第三回六枚道場・感想

この間読んだと思ったら次が来る……しあわせですね!
あいかわらず「短くまとめようと思ったら少し筆がのった」くらいの感じで行きたいと思います。ので感想の長短は作品評価とは連動しません。なお的外れな感想があればごめんなさい(ゆるして……)

003A


●「花の歌」ケイシア・ナカザワさん

「ふふ、可笑しい」が自作にもある表現なのでドキッとしました()
読む作品が増えるごとにナガサワさんの曲の好みが少しずつ見えてくるのが愛おしい。というか、選曲の趣味が合う。僕は割と頭が固くて、書くときには「小説には何か引っ掛かりがないと」と思ってしまう質なので、本作のような情景の美しさでまとめられた作品を読むと「素直でいいんだ」と、余計なものを落とされるような心地がしてとてもいいのです。心の処方箋だ。
曲と内容の取り合わせは、これは偶然か図ってのことなのか分からないけれど、毎回アプローチを変えていてすごいと思う。第一回「雨垂れ」ではクラシックの曲にオールドスタイルの男女を描き、第二回「アイ・ウィル・セイ・グッバイ」では比較的近年のジャズのナンバーに、現代のお洒落な空気感を乗せてきた作者が、今度は古典サロン曲に現代的な男女の価値観を重ねることを試みている。作者は小説表現を音楽に沿わせているようでいて、完全に従属させないようバランスを模索している。
これは瑕疵ではないけれど、父親の前時代的な価値観はあまりにも前時代的で(しかしこういう人は依然存在する)、個人的にこういう人物と戦っていく様子はもっと泥臭く苛烈なイメージを伴います。綺麗な曲は作品全体に流れているので、父親との関係も「明言はしないけれど感じざるを得ない圧」みたいな書き方もありだったかもと思います。
留学しても音楽家になれない人はごまんといて、彼女はそこについてどんな気持ちでいたのでしょうか。後悔はないとされているけれど、そう考えられるようになるまで、ながい葛藤があったのかもしれない。彼女の小川の風景に「花の歌」が流れるようになるまでに、どんな曲が流れたのだろうと想像する。するとこの曲の優しさにも深みが増す。


●「雪に溶ける」ヤマダヒフミさん

今世界が終わるかのような騒ぎが起きていることを不思議と連想する。週末モノの醍醐味と言うか定石は「世界が終わるとしたらあなたはどうする?」という問いで、作中でも世界が終わることについての捉え方が議論されているけれど、本作は中心がそこからずらされているのが素敵だと思った。
非常事態に際しての同質化傾向と言うか一体感への肌感覚、ひとつに溶け合っていく高揚感、多幸感、そう言う感覚は滅びとどこかつながっていて、彼女はそういう意味での滅びに向かっていく世界を機敏に感じ取っていたのではないかと読んだ。
「あなたは薄情なのよ」という台詞が効いている。何に対する「情」なのだろうかと想像する。単に「スッキリするだろう」という言葉に向けられたものだろうか。世界の終わりと共に個を失う恐怖を共有できないことについてだろうか。
もしかしたら、世界の終わりを「別に」で片づけられるような主人公の、これまでの言動に対してかもしれない。というのも最終段落は「ところで」で始まっていて、彼女に対しての「謝りたい!!」は、世界の終わりとはまた別のところに根差しているかもしれない。主人公たちの物語は、書かれていないけれど、とても個人的な、二人間の問題なのかもしれない。彼女は世界の終わりを共有することなく先に逝ってしまったのだから、彼と彼女の問題は既に過去になっているんだ。世界の終わりが描かれ、私とあなたの問題が描かれ、けれどもその二つが必ずしもリンクするわけではない、セカイ系のふりしてそんな簡単に事を済ませない深く丁寧な作品だと思った。


●「無辜の檻」乙野二郎さん

本作の面白いのはテレビなんかを見て育った主人公の目線が若いことだろうか。召使いやオールドミスや、そういった言葉に対して「いまどき使わないか」と言ってみたり、管理の手間やこの国の福祉教育に言及してみたり、動かなくなった「召使い」を見て「心筋梗塞だろう」と分析したり、「権利の告知」「反政府勢力」なんて言葉も飛び出して……そういう各所に現れる主人公の「人間臭さ」が話を面白くしていると感じた。
作者さんも仰っていた通り、「六枚にどれだけ世界を詰め込めるかという勝負になってきている。」のはうなづける。作品単体に非はないのだけれど、六枚道場も三回目、一度につき十作以上も読んでいるので、読者としてはちょっと欲が出てしまっているかもしれない。どうしても、もうひとこえ、もうワンアイデア欲しいと思ってしまう。けれどもあえて言えば、別にたくさんの要素を入れて、元ネタの素養を必要とし、隠された情報を探させて、深いテーマを突き付けるものだけが小説ではないとも思う。序盤にオチが見えたって、そこで急につまらなくならなかったし、にやにやしながらラストまで読めてしまった。無駄ではない時間を使えたと思うし、作者の作品を他にも読んでみたいとも思わせられる。それはオチにつながる構成のネタ以外の部分に存分の魅力があると言う事で、読み進めやすい文体の才はいかんなく発揮されていると感じる。


003B

●「コボレモノ」千早兎羽さん

一読して「構成力すごい」と思った。下手に想像力の肥えた読者(というか僕)は展開の予想に走りがちで、本作はちゃんとそこを織り込み済みに作られていると思った。まんまと引っかかった。
機械と魂の問題は今世紀を代表する哲学だと思うけれど、機械に移された人格の方ではなく「トリコボ」された方から語るの作品には(不勉強故なのか)であったことがなかった。冒頭から「りく」と「リク」の話が進むので、クライマックスからのオチの一行が痛烈に響く。「りく」はこれまでどんな気持ちでいただろうと思うとやるせない。
誰の言葉だったろうか、「人は失うものの大きさにぎりぎり耐えられないようにできている」のであって、死者のその後に対する想像は遍く生者の論理に従属している。幽霊だって例外ではなく、やはり生きている者によって生み出された存在だともいえる。そういうわけで、少し読み方を変えてみる。
本作における「幽霊」が、コピーされ機械に移植された仮の人格に対する「真の人格」などではなく、それもまたいろはによって生み出された存在だとしたら、クライマックスの二人の僕は真偽のない対等の創造物ということになる。そうだとしたら、取りこぼしたものとはなんだろうか。もしかして「二人」の他にも、とりこぼした何かがあるのだろうか。楽しい想像が尽きない。


●「「反省文」一年二組三十五番松浦正樹」小林猫太さん

すき。めちゃめちゃ笑いながら読んだ。動く点Pへの素朴な疑問。嵐ファンの妹。サスペリアの不穏さ。たぶん家の人が見るから惰性で見ているであろう『ガッテン!』や『めざましテレビ』。すごいリアリティだ。そして慇懃無礼な文章や、大人が何を求めているのか機敏に察知しているくせに、ちっちゃいプライドが勝っちゃって、ちょっと生意気に詭弁をぐるんぐるん回しまくる様子に、拭いきれない幼さが垣間見える。前作で女子中学生を書いた作者は今度は男子中学生を書いてくれるって信じてた(いや高校生かもしれない……でも言及される出題的に中学……?)。
松浦君、きっと十年もすれば、この反省文を思い返した時に身もだえして「俺なんであんなの書いたんだろう」とか思うんですよきっと。バカなことしてたなって思うんです。同時に「でもあながち間違ってもなかったよな」とか思うんです。でも、こんな文章を「反省文」という場で披露できるのはきっとこの年頃だけなんですよね。愛おしい。
どう生きていけばいいんだろうね。すぐには分からないよね。お兄さんもそうだったよ。でも君には文才があるよ。絶対途中、書いてて楽しくなってたでしょ。たぶん国語の点数良いでしょ。「おかしくないでしょうか」って疑問は持ち続けていいと思う。でも勉強はしておこうね。先生にやらされてる感から抜け出せるのはずっと後かもしれないけれど。
なんだか気持ち悪い感じになってしまった。ごめんなさい。すき。


●「切れ痔の傷口より妖精が出てしまう事案について」伊予夏樹さん

わーい馬鹿馬鹿しい(すごく褒めてる)。
第三回の抽選が公表された時に「タイトル選手権」みたいなのが行われたんですね。そこでタイトル一覧の写真を見て、やっぱりどう考えたって本作のタイトルが目を引くわけで、けれどもみんなどこか遠慮して、あまり触れていなかった印象。「責めすぎなタイトルよりは、こういう余韻と言いますか、想像が膨らむタイトルの方が」みたいな方もいて、うんうんと頷いたりもしたのに、まさかのご本人様。しかも前作が「影」なので。ギャップが。
確かにタイトルのインパクトを狙って目をひいて、というだけならば、もう少し考えた方がとはなるのだけれど、何といっても本作はタイトルの勢いのまま六枚を貫き突き抜けて終わっているところがすごい。いや終わっていない。今もその勢いのままどこかを飛んでいる気さえする。人物名や補佐の多さや資料の数や、各所に挟まる小ネタもそれぞれに面白く、しかし全体の勢いを止めていない。お役所的な文章とかシチュエーションも馬鹿馬鹿しさと怖さのギャップを引き立てていると感じる。
そしてちゃんとホラーでもある。ただでさえ痛そうだし、出血多量はえぐいし、妖精が何なのか結局分からないし……実際に切れ痔の人であればめちゃめちゃ怖いと思う。これを読んでしまうと、もう「いつもの痔だ」なんて思えなくなるかもしれない。今後ずっと、いつ妖精がでてしまうのかに怯えながら生活しなければならないかもしれない。
ところでにホラーや怪談にはどこか滑稽な部分も多くあって、それらは語りをする上で単純に切り離せないような気がする。たとえば僕は何度も作品に引用するくらい「和尚鯰」の話が好きなんだけれど、クライマックスの小豆飯が出てくるところは、何だか笑いをさそう部分もあるし、同時に根源的な部分で怖ろしさを感じる描写でもある。思うに、笑いはどこか、話を「生きている」ものとして認知せしめる部分を担っているのではないか。冗談や会話の妙や滑稽な描写を「滑稽だ」と思える心の動きは、いかに現実に起こり得ない展開を持っていても、その物語に生きている感覚というかリアリティを与えるのではないだろうか。そういう意味で「役人の記者会見」という場での笑いどころは、現代社会において「生きてる感」を演出し得る至上のシチュエーションと言えるかもしれない。
次々と「ようせい」が出るのに怯えているのは現在進行形の時事問題だなぁとも思ったが、そういう事は考えない方が面白く読めるかもしれない。

003C

●「眼に映らない」今村広樹さん

内容に入る前に、知らない単語が出てくるとまずは調べる癖があっていろいろ手がかりは探したのだけれど、なんだか肝心そうなところに置かれている「バスク地方の格言」がどれだけ探しても見つからない。ついでに「プディング・オ・ムショール」も見つからない。オリジナルメニューか? ムショールのプリンか。ムショールってなんだ。エステルラースをウスタラースと聞き読みしているから、ムショールもムッシュ的なやつなのか。知らないことが多すぎる。ぬおー悔しい。なんなんだ。まてよ今村さんと言えば前回の道場で架空の地名を出してきた人だ。もしかして架空の格言なのか……いやしかしボーンホルムやウスタラースの教会は実在するのになぜだ。調べ方が悪いのか。語学力がないせいか。ともかくとっかかりが少ない。格言なのだから、何か紐解くような説明があるはずなんだけれど……はがゆい。
とりあえず雰囲気で意味を考えてみるけれど、知ってる人教えてください。
・話した言葉は明日にはどこかへ過ぎ去っており、もうそこにはない。
・言葉が生まれたと思えばもう別の風が吹くように時間が過ぎ去っている。
・一度言葉を発してしまえば風が噂を広げる。気を付けろ。
・神は言葉を授けもすれば持ち去りもする。
・言いたいことは後悔しないうちに言っておけ。
・言葉はちゃんと受け取らなければ聞き逃してしまう。
・言葉は風のように自然の運動をする。
なんだかドツボに嵌まった。
内容について。店員さんの疑問はそのまま読者の読後の疑問であって、いろんな解釈が楽しめると思う。男にだけ視える話し相手がいるのか。視えていないのは男の方なのか。店員さんにだけ視えないのか。読者同士でどう読んだのか話すのも面白い。この道場が、きちんと感想をもらえる(上に感想を書く人同士に比較的交流がある)ことを活かしきっている。
作品の描写からは外れるけれど、読後最初に思い出したのはワイヤレスイヤホンのことで、これがぼんやり見ていると本当に一人で会話をしているみたい。昔はユビキタス社会なんて言葉もあったけれど、今やその場所に居ながら、別の場所の人と手ぶらで会話できるのが当たり前。もう数十年かしたらイヤホンなんかもいらなくなって、すると店員さんもこの風景にまったく疑問を抱かなくなるだろうかと考える。その時風が何を持ち去るのかは知らないけれども。


●「世界はますますカジュアルに」わたくし

Twitterでも軽く触れたけれど、以前「#令和の女子高生」がトレンド入りした時に、太宰治の「女生徒」の令和版を書いてみようと思ったのがきっかけだ。けれど、「女の子の等身大を描く」なんてのはそれ自体とてもベタなやり口で、道場で修行するにはちょっと根性が足りなかった気もする。文体も、はじめにあった思考と風景混在のバランスを最後まで保てなかった。毎度のことながらハマってないなと思う。
テーマは自分の中にずっと持っているものを出した。僕のような人間は特に、惰性で生活しているとビックリするほど「生きてる感」を喪失していく。それでもなんとなく生かされてしまう生き方は、それはそれで楽だけれどしんどいなと思う時もある。そういう時、強い喪失の危機を目の当たりにすれば、人間が「次には死ぬかもしれないが死ぬまでは生きている」ことを思い出せる。あらゆるメディアにはそういう情感を持ち出すためのカンフル剤的な使い方がある。結局、楽な方楽な方に流れてしまう。
翻って、自分の生の実感のために数多の喪失を消費的に扱う事を手放しには肯定できない。そこには一人で抱えるには大きすぎる倫理の問題があるけれど、グローバリゼーションはそこのところを非常に上手くフィルタリングしたと思う。「アフリカのこどもたち」と募金箱のつながりはちょうど食肉加工場と食卓の関係に似ている。
話は戻るけれど、これを年端も行かない女の子に抱え込ませたのはやっぱり卑怯だったかもしれない。動画だけが拠り所ではいたたまれずに、谷川俊太郎を引用して詩の素養を加えたけれど、それも読み返せば逃げ道のように思えてしまう。彼女に名前がついていないのは僕の後ろめたさの表出のような気もする。


●「都市の夢」あさぬまさん

ふとしたときに戻ってきて、何度でも読みたくなる傑作だと思う。
『ナイト・ホークス』の風景は素敵だけれども、作中にもある通りその中に彼女はいそうにない。描かれている女性には連れの男性がいる。『ナイト・ホークス』は店の内側と外側に別の寂しさが流れている。夢に至るまでの自省的な没入を思うと『オートマット』の方がイメージに近い。
動けない靴下、静かに止まった絵の風景、交通手段である電車、根を張った木と移動する人間など、あらゆる静と動が示唆に富んだ形で散りばめられていて、読んでいると非常に心地が良い。彼女はまず巨人の形をとって土地そのものに目を向けさせる。そこに生えた一本の木から、今度は地面に根を張ったものの視点で土地の歴史を物語り、同時に根無し草で移動を本質とする人間を客体化する。つぎに星座の話が来るのは面白い。星座や占いは人の営みだ。人は天体の運行と身体とのリンクを試みるが、その足はどこか宙に浮いている。
こんな夢を見れたらなと思う。こんな夢を見れたらきっと幸せだ。とてもうらやましく思えてしまう。たとえ覚めて現実に戻るとしても。
夢にまつわる故事成語は沢山あるけれど、本作は胡蝶の夢という感じもするし、一炊の夢という感じもする。タイトルの「都市の夢」から杜子春も連想されるが、冒頭は梶井基次郎みたい。この連想し放題の楽しさはひとえに夢というモチーフの底知れなさによるもので、それらは「空想すること」「けれどもやっぱりそこにいること」というテーマにおいて、どこかしら通底するところがあるのかもしれない。
ところでホッパーは最推しの画家なので、白状してしまえば登場した時点で「すき……」となってしまった。恐慌と戦時を駆け抜け、都市の不安を見事に描き出し、けれども同時期のリージョナリズムに組み込まれることを嫌った彼の作品群と本作の立ち上げた都市とは本当に見事にマッチしていると思う。

003D


●「水上荼毘」化野夕陽さん

ループものという言い方をすれば、そこにはくるりと円を描いて戻ってくるようなニュアンスになるけれど、本作の繰り返しには波が浜に寄せるような往復の響きがあって面白い。仕組みそのものから抜け出せないというよりも、対峙しているものの大きさに挑むような感覚。ぐるぐるループの中であれば、当事者たちがまるで世界の理そのものと同格にまで広がっていくようなカタルシスがあるけれども、小さい島から船を出すことも出来ない二人の物語はただひたすらに弱い。いわゆる「ループ」と本作とでは閉じ込められていることの意味が違う。
死に際の取り違えはロミオとジュリエットを思わせる。あれはすれ違いそのものを悲劇として終わってしまうけれど、本作ではナギが時を戻せるのでそうはならない。悲劇はナギが言葉を持ち得ないところに収束していく。ただあなたに生きてほしいということがどうしても伝わらない。冒頭「死んだら、何も言われん」という言葉を、ナギはどんな気持ちで出したのだろう。それは相手への精一杯の説得にも思えるし、自分の無力へのやるせなさのようでもある。ただナギの言葉は、いろいろな物事が視えている高次の存在として、忠告や進言をするという感じではなく、いまそこに確かにあるものに向かってずっと語り掛けているような趣がある。そのナギのイサミへのまなざしがとてもやさしいだけに、読者としては大変もどかしい。一方でもし自分が同じような状況にあったとして、はたして上手く説得できるのだろうかとも思うが自信はない。
弔いの形も興味深い。火葬はまず衛生上の現実的な問題を解決する手段であるが、同時に上方向への無力感に起因する部分もある。天国が上にあるというイメージもそこから来る。これを垂直他界観というのに対して、ニライカナイのように海の向こうに別の世界があるとする見方を水平他界観という。神道では死後みとたまに分かれ、身は穢れもしくは器として大地に帰り魂は常世と現世を行ったり来たりすることになる。このあたりは本作に通じる部分がある。荼毘は仏教用語で、すると輪廻の輪に入ることになるのだろう。ナギの死生観には幾分かアニミズム的な側面が垣間見えるが、ナギの特殊な事情からくる部分と分離できない。ともかく本作では弔いを扱っているのに、その死生観については読者に委ねられている部分があって面白い。この島の死生観はどんな形をとっているのだろう。
「白鯨」や「コンティキ号」や「パイの物語」や、海洋文学にはどこか越宗教性を匂わせるものが多い気がする。洋上に陸の言葉は届かないのかもしれない。それがまた二人のすれ違いと奇妙に符合する。


●「ギターケースと夜と帽子」風呂さん

冬の冷たさとギターケースとがあまりにもお似合いなので終始ほっこりしながら読んだ。街灯の中をギターケースだけがふよふよ移動する様は、ホラーというよりシュールというより、どこかかわいい感じがする。僕もそんなもの(人?)に出会えたらなと思う。
主人公の動きも面白い。蔦におおわれた遺跡に興味があるも行こうとは思わない外国の話や、人に届くための言葉を扱う仕事の話が、主人公の人柄をなんとなく想像させる。背負っている人間がいるはずの空白にはあまり興味を示さず、ギターケースに帽子をかぶせるところで、ああ彼は人よりもモノに回路を持っているんだなと思う。これが普通にギターを背負っている人であれば、その人がどんなに気の良い人でも主人公には響かなかったのではないか。というよりそもそも、主人公がそういう性格でなければ、ギターケースの彼はその日姿を現さなかったのではないかとも思う。
散歩と旅の比較も心地よい。遠くへ行くとなるとどうしたって新鮮な発見を期待してしまうし、実際に行って、たとえ何か新しい物事を見つけたとしても、それが自身の期待から無理に生み出したものなのか、本当にその地にしかない出会いだったのかを判別するのには労力がいる。散歩の手軽さはそうした問題を起こさないし、新しい発見や面白い出会いがあったとしても、それをことさら特別視することなく日常の内に落としこむのが、たやすい。ギターケースと出会ったのがもしボロブドゥールだったら、やっぱり彼の心には響かなかったかもしれない。


●「ここ十年」吉田柚葉さん

出会った人が出会う前にどうしていたかは、普段感じているよりずっと不定なのだろう。小さい頃祖父の葬儀の時に知らない人がたくさん来て思い出話に花を咲かせるのを聞いて、ああ僕は祖父の、祖父であった部分しか知らなかったんだなとショックを受けたのを思い出す。男もやはり同様に、妻のことを出会った以降にしか観測していないし、よしんば妻や周りの人が過去を話したとしても、それは伝聞以上の体験にならないだろう。
ロウソクはファラデーからの着想か。ディラックの海はどう使われたのだろう。視えないけれどあるはずの過去を、ネガティブな想像で埋めていくような物語進行に重ねたのだろうか。それはここ十年のうち、出会って後の妻の様子から導き出された想像だったのだろうか。ラスト「何かひっかかったが」とあるからには何か引っ掛かりがあると思ってしまうのだけれど……
作者は物理にあかるいのだろうか。なにぶん素人知識で量子力学は難しすぎて太刀打ちできない。ごめんなさい……

003E


●「風呂と桶」澪標あわいさん

この(良い意味で)物語をさくさくと進ませない力はどこから来るのだろうとしばらく考えたが、熟語が多いんだ。それが読むスピードを抑制する。一呼吸置かせる。面倒くさがりにはちょっと壁があるけれども、入ってしまえば心地よい。それが風呂に似ているので作品内容とシンクロして、上質の趣を醸し出している。前作と通じて、雰囲気にこだわりのある作家さんなのかなと想像する。
対して物語という点では想像の余地がとても広い。広いのだけれど、自由度が高いわけではない。人物設定とロケーションがそうさせている。主人公は中学生で、たぶん女の子で、旅館の子なのだろうか。舞台はきっとそう広くない温泉地。水上駅とあるから水上温泉かもしれない。歴史ある温泉地だけれど、バブル以降は客足が伸び悩んでいると、調べて知った。作中の描写的にも、整備されている割に人のいない浴場(実家の風呂を手入れしている? 開場前か、オフシーズンなのかな?)、近くに野球部の声がする生活との距離感を考えると、こじんまりと寂れたような印象を受ける。
こういう静かに閉じている土地では、子ども達の大人や世の中の仕組みそのもへの違和感は、はじけだすような感情の発露というよりも、抗う術を持ち得ないが故のもどかしさとして現れる。ラストのシーン、このままずるずると居続けては色褪せては消えてしまうのではないかという不安に、とてもセンシティブに思い至っているけれども、跡取りになんかなるものか、絶対に町を出てやると言い切れるほどのバックヤードを、幼い主人公はまだ持ち合わせていないのだろう。
この子のことを見届けたい気持ちが強くある。以前島根の玉造温泉へ旅行した時地元の子と少し話したが、彼らは地元に愛着があり、しかし目線は意外にも広く外に向いていた。自分は決定的にその土地の人でありながら、外からやってくる人との交流が日常となっている、観光地のアイデンティティはグローカルなのだと思った。なにぶん彼女(彼?)は若いし、たぶん賢いので、このひと時のモヤモヤもやがて別な形に変わっていくのではないかと思う。それがいい方に行けばいいのだけれどとも思う。


●「交換」6◯5さん

第一回に出ていた「朝」の癖のある文体と、第二回「夕暮れ」の抒情性を織り交ぜ重ねてきた印象で、タイトル的に「交換」ってそう言う事かと疑ってしまった。読み過ぎか。とにかく文章が、家にいるうちは随分読みやすく、煩わしいことを思い出しながら病院に入ると一文が長くなり、クライマックスでそれも崩れて細切れになるのは(少なくとも最後は)意識してされたことだろうと思う。
内容は、ふとしたきっかけから自分を客体視することで、日常の不確かさに思い至る話と読んだが自信はない。ラストの眩みがレントゲン写真を相対できなかったことに起因するのか、医者の「ただ……」という不穏な言葉がさすものによるのかは判然としない。ただ診察室でのこういう経験が珍しいという訳でもない。僕も病気がちなぶん、CTだのMRIだのを見せられて「これが……わたくし……?」と思わせられることはしばしばある。「ホラホラ、これが僕の骨―― 見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。」という中原中也の詩も連想される。
主人公のルーチンから外れる恐怖に関しては、残念ながら完全には共感することができない。でも主人公のような人が少なからず居ることは知っている。なんとなく、主人公にとっての日常というのがとても小さいのだと思う。昨日までのように今日が来て、今日までのように明日が来ることを大切にしている。それは悪いことではないけれども、小さいがゆえに弱く、ほんの少しのことで揺らいでしまう。いや、「ただ……」の後に続くのが大きな病気だったら、ほんの少しの事ではないのかもしれないけれども。
気がかりの夢から始まり、日常のルーチンへの感覚を思い、身体の違和感を持て余す様子は、カフカの「変身」に通じるところがある。内容は大きくはかぶらないので、これもまた邪推しすぎかもしれない。


●「あがちご日記」いみずさん

嫌味でも何でもないのだけれど、かなり恵まれた環境で育った自覚はあって、だからこういう小説の登場人物と出会った時、どう向き合うべきかを考えあぐねてしまう。つらい、悲しい、ひどいとは簡単に言えるのだけれど、実際にそういった状況に立たされた人の気持ちが分かっているのかと言われると疑問を持たざるを得ない。彼が幸せかそうでなかったかみたいな単純化された話を、外野の僕等がどうこう言うことも出来ない。そういう意味では、タイトルの取り方についてはすこし慎重にならざるを得ない。読みようによっては、主人公の読み方を「償わされるかわいそうな子」に集約してしまうかもしれない。
関係者小説とでも呼ぶべきか、残された人々を扱った物語は結構あるけれど、本作で上手いなと感じたのは、主人公の認識に段階があるところを丁寧に拾っているところだろうか。特に子供であったならば、「父が何をしたか」「それによって父はどうなるのか」「それがどれくらい深刻なことなのか」「それによって残された自分たちがどんな扱いを受けるのか」をすべて一気に理解する、という訳にもいかないだろう。本作では文章の幼さを段階的に成長させ、同時に主人公の、認識の度合いも深まり変化していく。父親が二度と帰らないことに、その罪の重さに、自分がこれからどういう目で見られていくのかに、どの段階で気付いてしまったのだろうと思いながら読むと、彼の数年を縛ったものがいかに協力であったかが分かるはずだ。
出されなかった最後の手紙から、作中に書かれなかった父の手紙のことも考える。いくら出すつもりのない手紙でも、またいくら六枚という短さの中で説明の部分が必要だとしても、「生きてる価値のないクズ人間~」からの部分は妙に浮いていて、主人公の心の底から出た言葉としてははまっていない感じがする。仮に主人公が、父の処遇を納得せしめんがため、自分に言い聞かせるように書いたのだと読んでも、この部分の文章は後の「そやけど~」に続くためにあらかじめ用意されていたように思える。いうなればこの最後の手紙にはプロットが存在する。「主人公がその瞬間思ったことをつらつらと書いた」印象が薄い。そこで次のように想像してみた。「生きている価値のないクズ人間」「どん底におとしといて」「虫が良すぎる」などの文言は、作中には登場しない父からの手紙に書かれていたのではないだろうか。父が自分のことを自嘲的にそう綴るのを引用し「そやけど」と続けたのではないだろうか。ちょうど全段落で、父からも手紙があることは匂わされているので、この可能性は十分考慮できると思う。父がどんな気持ちで息子の手紙を読み、また返事を書いたのかは、やはり推し量ることが難しい。
それにしても父に届く最後の言葉は「ええ加減にせえよ、ほんま」である。主人公は最後の手紙を、どうして出さない物として綴ったのだろう。父の陰に付きまとわれ、けれどもどこかでそれに寄り掛かって生きてきたこれまでの自分から決別する意思があったのだろうか。短い文章の中で、考えることの非常に多い作品だった。


003F


●「アイリスアウトで夢から醒めたい」中野真さん

中野さんの小説の登場人物を、ブンゲイ実況をやっているハギワラさんがよく「だめだなぁ」という。これはものすごく愛のある「だめだなぁ」で、口にする機会はないけれど、僕も中野さんの小説を読むたびに同じことを言いたくなる。それは全然生き方も立場も違うはずなのに、作中のダメさがぴったりと自分に重なるからで、こんな小説を書ける人は他になかなかいない。
作者のそこいう登場人物像には仕掛けがあって、仕事に実が入らず、タバコ、ギャンブル、酒をたしなみ、人のぬくもりを求めて、しかしそれを手放したり、また求めたりを繰り返す、この加減が絶妙なのだ。思うにこういう要素は、その人の他の部分に魅力があれば(そしてそれぞれに対して強いマイナスの気持ちがなければ)、うっかりギリギリ許せてしまうかもしれない範囲にある。そしてこれらは人類普遍の持ちうる弱さに通じている。だから作中の彼らを「バカだなぁ」なんて見下して、自分がまだましな位置にいると安心するようなことはもちろんできないし、また「こいつも自分と同じ……」と逃げ道や安心材料に使うことも出来ない。ただただ他人も、自分も弱い部分があることを分からされる。中野さんの作品におけるやさしさは単なる登場人物の性質を越えて、そういう部分に根差している。
本作では主人公の持つ「超能力」のワンポイントがまた効果的で、超能力なんてものを持っているのに、主人公が地べたで生きているのが良い。これは超能力がちっぽけだという事ではなく、もっと大胆に、如何様にも使い道がある能力を、小狡く使って生きて行こうという発想ができないのに、自分のことを詐欺師同然だと顧みる主人公のちっぽけさが際立つんだ。ちょうど、たびたびアイリスアウトの憂き目にあうのに、秘密道具を一線を越えて悪用できないのび太君みたいに。
小説には何年たっても「あれはよかったな」と思い出して語りたくなるタイプのものと、ふと読みたくなってその都度読み直すものがある。僕にとって本作は後者になると思う。


●「退化夜行」松尾糢糊さん

改行のない文章は六枚に収めるためだろうか、図ってのことだろうか。なんにせよ息の詰まるような雰囲気と誰が何なのか分からなくなる混乱にマッチしていたのではないかと思う。カイビエンサは何語だろうか、海底語だろうか。「我々にとっては退化する感じ」とポルは言うが、これは「進化」と「変身」のどちらを指すのだろう。素直に読めば海底人が人の姿に進化したと言う事になるが、海底に棲んでいて、どうして人の姿を取るように進化したのだろう。「退化する感じ」が「進化」にかかるとすれば、もともとは海底人も人だったのだろうか。ソルト様とはいかなる存在か。どうして彼らは人の遺伝子を必要とするのだろうか。そしてラスト、チンジュ婆はなぜ陸に住むことを選んだのだろうか。話の進行がストレートな分、要素要素に疑問や想像が膨らむ。
バックヤードが壮大な物語は、それが明かされていない間もわくわくして読める。六枚の内に設定描写を詰めすぎないところが功を奏していると思う。古今東西の神話や神話的小説群には、書かれていない部分を想像によって補う行為によってはじめて立ち上がる物語というのがいくつもある。ただ作者がはっきりしているうちは、作者によって書かれたものが原典の扱いを受けるわけで、読者としては、投げっぱなしだった疑問がいくらか回収されるような次の情報開示を待つ体制に入ってしまう。有体に言えば、続きが気になるよ。気になる……


●「タイトルと著者名」一徳元就

なんじゃこりゃ。なんじゃこりゃ!
元就さんといえば第二回で、縦読み小説を出してきた前科がある人だ。今回も何か仕掛けがあるのかと勘ぐってしまい、あれこれ試してみるも何にもつかめない。縦に読んでも逆さに読んでも、あたまの文字を拾ってみても意味のようなものは見いだせない。
しかし改めてぼんやり見つめていると、なんだかそこに人間がいるのが見えてくる。犬が好きなのかなぁと思ったり、元就さんの小説も読んでる、と思ったり、バンプ聴くのかと思ったり。人間味を感じるのは、このタイトルと著者名の羅列に「均整」が視えないからかもしれない。何か図ったところを前面に出した時に現れる、ある種の「均整」は、どうしたってゆらぎや偏りが出来る実際の物事に対して、なんとなく不自然だ。そういう不自然さがこの一覧からは(少なくとも表向きでは)視えてこないから、なんだか自然に懐に落ちてしまう。もし「見聞きしたものを並べただけですよ」と言われても納得してしまいそうだ。
僕は研究の方で読書会を取り扱うのだけれど、おすすめ本紹介型の読書会の魅力はまさにこう言うところにあって、「この本を好きな人がこの本を読むんだ」とか「この作者の中でこの本を選ぶんだ」とか、どこか人間的な部分を手掛かりに読書の幅を広げられるのが心地よい。好きな本を紹介した人への信頼に、本の評価を預けることで、それぞれの本の「当たりはずれ」にぴりぴりとこだわる必要が軽減される。本作で言えば、この「タイトルと著者名」のうちにいくつか知った名前や好きな作品を見つければ、他の作品もちょっと読んでみようかなと、楽に思える。それはこの一覧の背後に、それを並べた人の影が見えるからだ。



003G

「希臘風短篇〈饗宴〉」浮屠士さん

ぅわーお、タイトルを見た時からちょっと覚悟はしていたけれど、またマイカさんですね。プラトンの饗宴を引っ張って来たってことはエロスについての物語だろうか。
僕は本作品が誰のために書かれたものなのかをつかみかねている。誰も好意的に受け取らないとか、そういう話ではなくて、むしろ誰かに読まれたい、読んで何かしらの反応を引き起こしたいという気持ちは普通以上に感じる分、それが誰に向けられた言葉なのかが分からない。本作は読まれることを期待しているのは確かなのに、その期待がどういった動機に根差しているのかが、見えてこないので、何だか歯がゆく思ってしまう。これもひとえにこういった作風(露悪的な部分ではなく、衒学趣味的な部分)に対するコードを僕が持ち合わせていないからで、まだまだ読み方の幅が狭いなと痛感させられる。 
前作との兼ね合いから、物語進行はツールでしかないと読んだ(誤読かも)。とはいえ、言葉そのものに特別味があるともいいきれない。とすれば描写だろうか。ある出来事を、どのような形で文に起こすか、また書き起こされたものがどう読まれるのかという試みそれ自体について、この作者さんは興味があるのではと想像する。


「恋のようなもの」夏川大空さん

恋って難しいですよね……
何をもって恋というのかについては古今東西いろいろな線引きや格言があるけれど、体感としては「もしかしたら……好きなのかも」「恋しているかも」という疑念と言うか気付きが自分の中に生じた瞬間が分岐点だと思う。そういう意味で、本作では「恋のようなもの」「恋ではなかった」と意識出来たことでぎりぎり踏みとどまれた物語ということだろうか。彼の描写は徹頭徹尾胡散臭くって、読んでいる側からすれば少しハラハラもするのだけれど、彼女の気持ちとしてはどうだったのだろうか。「恋かも……」というぎりぎりの瀬戸際まで一度到達して、タイミングに助けられてねずみ講へ引きずられずに済んだのだろうか、それとも最初から「恋じゃない……」と言い聞かせながら会話をしていて、その後ろ向きの防衛が皮肉にも男を跳ねのける結果となったのだろうか。どちらで読むかで女性の気持ちの読み方が変わってくる。しかしいずれにせよ最後に残るのは形容しがたい虚無感なのだから始末が悪い。主人公の女性はこの経験をきっかけに恋を諦めてしまう事のなさそうなのが救いだ。


「されし雷と暴風の咲かれ足る結晶のケトラルカ」ハギワラシンジさん

ケトラルカ! 元気にしてたか!
と思えば沈んだピアノも出てきた。楽しいぞ。
ブンゲイ実況でたまに漢字の読み間違いがあるの、演技じゃないのかという疑問が沸き起こった。thundon ner aim eclare(きるところは想像)は何語なのだろう。読み方他の法則が複数の語にまたがっている感じがして読み解けない。雷と穢クレールに相関はあるけれど、つづりは必ずしも一致しないから、言葉の響きからアルファベットに起こしたものかな……
第一回で「朱色ジュピター」を出された時には全く気が付かなかったけれども、木星も雷だもんね。そうかこの作者さんはずっと雷(か木星)の物語を繋げていたのか。本作で言えば、産み落とされた雷の物語。とすれば石(別作品の話ですみません)と出会う以前の話かしら。「朱色ジュピター」とはどのくらいの距離でつながるのだろうか。作者は僕が細切れに六枚を完結させている間に、ハギワラ版宇宙の旅というか、着々と壮大な叙事詩を築きつつあるのかもしれない。
そしてすごいのはその小出しの「分からなさ」は超絶上級なのに、「意味わかんないからつまんない」とならないところ。これは各文章の短さに起因するものだろうか、はたまた可読性を無視しつつも読むことを十分に意識された文体がそうさせるのだろうか。なんにせよ、続き、という形では現れないかもしれないけれど、もっとこの世界観を覗き見たいと思った。
余談だけれども。雷という存在は僕は元々とても苦手で恐怖の対象でしかなかったのだけれど、考えるうちにだんだん好きになって来た。ありがとう。


003H

「みせじまい」和泉眞弓さん

しっぽり大人な雰囲気だ。ぽつりと灯りをともす店の、喧噪のありつつも静かなさまが伝わってくる。
女性的なもの、男性的なもの、属性から離れた個々人の好みや性質が一枚の内に並んでいて、こういうミニマルの環境と視点において人は人でしかないのだなと感じさせられる。「人口動態統計」がひとつだけぽっかりと遠くの概念であるのがアクセントになっていてとても良い。統計も男女も烏賊の臓物も寄生虫も、一つの思考の流れとしてそこに存在することはなんだか愛おしいと感じる。
ぜんぶにそれぞれ味わいがあって、御世辞ではなく好きなのだけれど、特にと言われたら七首目で「喰らうためなら蟲をも煮出す」の言葉が心地よく、こっそり何度も口に出してしまう。釣った魚をさばいたりすると必ずと言っていいほどアーニーがいて「うぉう」ってなるのだけれど、やっぱり食べたいのでいろんな方法で工夫する。いかそうめんやアジのたたきも寄生虫対策だと聞いたことがある(俗説かもしれないが)。料理の手間は確かに手間なのだけれど、そういう事に思いを馳せていると(ひとって生きることに貪欲だなぁ)などと思って楽しくなる。


「カニクイザルと共に」草野理恵子さん

カニクイザルというサルがいるのを初めて知って、調べてみると確かに端正な顔立ちのサルだった。しかし一部は牙は向いているしカメラをにらんでいるし、これが近縁種なのかとおもうと不思議な気持ちになる(もちろんmonkeyなので正確には近縁というには遠いのだけれど)。
カニクイザルは彼女の中に居る存在なのだろうか。それとも実際にいるものとして読もうか。また二頁目中ほどの一行空けで視点は入れ替わるのか、同じ目線で読むべきか。読み方が沢山あって楽しい。
前半はカニクイザルのことしか書かれていないけれども、身代わりの方がきっと本来の私より万事うまくやっていて、器用で愛嬌があり、勉強も出来、流れにも取り残されずにやっているのを見て、私はどんな気分だったのだろうと考えてしまう。ことばが通じていないのは私の方なのか。理想の私や、代りになる存在であれば周りと上手くやれるのだろうか。わたしが本当のわたしだと思っているものはなぜこうも上手く立ち回ることが出来ないのだろうか。そんなことを考えているのかなと読み、「キーキーという声しか~」の一文にはゾクゾクとさせられた。
後半はひとまず、カニクイザル側から私を見た話しとして読んだ。カニクイザルは、彼女にどんなきっかけで必要とされたのだろうと思うとすこし切ない気持ちになる。カニクイザルから見たすべてが偽りの世界とは何なのだろうか。逆にして読むと今度は、偽りだったのはどちらもしくは何だったのかがやはりぼやけてくる。けれども彼女たちの世界は小さく閉じようとしていて、読後にはどこかで経験したことのある様な寂しさが残る。しんみりといい作品だった。


「いたいのいたいの」紙文

一読した時、反復が良くも悪くも目立つなと思った。結句反復にはリズムとりと強調の効果があるけれど、本作はしっかりとしたストーリーラインというかテーマが垣間見えるので、わざわざ繰り返したのはどうしてかなと考えていた。「娘に手を~」の部分がやっぱり一枚目の中では肝だけれど、繰り返されると最初の一節で受けた衝撃が段々薄らいでしまう……
……いや、まさかそれが狙いか? だとするとえげつない。日常の小さな場面と、「娘に手をあげた」という文言を織り交ぜ反復させることで、感覚を麻痺させ、はじめに感じたひどさが薄らいで、日常の、当たり前の物になっていくのを体験させているのか……? 作者の思惑は当然知れないが、そう読めてしまうともうただの反復には見えなくなる。三節目の「おかあさんに~」に至ると心のどこかで「うん手をあげられたんだね知ってるよ」と流している自分がいる(ひどい)。
そうして気持ちが凪いでしまって下段に移ると「つぎは私の番」と来る。この文言も巧妙だ。上段で母親目線に漬かっていたうしろめたい読者、というか自分にとって、「次は私の番」という文言には、どこか復讐されるような響きがある。そこで娘の目線がこちらを向いて、ハッとする。でも、娘は「はーい」というだけだ。その素直さのギャップによって、娘が母親にへの抵抗の術すら持たないことが、より際立って伝わる。
最後の一文は誰に向いているのかを考えると難しい。こんな背景を伴っての「大好きだよ」はいわば親と自分自身と読者へ向いた全方位の呪いなのだけれど、その呪いがちゃんと効くのは、多くは手をあげないタイプの人だと思う。虐待をする親の気持ちなんか分からないけれども、大好きだよと言われてそれが心に刺さってどうにかできる強い人もいれば、その言葉を免罪符の逃げ道にしてしまう心の弱い人もいるかもしれない。本作に出てくる親は手をあげたことを自覚しているから、娘の言葉がいい薬になることを願う一方で、「つぎは私の番」に感じたほのかな毒、無邪気を越えた恣意的な目線をもう一声ほしかったかも、と、無理なぜいたくを言ってみる。
少し技巧の面で深く読み過ぎた気もしないでもないが、この作者ならやりかねないとも思う。

おわりに

★以上で第三回の全感想になります。前回書きながら(投票先決める基準書くの、なんか生意気でいやだな)と思ったので投票時の評みたいなのは省きました。投票先は以下の通りです。
A「花の歌」  B「「反省文」一年二組三十五番松浦正樹」
C「都市の夢」 D「水上荼毘」 E「風呂と桶」
F「アイリスアウトで夢から醒めたい」
G「されし雷と暴風の咲かれ足る結晶のケトラル カ」
H「みせじまい」

今回も大いに楽しませていただきました。自作を出すことと同じかそれ以上に、皆さんの作品を読んで感想を書くのは勉強になります。また拙作にやさしい言葉をくださった方々、投票してくださった方々にお礼申し上げます。めちゃんこ励みになります。
それでは、次回も楽しみにしております。

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