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第五回六枚道場・感想

早いもので五回ですね。人数も増えてすごいです。

・感想の長さは作品評価に比例しない。
筆が乗るかはその日の気圧やお腹の空き具合による。
・いい所を探す練習でもあるので基本はほめる。ほめそやす。
でも言葉に嘘はないのでおべっかだと思わないでほしい
・あくまで感想であり客観的な批評ではない。
時折的外れな考察をどや顔で語るのを赦していただきたい

今回もこんな感じでやっていきます。
※5/5追記:ちょっと体調悪いのでいつもよりはペースが遅めです。

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1. 「ふたばの終わり」和泉眞弓さん

少し前に、自分の人生で二回目に買ってもらった自転車の夢を見た。青いマリナーズのマークのある自転車。夢のことをよく憶えているのは、記録とか事実だけでなく、その時の感慨をも思い出したからだ。前の自転車より一回りホイルが大きくなった分、果ての伸びる世界。自分の意思で何処までも行っていいと認められたうれしさ。小学生にとって、と言うと言いすぎかもしれないが、少なくとも自分にとって自転車は単なる贈り物以上の意味があった。家族や教室とは別な社会へ参加するための切符のようなものだった。「自転車を手に入れて、考えの速さに少しだけ近くなった気がする」という一文で、そんなことを思い出す。踏みしめた数に対して歩くよりもずっと先へと進む自転車は、「考えが現在を追い越す」と感じるこの子の感覚とリンクしている。
「考えの速さ」とは一体何だろうと想像する。一読して賢い子だなと思う。これは単にませていて大人びているとか、もちろん勉強ができてテストの点が取れるという事ではなくって、世界の俯瞰が出来るという点においてだ。世界の俯瞰が出来ると、自分が見えていないところにも何かがあって、誰かがいるのが分かってくる(小さい子にはそれが分からないから自分の知覚できる範囲までを世界のすべてだと思い込むし、大人でもできない人はできない)。「考えが現在を追い越す」とはつまり、「自分の行動や発言が意図しない形の反応をもたらす⇒世界は自分とは別の理をもったものかもしれない」という発見のことではないかと読んだ。
主人公はそうした広い世界から自分を守るために、「秘密」という形で結界を作って不安から身を守っている。私だけの世界を作って安心する。でも、周りは求めてなくてもどんどん変化する。車は新しくなるし、インコはやってきては卵を産むし、自分の親は新しい子供ができる。そうした周りの変化から、賢い主人公は「自分も変化するんだ」と気付けたはずだ。だから最後の生理の一文が短いのにちゃんと際立つ。そして、変化は必ずしもポジティブではない。本葉が出れば双葉が枯れるように、失い消えていくものも多くある。最後の一文は、彼女が考えを先へと飛ばせなくなったのではなく、自分が変化することに慣れ始めたからだと思う。これは慣性の問題だ。走る電車の中でジャンプしても同じところに着地するうち、跳んだ時の位置と着地した時の位置が違うことを忘れてしまう。大人になるってのはそういう事なのかもしれないけれど、でも、本当はちゃんと移動しているんだ。そのことに気付いてほしいと思った。


2. 「秘密基地のチラリズム」夏川大空さん

タイトルあての過程で本作はタイトルが先に作られたことを知ったのだけれど、「秘密基地のチラリズム」なんて身も蓋もないタイトルを出されて、「直接のチラリ」ではなく「ズボンに透ける下着」をチョイスする辺りがなんというかもう、作者の手腕と言うか、フェチが、傷が浅いうちにこの話はやめておこう。すみません。
さて和泉さんの感想でも書いたけれど、小学生にとって秘密はとても大事なのだ。だから秘密基地をたくさん作る。自分も、小さい頃はあちこちの隠れた場所を勝手に秘密基地にしてよく遊んだものだ。でも、そこに女の子が入ってくることはなかった。学校に行けば親しい女の子もいたにはいたが、秘密基地で培われた関係はほとんどホモソーシャルなものだった。「スタンドバイミー」とか「二十世紀少年」とかでもそうだから、これは割と共通のことなのかな。だからかしら。秘密基地に。両想いの。女の子と。ふたりきりで。最初に本作を読んだ時の感想は「はあぁ?」である(褒めてる)。
この「はあぁ?」は意外とポイントで、これがあるから他の展開が許せる節がある。主人公がよからぬことを妄想したとしても、ラストにいい感じになっていても、(おまえそこに居た時点でアレだ、アレだからな)となって、受け取る感覚がマイルドになる。主人公の鈍さが多少過剰に思えても、(まあそれくらい鈍くないと釣り合いが取れないよな)となる。
これは意図してのことなのだろうか。読み返せば文章の端々でわりと煽られている気がする。例えば「学校では優等生の彼女が、僕以外は誰にも見られていないのをいいことにクッションに寝転がっている」とか、描写のふりした自慢だし、「他の男に見せちゃ駄目だ」って男気出してくるところも面白いし、ラストの一文はどや顔が目の前に見えるし。文章を通して作者が「ほら、この子たち、あとはくっつくだけなんだよ」って言ってきて、だからこそ、展開はちょっとベタだけど、破局がないのを安心して期待できる。
ラブコメって作中のカップルに感情移入してもらわないといけなくて、登場人物が嫌われないようにバランスをとるのは意外と難しい。本作はそのあたり、ポイントをうまく抑えていて、全体としては変に嫌味にも思わず、過剰に性的にも思わず、モヤモヤ、ハラハラ、ドキドキと欲しい感情だけ湧き立たせるのはすごいと思った。
ところで本作に燦然と輝く一文は「女の子なんだなぁ」である。個人的に下着よりこっちの方が大事とさえ思う。身体を持った人間と関わって、その体験としてその感想が出たのは、この主人公にとっても幸福なことだ。そうでなければどうなるかは、二つ後ろに書く。



3. 「永遠に」乙野二郎さん

「元同級生」らしい距離感が絶妙だ。お互いに恋愛と破局があったという訳でなく、別々の人生を歩んでいる二人の関係が、同級生だった頃のまま時を止めて変わっていないのが端々からわかる。例えば「変に思い詰めるところがある」とか「女をみる目がない」とか、主人公がタケジに対して知ったような口を利くのは、事実として深い関係にあったのではなくて、同級の頃のノリをそのまま引きずっているのではないかと思う。子供たちの面倒と圧力鍋とチャイムが重なった時「立て込んできた。よくわからないけど~」という場面でも、主人公の気持ちのウェイトがどのあたりにあるのかをよく示していて、素敵な場面だと思う。
てな感じで読んでいると、途中で二人の関係性の、事実は変化させずに視点だけを変えられる。まず「少しは気があったであろう男の善意とセンチメンタルをわたしは信じる」という一文が本当に魅力的。ここでは逆説的に彼女が彼との「何にもなかった関係」に対して一縷の望みを期待していることが示される。そして「死んでまで迷惑を……」から「帰ろう。」までの短い間にたくさんの抒情がこもっている。
そうして封筒の束を発見した主人公の期待が膨らんで、それがよく分からない展開になった時、主人公の叫ぶ「タケジーー」という言葉がとてもしみる。しみると言ってもここにあるのは感傷一筋ではない。ここには当時”少しは気があったであろう”主人公にとって、タケジがあのころのままでいたことに対する安堵も含まれている。そしてこんな叫び方をする主人公の子どもっぽさから、彼女が一瞬青春時代に戻っているような雰囲気もある。
だから「忙しさにかまけて」とか言ってるけれど、ぜったいそうしたいからそうしてるんだ。大金を遺すおセンチな男より、よく分からない男の方が魅力的だ。ひとつひとつ、懐かしむように付け足したみたいな最後の余韻もとても良い。なんだか荒井由実の『卒業写真』みたいだと思った。


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4. 「悶々少年」小林猫太さん

Aの三作からここに来てなんかもう致死量の青春を摂取してしまった感じがする。奇しくも「小・中・高・同窓会」の制覇だ。カルマを感じる。
と冗談めかして言ってみたものの、じっさいにはひとくくりに出来る青春なんて存在しなくて、書けるものや視点も人によりけりで、特に僕は青春小説が好き(実際はちょっと違って、文学で青春を扱うのが好き)だが、男の子を主人公に出来ないという悩みがある。あんまりに自分と重なって見えて、いたたまれなくなるからだ。その点小林さんはそういう部分を軽々と飛び越えて行って、なんというか学ぶところが多いなと思う。
一貫して呼び方を変えない「みなみ十八歳」と「江口穂波」がおもしろい。特に江口穂波に関しては、もともと気があったというのではなく、全然話したこともない同級生だというのがいい。そこには「彼が何に興奮しているのか」を考える余地がある。好きだったわけではない女の子に似ているだけのアダルト雑誌の女の子。主人公は江口に対しても、雑誌の女の子に対しても、元々執着があったわけではない。云うまでもなくそこに連想があったことが彼を興奮せしめたのだろうが、もっと言えば「みなみ二十歳」であればこの連想は薄れたし、「同級生」というタイトルがなければまた違ったかもしれない。クライマックスで「似てないかも」と気付いた主人公を狂わせたのは言葉であり、しかもそれは自然の言葉ではなく(十八歳と書けば売れるだろう、同級生と謳えば興奮するだろう)という、「設えられた」言葉だ。ここには言いようのないモヤモヤがある。主人公の視点に寄り添えば、アダルト雑誌の子と似ている女の子に興奮するという滑稽話で終わるのだけれど、広く見れば彼は多感な時期に、大人の作り出す「同級生」や「十八歳」という、「実際とは異なる」イメージに絡めとらわれ、かどわかされたことになる。だからこそ、ラストで「生の」江口穂波に触れた主人公が現実との乖離に混乱し、こんなきっかけでなければ取り得たかもしれないコミュニケーションの機会を逃し「気持ち悪い」とぶった切られるのは爽快だし批判性もあって素晴らしい。Aグループの「秘密基地のチラリズム」とは対になる作品として読んだ。
この流れでもう一点。これは作品外の話で、作品評価には関係ないのだけれど、こういう作品が世に出ると必ずといっていいほど「俺たちの青春だ」「俺たちの話だよな」みたいな言葉が出てくるが、ひとくくりにするのもなんだかなと感じる。というのも、少なくとも僕は十八歳になった時「これでエロ本買えるな」と同級生に言われてとても嫌だったから。あ、これはもちろん個人の話で、そう思う人を否定するわけではないのだけれど。少し前にどこかで「内輪のノリと下ネタはよく混同されるが可分である」みたいな話があった。下ネタが悪いのではない。何なら本作はかなり好きだし、眼鏡を書き添える所とかめちゃくちゃ笑った。ただその開示を男子のイニシエーションにしないでほしいなぁ、なんて思ったり。本当に、本作とは直接関係ないことだけれど。


5. 「ある人たちには目撃られていた殺人」齋藤優さん

齋藤優さんはブンゲイファイトクラブという催しにも出られていた方で、相当の実力者。なので名前を見た時は声を出してビックリした。名前を知っている方が多くなってくると、ネームバリューや過去作とは距離を取りつつ感想を見つける練習になるのでとても嬉しい。
本作の魅力は「ズレた」入れ子構造にある。(読んでいる僕らがいるのは前提として)、作中にまず「ぼく」がいて、その知人の話という枠の中が本題になる。そこではロケをやっていて、そこに偶々居合わせたヨット・パーカー姿の男の語りが、もう一つ入れ子を作っている。この男の話が非常にナラティブな段階で構築されているのがまず面白い。そこには男の中では整合性の取れている時系列のようなものがあって、つじつまの合った言葉の順序を持っていて、でもそれはストーリー化されていないので聞いている方では疑問符が浮かぶ。でも、この男が泣きながらも、これだけの言葉の数をもって、知人でもないタレントに語り掛けるという事だけでも、それが少なくとも誰かにとっては語らなければならなかった大事なことだというのが伝わってくる。男の言葉の端々からは、それが正確な表現なのかは分からないけれど、なにやら不穏で凄惨なもの、出来事の、確かな存在がにおわされる。
ここでもうひとつ面白いのが、「ぼく」のいるレベルのもう一つ外側へと続く枠が二つ存在することで、一つは小説として読んでいる現実世界の僕らということになるが、作中に出てくる番組の放送も、広く解釈すればひとつ外側のレベルということになる(下図:自分でこんがらがったので書いた。間違っているかも)。

目撃殺人の図

この入れ子を階層にすると、(放送の存在自体が記述されたものだから異論はあるだろうけれど)道場作品としての本作と、ロケの放送が同じレベルにあることになるが、顛末は正反対になっている。ロケの描写やラストの一文から、男の語りは放送の段階ではカット、編集され「なかったこと」にされると推測される。ので、タイトルの「殺人」は、放送において男を含めた家族が透明にされることの比喩として読んだ(タレントがロケ車の中で何をしたかは分からないけれど、ここでの展開を具体的な「殺人」とするには唐突だし、知人がわざわざ僕に語って聞かせているので、この男の「不都合さ」が村に共有されたものとして読むには少し弱い)。けれども僕らは、ここで起きた一切合切を(信じるならば)知っていることになる。タイトルの「ある人たち」が自分たちのことではないかとさえ思う。なんだか「小説ならこういう声も拾えるんだ」と力説された気分にもなった。


6. 「墨夜」深澤うろこさん

毎回六枚道場の朗読実況をされているハギワラシンジさんが、今回は初日からキャスをされたので先にそちらを聞いてしまったが、暗闇の受け取り方が人によって違うのが面白かった。本作はどうだろうか。
田舎の暗闇は、人工の明かりが消えたところに自然が帰ってくるような趣があってとても怖い。ただそこには「攻めて侵食してくる」みたいな感触はなくって、「はじめからそうだった」という方が近い。自分たちの居場所だと思っていた場所が、案外自分の物ではなかった時の感覚は寄る辺ない。都会でもそうなのだろうか。本作では「雪崩」「高波」「強風」といった自然現象が比喩として多用されているから、案外共通のことかもしれない(舞台がどれくらいの都会かは分からないけれど)。主人公が孤独を表現するときの「いつもそこに足首まで浸かっている」という感覚もよく分かる。人間関係の強弱は要素でしかなく、暗闇で感じる孤独は自然に対峙する自分のちっぽけさと関係しているような気がする。暗闇と夢に出会うと強制的に自分を見つめなおさせられる。
途中挟まる独白の段落は夫のものとして読んだ。妻の視点の中、夫の語りが中心に置かれて、それを理解できないディスコミュニケーションのもどかしさを抱えたまま関係が続いていく展開からは庄野潤三『プールサイド小景』を連想した。
「こんな夜が14万戸もあるのか」のセリフがとても好み。この言葉が、日常他者への関心が強い人間から出たのか、普段は全然そんなことを言わない人から出たのかで読み方が随分変わってくるように思う。ラストもいい締め方だと思う。劇や映画のシーンが大抵暗転でしめられるのを逆手に取った感じだろうか。最終行までの展開はぼやかされている分不穏にも映るが、個人的にはその後の展開は重要でない気がする。「ごめん、暗くて花瓶割っちゃった」とかだったとしても、直前までの文章の質量は変わらない。暗闇の理と明るい所の理には断絶があった方が面白いし、ここで切ることで、本作が書かんとしている(読み取れてはない気がするけれども)暗闇がちゃんと中心に来ていると感じた。


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7. 「水仙王」化野夕陽さん

「天・地・人」の三才を世界のすべてとしてしまうのはちょっと傲慢さもあるよな、なんて昔から思っていた。本作では水仙王によってその梯子が簡単に外されるところに痛快さがある。それに、劇、夢、井戸、水害のすべてにおいて主人公が一貫して、外圧によって自己と向き合わされているのが巧妙だ。何かと批判されがちのナルシズムが、本当に個々人の資質によってのみ形作られるのか、ということを考えさせられる。半ば不本意な形でナルキッソスを演じる主人公は、一方で水神という土着的な存在から、自然と相対化された人間の立ち位置にも触れ、そこに天地水の中国思想まではいってくる。この越宗教性がまた素敵。
木目に見入ったり、梅雨空に興味を示さないように、本質的には上を向くより下を向いている主人公はそこに映るべき鏡がないことをもどかしく思っていたのだろうか。過剰なうぬぼれに気をつけながらも、同時にある程度自分を認めて好いてやるのは意外と難しい。
井戸を掘ると宣言したラストは、深く自分と向き合うことを肯定するような趣もあるし、もう底をのぞいて落ちる心配はないんだと、父親との確執から解放されたようにも読める。いずれにせよ、井戸を掘る(それも自分でというわけではない)という突拍子のない結論を宣言した主人公の小さな能動性が心地よく、期待感をもって読み終えることができた。


8. 「人間病」いみずさん

きれっきれですね!
こと文学界隈では昨今のあれこれに暗澹たる思いがある人が多いのではと思う。もちろん、そういう事実をベースとしていることに間違いはないだろうけれど、それがなくったってひとつ物語として自立しているのがすごい。
作中の「ダジャレが感染る」というトンデモ設定に、これは現実の(そしてこれがありうることだと多くの人が気付き始めている)狂気だと意識しながらも、まだどこかでフィクションの出来事だと予防線を張る読者に対して、「地の文にもちょいちょいダジャレが混ざり出している」とかいう若干メタ的なアプローチで語り掛けてくるのが面白い。「他人事じゃないですよ」みたいな。
タイトルは素直に読めば、デマや噂に流されて、容易にリミッターが外れてしまう人間の業みたいなものを揶揄したようにも読めるけれど、言葉の面で言えば、上記のように似た音韻があればどこかそれに連関を見つけようとしてしまう、言語を習得した生き物ならではの性質を指しているとも読める。
リアリティの面で言えば(そんな病気ないよとかいう話ではなく)、実際に暴徒と化す人間がどれくらいいるかは丁寧に想像したいところ。個人的には、社会不安の蔓延る中でつるし上げが行われることと、言うだけ言って自分は安全なところから何もしないような人の心理は表裏だと思う。みんな混乱に乗じて元々抱えていた暴力性を都合よく消化するのではなくて、結局自分可愛さと視野狭窄によって不寛容が生まれるのだ。本作の展開で言えば、こんな病気が本当にあって流行れば、いずれ、誰も何もしゃべらなくなる怖ろしく静かな世界が予想される。それはそれで(コミュニケーションを是とする人間にとっては)ある種の地獄だし、また創作風景として魅力的であるので、そっちの結末も読んでみたいな、なんて思った。


9. 「秋月国史談『矜持』」今村広樹さん

土鷹義芸は鷹の絵を得意とした土岐頼芸、淡海の六丸は道三と対立するも後に頼芸をかくまった近江の六角氏のもじりではと思う。とするとこれは美濃国盗りで、にっくき美男は斎藤道三か……?
歴史の年表にかかれなかったであろうこの一節をポンと抜き出してきたのが心地よい。土鷹義芸と「美多の魔蟲」との間に何があったのかは(史実とは違うだろうから)詳しく分からないけれど、描いた絵を破るほどの気持ちがあるのに、それをでも描いちゃってるところとか、魔蟲と呼びつつも美男子であることはちゃっかり認めているところとか、彼らの間にある確執が一筋縄の敵対関係ではないのかなと想像させられる。
今村さんの作品は出てくるたびに短くなっている気がするが、その度に短文のまま立っていられる強度が増しているようにも思う。個人的にこれまでで一番今作が好きだし、完成度も高いと思う。

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10. 「かげぼうし」伊藤卍ノ輔さん

転校生って、神秘なんですよねぇ……
性もまた「突然世界の外側からやって来た子」という感じで、宇宙人みたいな興味の趣があるけれど、転生みたいに突然自分たちの手の届くところからいなくなってしまうのって、小学校の時点で、僕はほとんど経験がない。それこそ、主人公が死んだおばあちゃんと混同するように、突然去っていった同級生というのは、残された子供の側からすると、死んでしまったのとほとんど変わらない。この感覚をここまで丁寧に、一作の中心に据えているのはすごい、と言うか僕もこれやりたかった。ぶっちゃけ次回の道場は転校ものを考えてた! ……や、悔しいけど、先に作品にした者勝ちなのだ。
あと、明るい夜道の自傷的な恐怖心をすごく上手に拾ってると思った。
夜道を歩いていると、「後ろに何かいるんじゃないか」「暗いもの陰に誰かいるんじゃないか」と勝手に想像しては強迫観念にとらわれて、勝手に怖くなることがよくある。そこに嵌まっている時の影はホント怖い。だって、後ろにあったと思ったらもう前にあるんだもん。光源の位置によっては三人いたりもするのでやはり怖い。
話は戻るが、あるものがなくなり、ないものがあるのもまた一つの呪いの形というか、この主人公はこれからもずっと拘り続けるのだろうと想像する。夢に出てくるコロちゃんが「子供の頃の」彼女ではなく「大人になった、生気のない」姿であるのは、彼をとらえて離さないものがノスタルジックな公園での思い出そのものではなく、その後の不在であるからだと、読んだ。主人公は不在に折り合いをつけるように想像で補う。しかしそうした不在には死の匂いがあるので、死んだ事実を作り上げていく。読んでいて、「ああ……悪手だな……」とゾクゾクする。生きているのか死んでいるのか、宙ぶらりんの状態のままならまだいい。けれどももし、どこかで現実に「コロちゃんだった女性」と会ってしまった時、想像の、死んだコロちゃんはどこへ行くのだろうと考える。想像はまさしく実体から伸びた歪な影のようでいて、それを追い続ける主人公はいずれ追いかけられる側になるのではないか。そんなことを思うと眠れなくなってきた。
これは好みの話だけれど、ラストの一文の「見えない物の声が聞こえた気がする」展開はちょっとベタなので、もっと別の余韻の残し方を探すのもまた乙かもしれない。好みの話だ。

11. 「僕と左手と」中野真さん

読んでしばらく放心していた。胸がいっぱいになっちゃった。
語り順がズルい。自分の慕う人に重ねて読んでしまったのがいけなかったか。だって作品の半分が幸せ描写につぎ込まれてる。そこに好感以上のぬくもりが見えてきたところで、別に段落を変えるでもなく、そっけなく話が暗転する。喪失に(単に傷がいえるのに日数がかかるという意味を越えた)時間的な距離が生ずるのは万人の認める所だろう。マッキーの「もう恋なんてしない」とかそういう歌だ。一呼吸を置かせない文章の置き方で、読者の認識と文章の進みとをずらすのは、これは意図的な配置だろうか、とにかく半端ない生々しさがある。そして距離はきょうび間違いなく重要になったテーマの一つだ。社会をめいっぱい皮肉ったいみずさんの『人間病』も素晴らしかったが、時間的、空間的距離の部分をすっと抜き出して、自分の物にして向き合っているのがまたとてもいじらしく愛おしい。左手が帰ってからの展開もすごい。思い人のいる人間は多かれ少なかれ、自分の中の何かをある程度相手に預け合っているから。それを急に一人で持って生きろと言われた時、感じるのはたしかに「重さ」だと思う。
中野さんの作品には、毎回どこかご自身のことを書かれているような趣がある。リアルな体験ではないのかもしれないが、一度自分の中に落とし込んで、そこから湧き上がったものを拾い集めるような感覚。これはひとえに作者の高い感受性と、その自覚のなせる業だと思う(的外れだったらごめんなさい)。感受性が強いと生きづらい。生きているだけで不器用と言われ、いちいち抱え込めば重いと言われ、逃げれば弱虫と言われる。それを知っている人の言葉は大抵やさしくなる。本作では左手がその役を負っている。

君が耐えられるようになるのを待っていたんだ。そうでなければ、君はずっと美羽の手を感じるために眠り続けてしまっただろう。そして君は僕になり、僕が君になっていただろう。僕にはそれができることがわかっていた。けれどそれは、間違ったことだ。

この部分だけで何度も助けられる。この感覚への気づきと、それを踏み越えられる強さを、知っている人がいる、それだけで一つの希望だと思う。この先必ず来るだろういくつかの喪失の時、こうした言葉があれば生きて行けるような気がする。
ところで腕を取り外すというモチーフはどれくらい一般的なのかな。まず脳裏に浮かぶのは川端の『片腕』だし、別作品の名を挙げてらした方もいた気がする。美しいモチーフなのでつい使ってみたくなるが、そこからオリジナリティを出すのがなかなか難しい。本作では絶対に手じゃないといけない理由があり、また冒頭からのインパクトある設定披露で、予想され得る彼女の顛末から目をそらすという機能もあるので、技術の面でもすごい。
あと超余談だけれど、本作を読んで以下の返しが出来る友達がどんな方なのか、すごく興味がある。
https://twitter.com/nakanomakot0/status/1256617219514982400?s=20


12. 「みーちゃん」田中非凡さん

うーわすごいの来た。諸星大二郎の『栞と紙魚子』シリーズに、「首輪の付いた目に見えないペットの散歩をする」話があって、それをちょっと思い出した。
何物か分からない物があるというのは強い。それだけで文章が読み進められる。やめられない止まらないやつだ。タイトルでなんとなく女の子かなと想像していた(なんせ同グループに「コロちゃん」がいるので)みーちゃん、冒頭からすでにおかしくて、抗いようもなく次の情報を欲するのに、情報が出揃うごとに混乱は加速する。説明書で機械的なものかなと思わせて、色が変わるところでまたはしごを外され、「みんな喜ぶに決まってる」でなにかよからぬ空気だけを察知する。そうこうしているうちに係の話が出てきて、「おかしい」のがみーちゃんだけではないのが分かってくる。食べる食べないの話が出てきてやはり生き物か?となったころには話がどんどん進んでクライマックス。食べられずに済んだけれど、オチがまた秀逸だ。ちょっと笑った。
一読して、始終作者の掌の上で転がされているような感触を得た。技術として文章がすごく上手いからだ。作者の狙い通りなんだろうな、と分かっていても、狙い通りの想像や興奮から抜け出せない。読まれるべき読み方に倣ってしまう。そこが作者と読者の交歓といった感じで好ましい。僕は本作を不条理ホラーとして読んだが、ホラーと意識せずに書かれたんじゃないかとさえ思う。思い余って欲張りを言っちゃえば、初めから作者の存在を意識させず、読み手には何だか自分の意思で読み進めているように錯覚させてほしい。それで、急にはしごを外してどん底に突き落としてほしい。じらしてほしい。

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13. 「群青」澪標あわいさん

意欲作と言うか、野心作と言うか、発想としては無茶苦茶尖ったことはしていないけれど、いまこの瞬間だからこそ最大限「通じる」表現方法を逃さず掴んでくるのがすごくって、これは普段から文章表現にアンテナを張っている人間のなせる業なのだろうなと思ったり。
通信が安定しない時の会話はボイスチャットやテレビ電話をしたことがある人なら知っている人も多いと思う。一方会話の中身はと言うと、五年ぶりにコンタクトを取った相手と他愛のない会話をするというもの。語義そのものではなくて、言葉の間の余白や会話の間、集中力の有無を表現することによって、ほのかなディスコミュニケーションを表現するのがまたすごい。
「画面だから、楽に終わることができた」の一文にはっとさせられるし、その後の「身体の実際がさびしくなった」という言葉にもぐっとくる。最後に毒を混ぜてくる作品は好みだ。それも、露悪的になりすぎず、当人たちにとってはさも当然のことを使ってこちらにショックを与えてくるのが心地よい。
しかし好みで言ってしまえば一番好きなのは鳥居のシーンですね。時間を隔てた記憶の混濁を距離と呼べるのであれば、その時間的な距離と物理的な距離が相互に作用して一つの流れを生むことはありうるのだろうかと想像する。ゼロ距離で会って話す昔話と、画面を通して話す思い出に距離の差は生じるのだろうか。
また心のズレを画面のラグによって表現している、とも勿論読めるけれど、画面のラグが心のズレを導く事だってあるかもしれない。5Gが普及した世界でのラグのない会話だったら二人の距離が縮まったりしたのだろうか、ということも想像する。
余談。制服着てもええやんけ! 日々アップデートだよ! いや回顧でもええやん! 制服着よ(違う)


14. 「ジムノペディ 第一番」ケイシア・ナカザワさん

あの公園いいですよね。クジャクもいる。リスもいる。紙芝居のおじさんがチョコバットのコスプレしてて楽しそう。人のつかの間の余裕と温かさを感じる。そういうところにいる幽霊も温かくなるものだろうか。
本作でほのめかされている事件は有名な未解決事件だけれど、こういうことを言うと語弊があるかもしれないが、僕が一番好きな未解決事件だ。行動原理のすべてが分からない。分からないことだらけというのは当然かもしれないがある種の強い憧れを誘発する。素性も背景も分からないから、実際にあったであろう凄惨なやり取りや命を奪われた人の感情が見えてこない分、カジュアルに受け取ってしまう。本作では行動原理の不明瞭さを宗教に絡めている分、その生死のやり取りにあまり深入りしている風ではない(宗教と言われると「なるほどそれは意味わからないことがあっても仕方ないか」と思ってしまうから)。ここはゆっくり考えれば賛否が出てくるところかもしれない。でも、真実は非情であったかもしれない事件を脱色して、「ジムノペディ第一番」に合わせてしまう様な魔力を、公園は確かに持っていると僕は思う。
作者は一貫して音楽と絡めた掌編を出しているけれど、今回は小説が音楽に操られ過ぎていないというか、むしろ小説の解釈を音楽のイメージによって恣意的に誘導しようとしているところがあって、いつもと少し違うなと感じる。そのうえで僕は今回のような(音楽と小説の)距離感の方が好ましいと思う。

15. 「なき女」Takemanさん

祖母に聞いた話。曾祖母の家は家政婦を雇っていたのだけれど、曾祖母は警戒心の強い人で、ある時応募してきた家政婦を一目見て「こいつは絶対ダメだ。こいつの世話はぜったい受けん」と言い切ったそう。その家政婦はとても謙虚で真面目に見え、周りの親族も「お母さんの疑いすぎよ」と言ったのだが雇う本人がダメというので数か月で去ってしまった。
さて曾祖母が死んで葬式の時ふらっと現れたその女性は始終おいおいと泣いていて「お母さんにはとても良くしていただいて」などというので周りは「あんなに冷たくされたのに……」と疑問に思ったという。それで(曾祖母も死んでまで苦手な人にずっとおられるのも心苦しいだろう)と、帰ってもらおうとお札を握らせたら、女は急にケロッと泣き止んで、挨拶もなしに帰っていったという。肝の冷える話である。
上記はまあ個人的な話ではあるが、泣き女の風習は葬儀に際しての「感情」の部分と「儀礼」の部分、「勘定」の部分が混在するので興味深く、素敵な題材を拾って来たなと思う。それは一人の死が喪失というつよい影響力に作用されつつも、様々なやりとりを含んだ複雑系であることを思い出させる。実際職種としての泣き女は時代によって尊ばれたり疎んじられたりしながらもある人にとっては重要な糧であったし、風習が廃れた今でもその役割の部分は葬儀をしんみり演出する葬儀屋が、現象の部分はエモーショナルな恋愛映画などを見て涙を流す「涙活」みたいなものが担っている。
ラスト、おばけの話に持っていったのは好みが分かれる所かなとは思う。葬儀となく事には土着的なにおいと、人類に共通する「死にさわりすぎる」ことへの根源的な畏怖があるから、そこを活かした方が怖い話になる気はする。でも「次はおまえだ」と指を指されるようなラストもこれはこれで上手く、ひやりとするには十分良作と思う。

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16. 「鳥達が海を満たす時」伊予夏樹さん

まずタイトルがいいですよね。素敵。僕が7・5音タイトルを諦めて出したときに滑り込むようにこれですね。知っていたんですかね。冗談です。
鳥も魚も好きな題材だけれど、人ー鳥、人ー魚の軸にしか考えが及ばなかった。それを今作では魚ー鳥と結びつけてくる。こんな発想は簡単な様でいて、なかなかできることではないと思う(伊予さんが鳥か魚なら別だけど)。しかも翼の描写で鳥をいわゆる鳥類と想像させておいて、クライマックスの展開でその想像さえまだ幻想世界の風景を見切れていなかったのだと突きつける。同時に、幻想の存在にとっての幻想(アルトという存在がいるという前提での、見たこともない鳥たち)という二重の構造を、のっぺり平面化させることなく、距離をもって描き出すことに成功している。
作中語られるファンタジックな昔話は、ここに人の理が介在しないからこそ質量を持ったリアリティとして立ち上がる。この世界は陸が存在しなかったとしても成り立つように描かれる。この舞台設定は幻想にリアリティを与えるだけでなく、「物語」を「人間の専売特許」から解放する役割も果たしている。これがまたすごい。物語が人のいない所にも存在し得、語り継がれ、真偽を訝しがられ、忘れられ、思い出され、その展開をして何者かの心を動かしうるのだと、本作を通じて説得させる。語られることの広さ(と自分の認識の狭さ)を見せつけられたような気がする。本当にすごい。
ちょっとだけ気になるのは「海底」「水時計」といった言葉の使われ方で、前者はその上下において0レヴェルより下に位置するといった意味合いがこもり、後者は(水ではない)時計というものが存在する前提に成り立つ言葉なので、前述のような読み方をしたときには少しだけ浮いているような印象がある。でも些細なことかも。
母の語りが世界の終わりを恐怖でなく、むしろ幻想的なものとして主人公に見せているラストの余韻がまた素晴らしい。

17. 「暴れゴリラ」千早とわさん

誰も知らない展開の話はベタと言えばベタで、思い出す限りで言うと、ドラマ『世にも奇妙な物語』のお話の一つに「ズンドコベロンチョ」というのがあって、その展開が本作とほぼかぶる。前者は「俺は何でも知っている」ことをアイデンティティとする主人公(演:草刈正雄)(かっこいい)が「ズンドコベロンチョ」という知らない単語を耳に挟んで、それが何かを突き止めようとするが、周りはみんな当然のように知っているのにそれが何物かもわからないというもの。「ズンドコ」が本作における「暴れゴリラ」と対応する。
などと書くとまるでオリジナリティがないみたいだが全然そんなことはない。「ズンドコ」が視聴者にも分からない単語を使って、視聴者と草刈正雄を同期させる構成なのに対して、僕らは「ゴリラ」も知っているし「暴れる」意味も知っている。「暴れゴリラ」と聞いた時にはちゃんと(ちゃんと?)脳内でゴリラが暴れている。作者もそこにはたぶん自覚的で、作中に挟まる「暴れ」「ゴリラ」の広辞苑引用は、読者がそのどちらの意味も知っていることを前提に笑いを誘う。「それはそうだろう」とつっこませる。でもつっこみの背後では、(引用もされているし、少なくとも額面通りの意味なんだな……)と、「暴れゴリラ」への想像をちゃっかり絞られる。このちゃっかりが巧みだと思う。
さて後半になって、前半までに(半ば恣意的に)築かされた暴れるゴリラへのイメージが崩れ始める。物語の進行とは外れた「引用」の部分に架空の説明が挟まって、読者は「笑ってるけど、お前も暴れゴリラ分かってないからな」と逆突込みを受ける。無知の主人公を「観察して笑う側」だった前半から転落して、周りから笑われる側の世界を見ることになる。しかし読者が「え、スルーしてたけど暴れゴリラって何」と分析する段階になったところで、主人公の方はもうあきらめがついている。このズレがまた心地よい。
ラストには「一難去ってまた一難」的なオチが着くが、読む側としてはもう初めに受け取った「暴れゴリラ」の感触を「鉄砲玉チワワ」に見いだせない。読み初めになかった同情や焦りを主人公に感じてしまう。千早さんは読者のい心情を誘導するのに長けているなと思った。

18. 「海辺の蝶」松尾糢糊さん

幼虫が蛹になるのは確定事項でもあり、何事もない変化にも思えるけれど、一方で時間や環境や積算温度に縛られていて、因子は内側と外側の両方にある。どちらが書けても羽ばたけない。人も、時と所によっては同じだと思う。自分の中に落とし込んで、融かして、ゆっくり変質させなければたちゆかないもんだいも、なんらかのきっかけを外に見出さないことには始まらなかったりする。本作は海を一つの外部因子として求める人々の物語として読んだ。はじめ淡々と語られる情景からは潮の匂いやウミネコの声が聞こえてくるようで心地よい。
中盤から、わたしや、まわりの多くの人にきっとあった悲劇を想像しながら、わたしやあなたがそれでも海にやって来たことを納得できるのはどんな人だろうと想像する。「いつかその波間から愛する人がなにごとも無かったような笑顔で手を振って現れる奇跡のような瞬間を」この一文が素晴らしい。海が人々を奪うと、そこは憎悪の対象を越えた、単純には憎めないものに変質する。
個人的な話、割と海に思うところがあって用もなしによく行くので、気持ちが分かるとはとても言いきれないけれど、教官のようなものは感じてしまう。よく海派と山派に分かれるけれど、山に登る様なソリッドな解決とは違う寄り添い方を海はしてくれるような気がする。海に促されて羽化できるなんて羨ましいと言うか、素敵だなと思う。本作では海に親しい人を奪われた人々が描かれるが、それでも海は静かな時は静かなままそこにあるので、引き寄せられる人も多いのかもしれない。何度も海に襲われても、やっぱりその傍に帰ってきて、家を建ててしまう人々の心情を思うと、そこには恐怖の鈍化や経済的な理由以上の物があるのでは、と想像する。

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19. 「正解社会」紙文さん

はんこ好きなんですよねぇ……
信用ってものがぎりぎりのところで厳密化できないという事実を、象徴的に表すアイテムが掌におさまる大きさで存在するのが面白い。はんこを使った時、本質は押された印影の方にあって、それは名前の通り印章の影であるのに、見た人はその向こうにあったはずの印章と、もっと遠くの、そいつを押した手の存在を認めて信任する……というのがシステムの中心なのに、じつは押した人のことなんか誰もそんなに考えていなくて(いちいち誰が押したのだろう……と考えていられない)、本質はやっぱり影の方で、この書いていてだんだんわからなくなってくるような「はっきりしてるふりをした曖昧さ」みたいなものがこそ、これまで人間関係を円滑にしてきたんだなとしみじみする。
本作で言えば、本人が了承したことが大事だとする価値を「毀損せず」、かつ本人がいないから了承できないという、いかんともしがたい事実と「おりあいをつける」ために、はんこはそこに存在する。もっとズバッとまとめてしまうと、僕は本作で書かれているような状況、本人の確認が必要だが本人がいないという現実的な問題を、教科主任が逡巡の末に解決してしまえる所にこそ、はんこの価値というものは存在するのだと思っている。
はんこが非効率だとする見方も増えてきているが、非効率的なのは現実の方だ。はんこは非効率的で非情な現実と、それでも世の中は効率で動いていると幻想を抱く人々の間にはさまって緩衝材になっている。

20. 「席替え」わたくし

もともと数年前に「衣替え」を題材にした話を書いたことがあって、それを縮めようとしたのだけれど全然六枚に収まらず、結局改題・改稿する形で提出した。話は全く別物になった(成宮君が出てくるところだけ一緒)。
※元の話はこちらhttps://note.com/chumiyatsuki/n/n7143af5039a1

青春映画の主人公と同じ席に座れば青春出来るかも、という空気が教室を狂わせていく、という話を描きたかったんですけれど、まあ、何と言うか、六枚でやることではないかな、というのが第一印象。書いていて、もっと丁寧に、じわじわとクラスがおかしくなっていく様を描きたかったし、その方が絶対面白い。30枚くらいで書けないかな。
今回は苦手な三人称で書く練習も兼ねた。三人称だと距離を測りかねてしまう。個人的に読んでもらいご指摘もいただいた。構成に難があり、文章ごとの順番を意識した方がいいとアドバイスをもらった。確かにその通りだと思う。登場人物の脳みそに寄りすぎて、その思考スピードと思い浮かべた順番のまま書いてしまう節がある。文章にするとしばしば倒置になる。それが読みにくさになっているのなら、少し距離を置いて書く練習もしてみよう。


21. 「あんたなんかもう要らない」一徳元就さん

前半、詩的な表現で事実のありようをぼかして、後半で種明かしをする展開がうまい。結局、どっちがどっちで、誰がコピーで何がオリジナルなのか、読むほどわからなくなっていく。はたしてオリジナルなんてとうの昔にどこかへ行ってしまっていて、コピー同士のやり取りだけが、ずっとシステムに支えられて続いているだけかもしれない。そう考えると、ラスト出奔する彼女(彼)の行く末はどういったものだろう。本作は、一つの繰り返しの区切り、終わりと新たな物語の始まり、みたいな体裁を取っておきながら、それすらもあやふやだ。もしかしたらこれまでにも何回でも、「相手のデリート」と「脱出」が繰り返されており、その都度、そんなものはなかったとばかりに培養液が新たな彼女を生んでいるかもしれない。
作中「おばさん」はコピーの細部に執着し、対して「あたし」は「おばさん」の精神の時間的な変質を指摘する。ここでは美醜に関する対立が強調される。そういう、ともすれば厭世観にとらわれかねない広い仕組みの中にいる個人の美意識やこだわりは、じゃあいったい何のために存在するんだろうと考える。唇が厚くても薄くても、毛が生えても生えなくても、ペニスがあっても無くても、結局彼女が出奔し、消え、また繰り返すのだとしたら「おばさん」のこだわりはとても刹那的なものに映る刹那という意味においては前半に性的な記号を散りばめたのが効いている(まあこれは今後も繰り返す前提のよみだけれども)。
ピアノを習っていた頃先生に「一度出した音は(それが楽譜的な政界不正解にかかわらず)二度と戻ってこない」と何度も言われた。美がどこにあるかは難しすぎてわからないけれど、審美はいつも作品の外側にある。そういう視点を入れると、本作は芸術至上主義についての作品としても楽しめる。

22. 「安らぎたまえ、シークエンスの獣よ」ハギワラシンジさん

あんだれぱ!
こんなタイトルを付けるのは一人なので、唯一作品名が発表された瞬間に作者が分かった(他に曲名タイトルのケイシアさんも予想しやすいが、これは他の作者さんもやる可能性があるので)。
ことばの一つ一つが魅力的。その言葉やひと段落が簡素、かつ文章ごとの繋がりが薄いのがよくて、実際の会話ってこんな感じだよな、と思いながら読み進めた。小説を書く人には(分類なんてできないけれどあえて)大きく物語を中心に据える人と言葉を中心に据える人がいると思うのだけれど、ハギワラさんはそのどちらにも足がかかっているのがまた良い。物語の側から見るとリアリズムの作品として読めるし、言葉の側から見ると実験小説として読める。
「有楽町の一部になる」力ある言葉だ。関東の人間でなくても知っている地名。働き詰めてなくても、それがそういう意味でないとしても、日本人にはなんとなく「東京の一部になる」ことへの感慨に共通があって、そこを狙ったものではないかとも思う。さかのぼって「電車には森が押し込まれている」というのもいい。聞いた傍から光景が湧き立つ。満員電車の様子と深い森の風景が同時に重なる。こういう言葉選びは慎重に意識した上では出来ないと僕は思う(いや僕が出来ないだけだろうか)。本作は冷静に人間性を喪失しつつある日本社会の職場の闇を描いたにしてはテーマに対する突き詰めは薄く、どちらかというと会社に行きたくないハギワラさんが小説を書いたらこうなったという印象が強く(ハギワラさんごめんなさい)、だからこそぼんやりと社会批判を越えていけているような気がする。社会批判に徹すれば徹するほど「本来の人間性」みたいなものを強化しがちだが、本作では、人が自然で自然が人で、それをないまぜにした曖昧さの中にはこれまで見えなかった何かがいて、そこに手を伸ばしているような愛おしさを感じた。

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23. 「有毒植物詩」草野理恵子さん

有毒植物……魅力的……!
トウアズキの鮮烈な色のイメージには、言葉を重ねるのではなく「赤黒」という画数の多い漢字を羅列することで、より実印象に近い視覚効果を実現しているように思う。一転、ハリエンジュは植物そのものの特性をおいて言葉の響きを取り扱っている。ドクニンジンの不自由なままごとのような展開と全身麻痺の話題は毒性からの連想だろうか。
ヒガンバナは二通りが採用されていて、一つはその色、もう一つは形質の呪術的な持ち味を、それぞれ突き詰めたように感じる。流血というよりまだ体内を流れている血のような色も、束ねてはじけていくような形も、花と葉の独立も群を成すところも美しく、僕も好きな花だが、なにより身近さ(メジャーさ)においては今回紹介された五つのうちで群を抜いており、それゆえに最後の「いかにも毒々しい」クロバナロウバイを持ってきているところにまた並々ならぬセンスを感じる。
「有毒植物詩」として一つに束ねた時、「有毒であること」についての知識が詩のイメージにどんな影響を及ぼしたのかには興味がある。ドクニンジンやハリエンジュは見た目では可憐な花という印象で、もしその植物が有毒であることを知らなければ、また違った世界観を想像できたかもしれない。そういう、対象の性質を知ってしまう前と後の詩を比べてみてみたいという気持ちにもなった。

24. 「最近の僕らは」あさぬまさん

往年のフォークソングの名前みたいなタイトルが個人的にツボ。
個々の作品のモチーフは、(ぴょん吉が世代かという問題は置いておいて)、かなり若い視線や印象に支えられている節がある。羊水からはじまり、掛け算の計算をも思わせる「ご自由に」から、ルソーの絵のイメージ、そこから駒込ピペット、視力検査、市民プールと、かつて学校で触れた者たちが並ぶ。なので全体としては若者たちのイメージのランダムな発散というふうに読んだ。若者の思考は、そのすべてが必ずしもストレートな若者的思考なのではなく、少し背伸びの入ったところもあって、でもそれさえも若者的といえば若者的だという堂々巡り感が愛おしい。物事が一貫して直線をしているのか、それとも回帰する円のかたちをとるのかを考えあぐねているような構成も、世界に対するボンヤリとした視線を感じさせて好きだった。

25. 「「いつまでもそばにいられたらよかったのに。」」阿瀬みちさん

初め、別れた恋人だかのディスコミュニケーションを想定して読んだ。でも言葉の端々には端習る別れよりも遠い断絶が感じられて、途中で死別ではないかと疑った。これは僕の悪い癖で、曲の歌詞とかでも「具体細部のわからない別れの曲」は8:2の8割で死別を想定してしまうので(「楓」とか「岬めぐり」とか)、ちょっと慎重になって読み返した。
二ページ目の言葉の往還は、平仮名と漢字の交互で、段落も違うので別の人からの言葉だと素直に読む。そこに死を仮定すると、どちらがどちら側にいるのかちょっと分からなくなる。たぶん、平仮名表記の表現方法そのものに「死者の言葉」的なイメージを感じ取った一方で、内容を見ると明らかに平仮名さんの方が「残されている」側なので、そのちぐはぐさが生死の境をあいまいなものにしたと思う。それがむしろ心地よい。途中()でとじられた一文がはさまるのもいい。
しかしやはり最後の「永遠と呼んでもいいような恋だった?」という疑問の投げ方が強くて好き。どんなことがあったのかは感じ取ることしかできないけれど、一見ネガティブにも取れるこの言葉一つから出発して、ここにいるのは前を向いていける人だなという印象を持った。

26. 「ゆーとぴあ」野村日魚子さん

致死量のしあわせ。ふとんのようなおもちのようなふねに乗っていたい。パンの中からパンあふれだす夢を見たい。いつまでもそうしていたいと思わせるイメージを思い起こさせるのがすごい。それから、立ち返って、何でいまそうなってないんだ、みたいな理不尽な怒りもわいてくる。
この人は夢を見ているんだなという解釈めいたことをさせず、そういう言葉の分解と観察を全部すっぽかして、直接夢を見させてくれるような感触をもらった。心地よい。
そうだよね、ゆーとぴあと言って、別にそれが万人の理想郷である必要はないもんね、などと考える。自分を十分満たせるくらいの幸せは、文章にすればちょうどこれくらいの大きさなのかもしれない。僕は小説書きだが、どこか理想を万人の物にまで広げようとして虚飾しすぎている部分があったかもしれない。でも一方で、その小さい事すらどこか別の世界のことように、手の届かないのが何とももどかしい。



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