第二回 六枚道場 感想

第一回の時はグループごとに記事を分けたのだけれど、記事が大量になってしまい、普段のずぼらさも相まって、noteが感想だらけになりそうなので、今回は随時加筆していく形でやってみようと思います。誤読あったらごめんなさい。​

002A

●和泉眞弓さん『伝法な人』

あるある……あるあるだ……最後に諭吉持ってた人が負けなやつ。僕もよく巻き込まれたのを思い出す。親戚の「誰が払う」戦や、そうい会話の中で粗が目立つ建前のありようを見て、子どもは大人のわずらわしさを知るんです。本作に心当たりのある方はぜひとも、こういうやりとりを小さいお子さんの前では控えてほしい。ちゃんと見ているから。
 ところでこういう「あげる」VS「もらう」の仕組みは単に社会的な立場を鑑みての戦略的な判断ではなく、多分に儀礼的な要素も含んでいて、例えばマルセル・モースの『贈与論』に詳しい。贈り物は人を越えた自然の存在を前提にしている側面があって、こういう人付き合いから政治経済、宗教儀式にも通じている、その点、本作のクライマックスである「諭吉逆争奪戦」の下敷きとして、弔いを通じた社会関係が丁寧に書かれていることや、ラストの「重く感じられる」といった表現はとてもしっくりくる。同時に男性としてふるまうかつての女性の主人公や、相手の長男の存在など、如何様にもとれる要素も出てきていて、どこか伏線めいている。贈与における社会的義務と儀礼的側面が六枚の中に綺麗に収まっているのはすごい。結託していても、「私」と「母」とでは、やっきになる動機が違うのかもしれない、など考えました。

追記。瀬戸内方言が読みやすい! ばんざい! 見習いたい!

●いみずさん『声のまにまに』

なかなか声が出せずにうつむいたりはにかんだりしてしまう人間にとって、一言何かを伝えるのは大仕事だ。大仕事なのだけれど、それを「崇高な」「立派な」「声を出さないことより優れた」ものとは扱わないところに本作の魅力はあると思う。発言して伝えるのは当たり前。発言に難のある人が立場を弱くするのも、悲しいかな現状ではよくあることで、果梨奈の抗議が「出来ない人間を笑う」ことよりもその小さな声さえも奪う暴力の構造に向けられている様には、読んでいてハッとさせられる。サラの台詞「この国では話す者は伝わるまで話さなければならない」のも結局は「ルール」。主人公の一言を発するまでの物語はだから、未熟者の成長話ではなくて、声の小さい人間には生き辛い世の中で、それでも生きて行かなければならない人たちを受容するような、認めてくれるような趣がある。タイトルの「声のまにまに」も、声に頼らなければやっていけないともとれる。
「ちゃんと喋ればいじめられないよ」というのは、なんだかいじめられる側にばかり問題があるみたいに思えてしまう。作者はこのあたりをちゃんと知っていて上手に拾っている様に感じました。

●松尾模糊さん『巨人と涙の海』

とってもやさしい話。もちろん巨人もじいさんもやさしいのだろうし、読者としては視点移動がものすごくスムーズで読むにやさしい。見上げる巨人。巨人の見る先のビル。屋上の鳥の巣、その卵までちゃんとリードしてもらいつつ、その間に望遠から広角、マクロズームまで、視野の広さをこれでもかと変化させる。本作は視野にこだわった一作のように思う。
とするならば巨人は巨人だけれども、御世辞にも視野が広いとは言えない。遠くの高層ビルの鳥の巣を眺めて涙を流すけれど、それ以外の物もいっぱい目に入ったろうに、50年は泣いていない。50年前もやはり動物たちのかわいそうなので泣いている。翻って水没する町に巨人は無頓着だ。動物にしたって、ガラガラヘビを水に投げ捨てても、小鳥が助かっていれば巨人にはそれでいいのだから、全部が全部かわいそうという訳ではない。「巨人の琴線は限られている」というのは大事なことのように思う。これは人にも当てはまる。遠くの小さなことにばかり目が行って、近くの様々に思い至らないことはよくあるし、それはまあやさしさと呼ぶには十分で、無垢で純粋で、悪い感情ではないのだろうけれど、手放しでほめられたものでもないような気がする。

★三者それぞれによく(きっと道場に悪いものなんて投下されない)、迷ったけれども、自分が同じ立場に立たされた時、ふと思い出すことが出来て助けになってくれそうな『声のまにまに』を推します。

002B

●中野真さん『ワイパーに笑われた』

「やさしい心の持ち主は いつでもどこでも われにもあらず受難者となる。 何故って やさしい心の持ち主は 他人のつらさを自分のつらさのように 感じるから。」
吉野弘の詩「夕焼け」の一節で、僕はこの言葉に何度も救われた(気になった)し金言だと思っている。やさしいと言うのは人に何かしてあげることではなく、ひとの心のあれこれに気が付けることだ。それは社会的に崇高であるとか言う以前にしんどさを伴うことで、日常ではつい忘れがちになることでもある。ともかく自分のことをやさしくないのかもと思い至れる人は優しい人だと思う。本作の主人公も作者もたぶんそんな人だろう。「他人の運転にいちいち傷つくのは僕の気が小さいから」という言葉が素敵だ。人の運転の問題からマナーとか社会問題とかではなく、自分の優しくなれなかったエピソードにたどり着くのも愛おしい。
タイトルが作品の後にあって、作品の全体を回収するのも面白い。流れ星のような雨を拭い、機械的な反復が人間的な感情の反復を笑っていると言うのは何とも皮肉っぽくて面白い。小さくてきれいな話だなと思いました。

●夏川大空さん『わたしの彼女』

深刻な同性愛とは少し違う、若干カジュアルな女性同士の恋愛話。冒頭の「男なんてやりたいだけ」という言葉から見えてくる、型にはまった恋愛観そのものではなく、気持ちのつながりや同質であることを求める心がライトな文体で描き出されていて心地よく読めた。身体でなく気持ちで通じ合うのは大切だと思う。気持ちで通じ合っているからこそ、お互いに他の(なかなか振り向いてくれない)人に強い感情があるのを、共有し、受容することができるんだ。ステキ。
ところで僕はギャルにも都会の女の子にもあまり詳しくないのだけれど、作中の表現を見て「今のギャルかな……?」と言うところがぼんやりと曖昧な印象だった。LINEをしているからここ数年の話だと思う。しかし今の子はどちらかと言えば「やばい」より「えぐい」かもしれない。「プロフ」という言い方はまだするのかな。「マッチングアプリ」という言い方は聞くけれども。このあたりは登場人物二人の年齢にもよるかもしれないけれど……何より、作中に登場する「小悪魔ageha」は三年ほど前に休刊している一方、昨年の「egg」の復刊が記憶に新しい。2010年代は清楚路線が隆盛を極めてギャルは作中にあるように「絶滅寸前」なのかもしれないが、近年復活の兆しがある。もし本作が「今のお話」として書かれたのであれば、令和のギャルを読んでみたかった感が、少しだけ残る。

●今村広樹さん『理由』

素直に、もっと読みたいなと思った。六枚という規定のさらに半分。しかし世界観は長編一本出来そうな広がりがあって、故に残りの、描かれなかった部分が気になってくる。こと冒頭の国の説明が後半の設定にからんでいなくて、別に現代日本でも通るお話なのが少し気になる。
「彼女」が誰なのか錯綜するのは意図的だろうか。ラストで銃口が読者である私たちにずっと向けられていたという展開(誤読?)はすがすがしい。これは痛快で気持ちがいい。しかしぼんやり読んでいると、「彼女に関するいっさいがっさい」である母親をも始末してしまったと読めなくもない。この読み方をするとちょっと矛盾が出てくる。しかしこれを活かして、銃口の向きを次々に誤認させるような展開(彼女⇒母親⇒誰かほかの人とか⇒最後にこちら)とかにするのも乙かもしれない。野暮なことを言ってすみません。
ところで。ところでです。依頼人が主人公のことを「貴女」って呼んでますね。つまり、アレですね、ボクっこですね。ボクっこいいですね。それだけで好感度マシマシですね。これはとても個人的なことだけれども。

●紙文さん『いのちのなかにあるもの』

えっぐ。すき。すき。えっぐ。
……気をとりなおして。本作をどう読むかは大変悩ましい。食糧問題や慰安婦問題にも回路がありそうだが、あまり「男性」がフィーチャーされた印象はないし、おとなの暴力や人間の醜悪と読むのはたやすいけれど、それにしてはおとなの描写が少ない。主人公のぼくにとって一番の問題はラストの「しらはの裸体が目に焼き付いて離れないことの意味を知って」しまったことだろうから、そのあたりが中心かもしれない。
起こってしまったことの凄惨さに比して、筆致は鮮やかに美しい(これは作者の常の文体かもしれないけれど)。小指を食べるシーンもどこか妖艶で幻想めいているし、クライマックスのシーンでも、嫌がるしらはを切り刻むようなところは描かれず、歯型を恥ずかしそうに手で隠す様は、どちらかというと綺麗だ。身体のモノ的な美しさや、指を口に入れる場面は川端康成『片腕』のラストを彷彿させる。きっと主人公はカーテンの中に居るしらはを見て、酷いとか残酷だとか許せないという気持ちより先に、きれいだと思ったのではと想像する。だから言い訳を探している。小指を口に入れられ食べてしまった僕はおとなたちと同罪で、その味(実際に味はないけれど)を知ってしまっていては、もう後戻りはできない。食べることは腹を満たすという目的以上に儀礼的で、その意味するところを幼さゆえにセンシティブに感じ取っている。本作に流れる、僕の視点の美しさは、直情的に腹を満たそうとするおとなたちの行動を越えたところにある残酷さではと思う。
今後彼らがどうなっていくのだろうと考えてみる。僕はあの列に並ぶのだろうか。食べても死なないしらはは、ただものとして扱われるのか、神様のような存在になっていくのだろうか。
ところで「饅頭」はどう解釈すればいいのだろう。マカオの人肉饅頭の話なのか、それとも「お供え物」的な意味なのか。読み返すほど考えることが増えていく良い作品だと思った。

★『ワイパーに笑われた』『いのちのなかにあるもの』で迷いました。これは本当にあまりよくない評価方法かもしれないけれども、前作との兼ね合いで決めさせていただきました。あれこれ考えながらも進んでいく文体を武器にせしめた前者と、とても好きなのだけれど、食人と言うインパクトの出しやすい要素をのぞいた時、その独自性が赤ちゃんテレビに対して弱いかもという後者という判断で、『ワイパーに笑われた』を推しました。

002C


●6◯5さん『夕暮れ』

中原中也の詩「雲」の、「近い過去はあんまりまざまざ顕現するし 遠いい過去はあんまりもう手が届かない」という一節を思い出した。額縁の絵⇒絵を描いた時の記憶⇒その絵の中の記憶⇒当時の記憶と、彼女にたどり着くまでの距離が階層として描かれているのかなと想像した。
大量の情景描写が伏線と言うか、物語上必要なものとして回収される。風景画を描くとき、カンバスと、実際の風景とを行ったり来たりしながら視点を切り替えて描くけれど、絵を見て過去を思い出す様子は、そうした製作時の描写対象の移動に重なるところがあって、これを文章で表現できるのがただただすごい。絵は時を止めたまま想像が加わり視点が加わり、そこで起こったそのものとして思い出されなくなるようにピン留めされていくのに、むこうの景色は刻々と変わっていく、そのギャップがまた切ない。写真をやっていた頃は、切り取った瞬間がすぐさま時間から置いてけぼりをくらうのに度々絶望したけれど、絵は「重なったあれとこれの間に私の記憶が上書きされる」ことで、また違った寂しさが生まれるのかな。
本作はそれでも、感傷に流され過ぎないところがとても素敵だ。エモーショナルな走り出しに比して、娘が出てきてからの描写はどこか武骨でリアルだ。「何を成すにしてもその瞬間的な衝撃は、関係が緩衝し吸収し、穏やかな海のように大きな曲率を持ってしまう」という一節は、思い出になった過去がノスタルジックに美化されて描かれることへの自覚と抑制と読んだ(違ったらごめんなさい)。想像される男女の物語はもう遠い昔のことで、絵の中でだって本物の彼女に会えないのかもしれないけれど、ひとたびカンバスから目をそらした主人公はちゃんと娘と今のその瞬間を生きている。強い。こうありたい。

●小林猫太さん『私の先生』

すき。こういう話を書きたい。たくさん書きたい。やられた。僕は(男子女子を限らず)中学生と言う存在が好きなんだ。思い込めば突っ走る冒険心。いささかカジュアルな世界観。人懐っこさと警戒心をないまぜにした感覚的な人間関係。大人の事分かった気になっている背伸び感。自意識と世界とのズレに起因する、ちょっとの不機嫌さ。なんといっても理屈を飛び越して結論をつかみ取る謎の能力。別に神聖視はしないけれども、僕はもうあの頃の物の見方は出来ないだろう。タイムマシンがあるなら中学時代に戻って、中学時代の僕とお話をしたい。どうしてそう考えたのか、なぜあんなことをしたのか。
思わず筆が乗ってしまったが、本作はそういう中学生視点の魅力をみずみずしく拾い上げていると思う。中学生が書ける人は強い。だって、大人と子供の両方の世界観を拾えるのだから。本作でも、主人公の向こう見ずの思い込みと、ちょっと怪しい世界への興味、その興味と恋心との混同を描きつつも、きっと沢山の学生を見てきた先生が「だとしたら、早野は殺さないよ」と言ったその背景に思いを馳せるとまた面白い。思い返せば中学校の先生は「先生の事なんて何でも知ってるのに、僕等のことは何にも分かってない」なんて思ってた当時の僕達よりもずっと生徒のことを知っていて、あしらい方もかわし方もなだめ方も習得しているプロフェッショナルだったのだ(そうじゃない人もいたかもしれないけれども)。もし先生が「違う」としか言わなかったら、あるいは「バカなこと言ってないで早よ帰れ」と言っていたら、結末はどうであれ、麻里子の感情は別のところにあったかもしれない。嫌われるとやりづらい。好きになられても困る。その中間の、ちょうどいい落としどころを目指しながら、しれっと”正しいっぽい”風景画を出してくる上川先生はやはりプロフェッショナルだ。すき。

●一徳元就さん『エディは13歳』

ケイリー・ミノーグの「come into my world」が頭の中に流れる(名作PVなので未見の人は聞いて、というより最後まで見てほしい。文末に張り付けた)。
ひとところにある風景と複数の物語を切り取ってごちゃ混ぜに描くのは挑戦したことはあるが大変難しくて、本作が完全に成功しているのがくやしくてたまらない。ラスト一行とか完ぺき。ずっといつ出てくるのか気になりながら読んだタイトルを回収しつつ、七・五音の心地よさにひとつ加えてくるの。すごい。
しかし本作の神髄は各々の物語をどうやってばらつかせずに束ねたかにある。どうしてこんなにすんなり読めるのか、読み直してみると、バブ(たぶん赤ちゃんの声)を区切りに、作品全体が四部構成になっている。僕らは知らずの内に、複数の起承転結、複数の四コマ漫画をいっぺんに読まされているのである。しかもちゃんと(会話や行動の主がどういう属性か明らかになることで)それぞれにオチが付いている。これに気が付いて、それぞれの物語を一つの起承転結にまとめて読むのもまた面白い。これはかなり作者が意識して取り組んだものではないかと思う。

……と、書きながら、元就さんが「タイトルが入って四行ずれた」みたちなことをつぶやいていたのを思い出した。見た時はよく分からなかったけれどそういうことか! 想定ではビジュアル的にも縦読みできるように計算されていたのか! これはたまげた。とんだ野心作だ。

★一番を決めるのは難しいです……描写では一作目、視点では二作目、構成では三作目……BFCのジャッジのような客観的な評価の下せないクソザコ読者の僕は、ほんとうに申し訳ないけれど趣味に走らせてもらいました。中学生も先生も書けるとか憧れです。もっと書いてほしい。『私の先生』を推しました。

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●わたくし『だれがかあさんをころしたの』

実を言うと、本作のラストは自分であまり納得がいっていない。もっとやりようがあったのではと思ってしまう。時間や手間を言い訳にして、個人でない、大きな事象に還元して、もやもやを残したまま出してしまった。心のどこかで、このテーマと正面からぶつかることから逃げたのではと思うと後悔がつのる。

●伊予夏樹さん『影』

オーソドッグスな怪談()。
出オチはさておき、犬の怪談という面白い題材を用いながらも、「物知り老犬の話」「人(犬)づての話」「いつもと様子が違う」「正体不明の存在」「異形の存在」「目を覚まして夢落ちかもと言う緩急」「残る犬の毛(物理的な干渉)」という具合に、芯の部分はしっかり古典的な怪談を踏襲しているところに、作者の怪談への敬意と愛とを感じる。終わり方「ある春のドッグランでの事である」も、どこか昔の短編小説めいていて綺麗だ。怪談の流れや作風を踏まえつつも陽気なドッグランでの犬たちの(人間には)秘密の会話と言う舞台設定でオリジナリティを出し、それでいてちゃんと怖くなっているところは流石という印象。
タイトルからの誘導も素敵。事前に「影」という情報が入っているので、影がうごめく様子や不穏さまでは想像できるのだけれど、その分明かりに照らされて浮き上がる異形の存在を完全にノーガードで迎えてしまうので、その鮮烈さが増すのだと思った。
それでも怖さが足りないと感じたのは、やっぱりこれが犬にとっての怖さだからかな。例えば人面犬が怖いのは人に近いからで、これが猫っぽい犬だったらたぶんかわいい。やはり同種との共通要素、そこからのズレが違和感と恐怖を生み出すのではと思う。本作に登場する異形は、人間にとっては犬のバケモノだけれども、犬にとっては自分と共通のところのある化け物だ。これを人間に置き換えてみるとその差が際立つ。自分の家の庭に、全身びっしり人間の顔がついた化け物が現れたら卒倒間違いなしだろう。犬にとっての怪談話で、ちゃんと犬にとって怖いであろう存在を想像しているところにも、作者の力量が窺える。

●ケイシア・ナカザワさん『アイ・ウィル・セイ・グッバイ』

ビルエヴァンスだ! いいぞ。これは曲を流しながら聞けるやつ。素敵。
作者は前回から引き続いて、音楽と雰囲気に回路のある作家だ。もし聞いたことがなくても、youtubeなんかで「I Will Say Goodbye」(かもしくは同名のアルバムのいくつか)を流せば、作品がいかに音楽にマッチしているかが分かる。
海の見える町、閑静な住宅街、お洒落な喫茶店の裏メニュー、少し苦い思い出と言うのは一見ステレオタイプだけれども、こんな作品は雰囲気に浸ることを知らないまま付け焼刃の知識で書けるほど簡単ではない。想定した音楽に共鳴する作品を書けると言うのはすごい技術だと思う。特に展開やアイデアありきでしか物語を構築できない人間にとって、雰囲気をスタート地点にして書けることの凄さが身に染みる。
個人的なことだけれども、僕も音楽と作品には隣り合っていてほしい方なので、一方的にシンパシーを感じてしまう。ので少しだけ込み入って考えると、音楽から想起されるイメージがどこから来るのかについては真摯に向き合いたいですよね。なぜお洒落なカフェなのか、なぜ閑静な住宅街なのか。どうして創作の内でさえ、下町の定食屋にビルエヴァンスが流れないのだろうか。良いか悪いかはさておき、その出自や歴史の割に、今の日本のジャズは、万人のイメージの中ではハイカルチャーに組み込まれていることが多い。
「下町の定食屋、ビルエヴァンス流れない問題」は本当に悩ましい。だって、みんながジャズを聞きながら小説を書いたら、きっとその多くが喫茶店小説になってしまう。そこからオリジナリティを出すのは本当に難しい。しかも、しかもその遥か先には確固たる地位を築いた村上春樹と言う先達がいるので、そのベクトルが近ければ近いほど、相当の覚悟と創意工夫が必要になる。
なんや脱線してしまったけれど、やっぱり雰囲気を掴める作家さんには憧れる。もっと音楽の聴ける作品を読みたいな(勝手な願望)。

●あさぬまさん『モジホコリ、あるいは文字埃について』

粘菌。大好き。モジホコリももちろん存じ上げている。タイトルを見た時、(モジホコリを題材にした小説!? いったいどんなことに!?)と想像を巡らせたが、まさかの想像の斜め上を行くモジホコリそのものについての随筆風小説。素敵。
熊楠の名前が出てくるけれど、身近な自然科学の小さな発見・知識から、人間存在なんかの哲学的な空想へと滑らかに移動して、文学的な表現を交えながら思想を揺らすような文体は寺田寅彦の随想みたいな趣があって、心地よく、いくらでも読める。こんな掌編を百用意して一冊にまとめたら需要があるんじゃないかと思う。僕は買う。
さてところで、この随想の部分と彼女とのやり取りにえらくギャップがあって大変大変好ましい。途中の「君に目があったら」はモジホコリに向けた、それ以外は彼女に向けた言葉として、彼女を前に色々考えてをめぐらす男の話と読んだ。
シンプルな答えを求める彼女に対して、理屈っぽくなっちゃう最初の会話のすれ違いにも萌えるし、結局あれこれ考えてしまう彼の、最後の素朴な(彼以外には大方返事の予想できる)質問も好きなのだけれども、何よりツボだったのは「作品名に彼女のことが一言も書かれていない」こと。彼は紆余曲折の末に「君」についての思いみたいなものを滲ませるくせに、それを総括し得るはずのタイトルは「モジホコリ、あるいは文字埃について」。彼女、「好きな人のこと食べたくなる」なんて、たまげた言い方してまで、彼の気を引こうとしているのに、クイズですなんて見え見えの茶目っ気で迫っているのに、ギョッとして振り向いたのは読者だけで、彼の頭の中身は「モジホコリについて」。彼のそういう不器用さは何だか憎めないし応援したくなる。もちろん彼女も。いつか振り向いてもらえるって信じてる。しっかりシナプス強くしてほしい。がんばれ!

★自作がある、伊予さんの作品は普段から沢山読んでいる、ジャズも粘菌も好き、と、かなり変則要素が多くてどう選んだらいいものかと迷ったのです。結局あまあまな部分が出てしまいますが、自作以外の三者が横並びと言う印象でした。
とても私的な読み方・解釈に依ってのことですが、寺田寅彦のラブコメが読めるとは夢にも思わなかった(今までにない文章構成の読み物だった)そのインパクトをもって『モジホコリ、あるいは文字埃について』を推しました。

002E

●乙野二郎さん『ロング・グッドバイ』

まず、ハードボイルドの小説にこのタイトルを持ってくる胆力が凄まじい。強い。そしてそれに恥じぬ躍動感がまた素晴らしい。躍動感のあるアクション描写は個人的に苦手で、描ける人には憧れてしまう。
もちろん疾走感と単純な爽快感、ラストの少し意外な展開はさらっと読めてカッコいいのだけれど、本作は丁寧に読み返すほど彼らの信頼ややるせなさ、結びつきがあらわになって味が出る。噛めば噛むほど味が出るというハードボイルドの神髄を六枚で表現している点には感服だ。
さて一読して気になったのは銃の描写で、筋的には鉄砲だと分かればいいのに、「コルト・ディテクティブスペシャル」と種類まで指定しているところ。でも、読み返せばここはコルト・ディテクティブスペシャルでなくてはならなかったのだ。ラストの「愛飲していた銘柄」の煙草に固有名詞が出てこないことは、この銃の指定が意図的であったことをにおわせている。
というのも、この銃の装弾数は六発なのだ。つまり最初の電話口での「……五発あるな」からすでにブラフなのである。そうなってくると各所の読みも深まってくる。クライマックスの「おれらしくない」というのは上記の電話でのうその事だろう。おれは彼をだまして一発抱えたまま丸腰のふりをして彼の前に立つ。彼は、この局面にあってもおれの電話口でのつぶやきを信じて疑うことが出来なかったのである。その「彼の信頼へのうらぎり」に対してやるせなく感じたおれの一言が「らしくない」だ。そしておれはこう続ける。「だがよ、らしくねえのはおまえが先だ」。これは彼の裏切り、それも組織への裏切りではない、「おれの信頼」への裏切りの事だ。彼との関係を思えばたやすく、楽に始末することも出来ただろう。だけれどおれにはこの手口でなくてはいけなかったし、コルトでなくてはいけなかった。二人の信頼への裏切りに落とし前をつけるために。
そしておれは、この作戦、この復讐が成功することを半ば確信していた。なぜって、おれの言葉を彼が信じ込むことを、おれもまた信じていたからだ。泣かせる。感想を書く手が震えました。

●尸解仙さん『誹諧的短篇〈散髪〉』

この「むりむりむりむりwww」は効く。こころにつきささる。どう読んだものかと意識をそらしてもショックの方が勝ってしまう。ネズミパンというえぐい要素を覆い隠してしまえるほどこの言葉が強い。その構成力は半端ない。
否定されたことって結構その後の行動や考え方を縛り続けてしまう。カジュアルな動機からマイカと出会ってしまったが故、主人公はその先十年も、「ムリ」の言葉に行動を抑制され続けているその不憫さと言ったらもう……
そしてきっとマイカちゃんはこのことを覚えていないだろう。彼の視点からは「どんな男にも両脚をひらく」女子大生だったかもしれないけれど、マイカの方ではきっと男を選んでいたし、彼と同じようにはねのけた男も数知れないだろう。男の方はプライドが高いから、そんな思い出をより重厚にしようとするけれども、でもアルプスだのライオンだの言って大仰な物語に仕立て上げたところで、彼女には些細な一幕でしかない。そこに思い至れない彼の女性観のズレもまた哀れだ。彼には何とか、ムリの呪いから脱却してほしい。しかしそれは「ムリじゃない」展開によって救われるようなものではない。アイドル事務所の前に立つラストは救いのようにも取れるが、僕には彼が呪縛から解き放たれる未来が見えない。えぐいし、すごい。

●ヤマダヒフミさん『カノ姿』

どんなに完ぺきな存在でも、完ぺきに消失してくれないなんて、神様は意地悪だなと思える小説だった。第九を引き合いに出しつつも、確かに「平均律クラヴィーア」なんかが似合う作風だと思う。
人(?)が忽然と消えた時、時には周辺の人の記憶も含めて、その痕跡全てが消えてしまうという展開は小説や映画や漫画なんかで多用される。大抵は「何もかも消えてしまっても、僕は彼女との思い出を覚えている、心の中で確かにいたことを憶えているんだ」とくるわけだけれど、じつは「何かがのこっている」ほうがキツイ。今作では櫛がその切っ掛けだ。もし彼が何事もなかったことにしてしまおうと思ったって、手元に残った櫛がそうはさせてくれないんだから。
実際、彼女がどう感じて、何を思って、何か苦しいことがあったのか、彼の見ていないところではどうだったかは記述されない。本作はほぼすべて彼の経験と主観で構成される。しかもちょっと都合のよすぎるくらいに綺麗で不思議な場面ばかりが強調される。だから彼ばかりでなく読者も、彼女がどこか別のところにいるのを想像しずらい。想像できないまま、いつまでも彼女がこの世界から存在そのものを消してしまったような感慨だけを大切に持ち続けてしまう。彼女との思い出から、彼女の「人間味」を、半ば無意識的に排除してしまう。
ちょっと意地悪な読み方をしているけれども、きっと櫛が残っていなくたって、彼はこうして感傷に浸っていたのではとも思ってしまう。たとえば彼女と入っていたこたつや、彼女が使っただろう食器や、座ったかもしれない椅子を神聖視して、やはり「失ってしまった」と嘆くかもしれない。でも、彼はどこかで気が付いているはずだ。一行目には「忘れて行った」と言っていて、櫛はやっぱり消え残ったのではなく彼女に忘れられただけなのである。本当に個人的な読み方だけれども。

★しんみりする話が連なった印象です。このグループでは、スピード感躍動感を全力で出しつつ、関係に思いを馳せると涙が出てしまった『ロング・グッドバイ』を推しました。

002F

●草野理恵子さん『寒い夏』

全体として夜の色を感じた。母は「母のような人」であって、互いに似通っていて、ルーチンをこなす様は「母」というモチーフが一般的に持っている温度や質感を翻して、無機質に映る。節足動物のフナムシもどこか無機的な印象を与えるので、最終節の「軟体動物」と対になる。
「しくみ」然として無力感さえ感じる外世界に対して、唯一自分(僕)の身体とその延長の内側だけに有機的な温度を感じ、そこに(それが良い展開かは知れないけれども)期待感がにじみ出てくるような作風は作者の得意とするところだろうか。
また「海沿いの病院」にはたいてい「病院」以上のニュアンスがあって、そういう風景を描き出せるのもすごい。外世界における音の描写も控えられていて、それゆえに最後の「どくどく」という内側からの音が書かれている以上に生々しく聞こえるのもまたいい。読後もしばらく身体にまとわりつく様な作品だと思いました。

●野村日魚子さん『踏みつけられれば苦しいという』

こちらは一転、晴れた野原のような彩を感じた。巨視と微視のゆれうごきがとても心地よい。作者の川柳には小さいところに意識が行ったと思えばパッと遠くに思いを馳せたりして、そういう気持ちのままの表現には好感しか持てない。本作の五句にもヴィジョンの広がりがあって、なんとなくストーリーみたいなものも想像できる。それもあまり身体をおいてけぼりにしない。部屋の椅子に座ったままあれこれ考えている様子が余り想像できない。だから、読んでいるこちらも、各々の詠まれた風景に体ごとたどり着ける感じがして、うまく言えないけれど要は共感度を操るのが上手いと思う。
日常の中で詠み貯めたものを再構成したというよりも、ある一つの盛り上がりの時々を詩歌の形で切り取ったように感じられる構成は、こう言っては何だけれど、これまであまり短歌や川柳に触れてこなかった物語出身の自分としてはありがたいし楽しく読める。そこらへんは意図的だろうか。素敵。
これは作品の外の話になるのだけれど、作者はしばらく名前に迷っていらして、でも僕は勝手に素敵だと思っていたので、この名前を道場の中に見つけた時は少しうれしくなってしまった。

★カラーも手法も違う二作品で、好みによって分かられるかなと思いました。たまに読み返しに戻ってきたくなる『踏みつけられれば苦しいという』を選びました。

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