」

父「あんまり話すな」

僕「俺死ぬん?」

父「まだ分からん」

僕「死んだらどうなるん?」

父「どうもならん、無になるだけや」

僕「そうか」


 「無」という単語をこんなにも虚しく空っぽに感じたことはない。理系の父親に天国や地獄などという死後の世界という発想はこれっぽっちもなく、ただただそれは自然科学的な生命の終焉であった。母のように「大丈夫、絶対助かる」なんて何の根拠もない希望的観測もしない。おそらくそれは事実で、しかし親父がそれをいうと僕には妙な安心感が生まれた。

 親父はいつだってそうだった。僕と母と姉が恐がりなくせにホラーを見たがって、よく3人でテレビのホラー番組や借りてきたホラービデオを見た。決まってその夜は暗闇が怖くなり眠れなくて、階段を降りてまだ起きている親父のところにいった。

僕「幽霊が出たらどうしよう、怖い」

父「幽霊なんておらん」

 僕は一時期よく金縛りにあっていたことがある。実家のベッドで寝ていたら突然体が動かなくなり、そしたら決まって何かが階段を上がってきて、僕の部屋の戸を開けて、いや開けたのか開いていたのかすり抜けたのか分からないけど、とにかく戸のある方から何かが近ずいてきて僕の寝ているベッドの左側に立つ。たまに目の前まで来ることがある。僕は術の解放に成功したら急いで階段を降りてまだ明かりがついているリビングに行き、起こったことを親父に説明するのだった。

僕「金縛りにあった」

父「金縛りなんていうのは体が眠っているのに脳が起きていて、咄嗟に体が痙攣して起こる睡眠障害や」

 僕がいつも金縛りの度に大慌てで階段を下り、親父の元に駆けつけると彼はそうやって僕を安心させた。実際に霊がいるかいないか、親父が信じるか信じないかなんてどうでもいい。親父が怖がる僕のために霊の存在を否定してくれることが僕は嬉しかった。救われた。安心した。

 だから初めて自分が自分の死に直面した時も、死ぬことの恐怖よりも今ここで死ぬことのマズさの方が重要に思えて、僕を生きたいという衝動に駆らせた。それはまだ20年しか生きていないことに対する勿体無さであったり、親孝行していないどころか親不孝だったな〜とかいう後悔であったり、まだ人生において何もしていないのに死ぬのなんてあり得ないというやり切れなさだったり、複合的に膨れ上がった様々な感情だった。

 僕は死ぬのが怖いから、生きたいに変わった。

 多分・・・たぶんというか今思えば、僕が誰かを失うことを常々恐れているように、あの時親父も僕を失うことが怖かったと思う。

 大学を卒業して社会人になってからも、ドイツに来てからも「寂しさの衝動」に苛まれることがある。しかし今思うと「寂しさの衝動」は中二病的ヒロイズムの延長線上などではなくて、誰しもが持つごく自然な人間的感情の一つかもしれない。家族、社会、世界、あらゆる大きさのあらゆる性質の共同体に所属していても、どれだけ仲のいい人がいようとも、血が繋がっていようがいまいが、相手のことを信じていても、信頼されていても、孤独は在る。


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「一人でもできる」

 僕は一人でもできるような生き方をしていると思う。結婚をしていないし、仕事もテーラーだから個人事業主になれば一人でできる。そのために今はマイスターを目指して日々奮闘しているわけだが、、、

 でもやっぱり一人は寂しい。一人は寂しいよ。僕は孤独を愛するボッチ気取りだけど、今日は敢えて言おう、一人は寂しいと。

 そして「寂しさの衝動」と自信がないことについてどういう関係があるのかというと、成功体験によって生まれる「僕はできるんだ」という自分自身の価値の証明が「自信」だとしたらそんなものは勝手に少しずつ、ミリ単位で積み重なっていく。生きる分だけ、歳を重ねるだけ知識もスキルも能力も上がるのだから当然のことだ。しかし僕が32年間の人生でほんの一度も手に入れたことがない「自信」というのは「どこにも行かないよね?」という他者に対するものだ。

 母さんも父さんも、友達も、好きな人がいる時はその人も、彼らは自分を置いてどこかに行ってしまってもう二度と戻ってこない・・・なんてことはない。あり得ない。絶対ない。言い切れる。なぜそう言い切れるのか、それは相手に対して自信があるからだ。この際だからそれは自信ではなく、他人を信じる「他信」だと言いたいのだが「他信」という言葉が他者から信用されて生まれる外的要因から来る自信というニュアンスで先にインターネット上で使用されていることと、相手のことを信用しきれる自分に自信があるのだと思うと、やはりこれは自信の一つなのだと考える。

「おりこうにするから、帰ってきて」

「何で姉ちゃんは僕と遊んでくれなくなったの?」

「男子バレー部、試合で戦えるように頑張るから、辞めないで」

「自分探しの旅に出て分かったんだ。君が一番大切なのだと」

「僕がいなくなったら、誰が悲しいの?」

 ふざけんな、ふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんな!

 こういう気持ち悪くて自分でも吐き気のする独占的で傲慢な欲求、願望を他の誰でもない自分が抱いていることが悍ましい。僕は確かに一人でもできるっていってやってきた。こういう感情を露わにするのが恥ずかしいし、嫌だったから。でも一人じゃなくて誰かとやりたい。

 僕は自分の能力が上がったら、価値が高まったら誰かが近くにいてくれると思っているのだろう。多分それ自体が間違いなんだけど、そうしてやってきたし、今もそうやって生きているのだと思う。

「マイスターの息子とニートの息子、どっちがいい?」

 バカげた質問だとよく分かる。なぜならうちの親にとってそんなことはどうでもいいからだ。マイスターは僕がドイツで叶える最初の夢だから、当然その夢は叶えて欲しいと思っているだろうけれど、マイスターになれなかったからといって何かが変わることはない。そんなことで息子が人生を諦めたりしないことをうちの両親は知っているからだ。

「マイスターの友達とニートの友達、どっちがいい?」

 これもバカげている。きっと僕がドイツでマイスターになったら友達はそれを誇ってくれるだろう。でもそれはマイスターというタイトルにじゃない。それに向かって夢だったものを目標に変えて具体的な計画を立てて順番にタスクをこなしコツコツ頑張ってきたことを知っているからだ。だからもし僕がマイスターになれなくても、僕がそれでも僕の人生を謳歌することを酒を片手に想っている。

「マイスターの彼氏とニートの彼氏、どっちがいい?」

 これもバカげているというに尽きる。彼女が僕を好きになってくれたのは、僕の内面的な部分であり人柄や考え方であって、それは僕がどのような職業に就いていようがタイトルを持っていようが、好きの気持ちは変わらない。僕がマイスターになれなかったとしても、きっと彼女は「あなたは充分マイスター(my Star)よ❤️」といってくれる。

(彼女の部分は全て妄想)

 僕が一番自分のことを愚かだと思うのは、これだけ周りの人間が自分のことを信じてくれているということを知っているのに、自分が一人じゃないし周りには人がいることを本当はしっかり分かっているのに、誰かがいつも思ってくれていて僕を見守ってくれていることを感じているのに、どうしてそれでも寂しいなどと妄言を吐けるのか、どうして未だに不安を払拭できないでいるのかだ。

 どこに行けば、どこまで行けば僕は一人じゃないという確固たる自信を持てるのか。多分僕はその答えを探して彷徨い続けるのだと思う。ふとした時に忍び寄る孤独の誘い、世界から置いてけぼりに遭ったような寂しさの衝動に関して、こんなことは自分の心の中に留めておくべきことなのだけど書いちゃった。「寂しさの衝動」"das alleine Gefühl"という言葉でその孤独を、虚しさを、寂しさを、不安を、怖さを、そういった諸々の抑圧されて出し切ることの叶わない感情をここに綴る。

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