名も無き物語⑦

「ねぇ、またあの男に会いに行くの、会ってまたいっぱい抱かれて中出しされまくるつもりなの」

「そうだよ」彼女は誤魔化そうとして溢れ出す寸前の気持ちを必死に抑えつけた。

荒川公園の前を通った時、初秋ならではのそよ風が吹いてきた。彼女はその日彼に会うために、普段の自分らしくなく選びに選んだ黒色のワンピースを着て、ダークレッドのハイヒールを履いてた。

「私に会ったばっかりなのに、未練たらたらのくせに、もう他の男に会いに行くのかよ。ゆいちゃんは本当に欲求不満な人だな」彼女は自分の中の怒りと悲しみを隠すのが上手だけど、彼はそうではなく彼女の前でついつい本音を口に出してしまう。

彼女は彼の発する棘がある言葉を全部受け入れ、かじりもせずにまるごと飲み込んだ。

「今日のかずは格好良かったよ、すっごく。可愛かったし、格好良かった。何回も思わず「大好き」って言われずにいられなかった」そよ風の中に彼女は今日のすべてを思い出しながら、さりげなくつぶやいた。

彼は「話を逸らさないでよ、なんで毎回毎回あの男とえっちすんの、好きでもないくせに」と言おうとしたところを、また彼女に先を越された。

シャッターがほとんど閉まっている巷で彼女はゆっくりと歩むのをやめ、寂れた街の中、佇む。

「ねぇ、かず、そばにいて、しばらくそばにいて、お願い、夢の中で現れるだけでいい、何もしなくていい、ねぇ、そばにいて、私の部屋にいて、毎日他愛のない会話を交わして一緒にいよう」と彼女の声が掠れて起伏もなく暗闇の中にこっそりと紛れていった。

「私のことを欲求不満な女だと思ってもいいから、恨んでも、嫌いになってもいいから、そばにいて、ねぇ」

「君は本当にぶっ壊れてるね」彼は真顔で歩き出した彼女に言った。

「うん、知っている」

「でもね、しょうがないんだよ、かずの人生と交差することなく、すれ違うこともなく進んで行くしかない私の人生みたいに、しょうがないんだよ」街灯が薄々と光を放っている夜の帳を背景に、彼女は偽った笑みを湛える。

彼はため息をついた

「私の前で無理して笑顔を作る必要がないよ。君の気が済むまでずっとそばにいればいいだろう、わかったよ」彼女の横顔を見てさっきのわざとらしい笑みが消えていつものがらんどうの目をする彼女に戻ったことを確認ができた途端に、彼は心底でほっとした。

彼は無言のまま彼女と少し道を歩いて、駅に着いたら、別れの合図もくれずすっかり姿を消していった。

彼女もいつもの偽装の自分になりすまして、満面の笑みを作り、駅の改札口から入ってホームに向かった。

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