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いつも笑っていられる場所 ~春単2022・完~

 「MANKAI STAGE 『A3!』 ACT2! ~SPRING 2022~」全41公演、大千秋楽までの1ヶ月間、本当に本当にお疲れ様でした。優しく愛おしい春、その変遷をじっくり見守ることが出来たこと、繋がっていく絆を見つめ続けることが出来たこと、そのすべてに感謝を。東京、神戸、香川、凱旋と共に巡り、数日経っても振り返るとまだまだ涙が零れてしまうくらい、思い出深い春になりました。

 個人的に、エーステが繰り広げる「春組は家族」にかねてから少し疑問を持っていた。それは別に家族という比喩への疑問とか、家族ではないだろうとかいう批判ではなくて、原作と比較して「家族って言いだすのが早くない?」という気持ちがあったのだ。メタな視点に存在するわたしたちはACT1の発表よりもよっぽど先の未来を生きているから、原作春組が家族なのはすでに知っている。春組が家族エチュードで深めてきた関係性も、真夜中の住人公演のストーリーで東が「春組は家族、夏組は友達、秋組は仲間」だと言ったことも、ACT2で聞いた真澄の本音も、千景の後悔も、ACT3で明らかになった咲也の家族の話も知っている。でも、そもそも原作ACT1の春組がすごく家族だったかと聞かれると割と疑問だし、何なら「春組は家族」の核を担うのは卯木千景というキャラクターの登場であり、となるとそこまで辿り着いていない「エーステ」の時間の流れの中で「春組は家族」だと言うのは、些か都合がいいと言うか、耳触りの良いキャッチコピーに丁度いいフレーズとしての「家族」という表現を未来から前倒した感じが無くも無かった。最も、それは千景というキャラクターの持つ「家族」という言葉の重みが春組が「家族」になる過程で重要だと感じているからこそ、千景が居ない中で「家族」って言うのはちょっと違和感があるな、と感じたのかもしれない。
 そんな風に数年連呼され擦られてきた「家族」に対して、今公演でエーステにおける春組はようやく真っ向から向かい合う形になる。1幕2幕を通して突き詰める「家族ってなんだろう?」の答えを、6人が、そしてそれを支えた5人やみんなが、カーテンコールに辿り着くまでに折り重ねていったいくつもの心を、感じた沢山のメッセージを振り返って書き残したい。長くなる上に観劇済みでないと分かりにくい部分も多々あるかと思いますが、ゆっくりとお付き合いいただければ幸いです。

 冒頭、新生春組旗揚げ公演・ロミオとジュリアス。ACT2の始まりに「舞台はヴェローナ」。まさかである。しかもまあまあ長尺。それなりにしっかりしたダイジェスト。追加台詞もございます。劇中劇は尺を食うし着替えないといけないので、エーステ的にリピートしまくっている旗揚げ公演をどうしてこんなところでまでやるのか、最初は少し疑問だった。これまでのあらすじになるものでもないし。でも何回か観てピンと来た。ロミオとジュリアスって、「すべて解き放つ魔法の薬」で人生を変える話なんだ。
 ロミジュリ中盤、ロレンス神父は悩める2人にベラドンナを煎じて作った薬を授ける。薬を飲むことになるジュリアスに対しては「神よ、罪なき者たちに慈悲を」と祈り、ロミオに対しては「憐れで尊い者たちにご加護を」と告げる。その後、示し合わせて仮死状態になった2人を見下ろした神父はしゃくり上げて泣くフリをしながら、互いを認めて手を握り合ったティボルトとマキューシオを見ると一転、嬉しそうに階下へ笑いかける。そして見上げるロミオとジュリアスは背中合わせにロレンス神父へ笑みを返すのだ。
 薬を授ける者は力にさえなれど、どこへも行けない。仮死薬を授かった2人は授けた者の祈りの通りに今までとは違う身分で一緒に旅立つ。これってオーガスト、エイプリル、ディセンバーに起こったことと同じだ。何故ロレンス神父は壇上から見下ろし微笑んだか、それは彼がオーガストの役回りを担ったからだと思う。だから彼は言う「愚かなこの私を赦したまえ」と。ロレンス神父を頂点に、ロミオ、ジュリアスと3人で三角形になる場位置にも意味があったのかもしれない。
 そしてこのはじまりの物語は「約束を今果たそう、永遠に結ばれた僕らの絆」という言葉で終わるのだ。

 原作のA3!で密と千景が主演・準主演を務めた時、監督は困ったように「あんまり本気で殺し合わないでくださいね、お客さんがびっくりしちゃいますから」と2人を窘める。きっと彼女が今回のエーステの監督だったら、植田さんと染谷さんに同じことを言っただろうな、と少し愉快な気分になった。
 春組単独公演、と銘打たれているけれど、要するにここから始まるのはルーキーズと呼ばれる新劇団員の4人を取り巻く話で、その先陣を切ったのが春組であり卯木千景だ。という訳で、彼の復讐のターゲットであり、エーステ開始以来記憶が戻らないままひたすらにマシュマロを与えられ温存されていた御影密も最重要ポジションに上がって来た。春組じゃないのに、オープニングで真澄と共に意味深な演出を与えられているくらい、本公演の重要人物である。

 密を演じた植田圭輔さんという俳優は、すごく激情的なお芝居をする人だな、と公演全体を通して思った。可愛らしい見た目と裏腹に本人が割と男気のある男性であることは何となく知っているのだけど、その真っすぐな熱が今回の、脅されて翻弄されてそれでも自分を取り戻していく密の中にきちんとあって、御影密ってやっぱり頭がいいし、強い人だなとすごく感じた。正直千景よりも密の方が普段は図太いし、逞しい。生命力が高いのもそうだけど、基本的にあまりぶれない人。そして、植田さんの演じる密は最後まで細部まで心のままに生きる自由な人だった。今回の密は様々に重要な台詞があったけれど、エイプリルとオーガストへ向けた言葉はどの公演も少しずつ違っていた。特に「舞台に立って、芝居をして欲しい」「頑張れ、エイプリル」「オーガスト、ずっとずっとありがとう」「ありがとう、”千景”」。この4つは植田さんが色んなアプローチをしていることが分かって、観ていてすごく面白かった。
 「舞台に立って芝居をして欲しい」。これは、自身がディセンバーを裏切ったことに気が付き、全てを失って慟哭するエイプリルに掛ける言葉。初日の頃、最初はただ真剣に真っすぐ。神戸公演辺りではとにかく力強く。そして凱旋公演では千景を起き上がらせる手つきまで優しく「舞台に立って」と少し微笑むような響きがあり、半拍ほどの間のあと「芝居をして欲しい!」と強く言い聞かせるような声音。ここまでずっと、闇に包まれた過去の罪に怯え、本気で復讐を成し遂げに来た千景の挙動に震えながら、べしょべしょに泣き崩れながら、それでも冬組の支えで立ち上がった御影密本来の強い姿。一緒に育った同い年である密と千景は性格や背丈から千景が兄のように見えることが多いけれど、密の持つ包容力や頼もしさ、愛情が前面に出るシーンだった。
 「オーガスト、ずっとずっとありがとう」「ありがとう、”千景”」この2つの言葉は比例して変化していくなぁ、と感じていた。千秋楽の後に植田さんが「ありがとうという言葉が好きになった」とツイートしていたけれど、そうなんだなぁとしっくり来る。この言葉たちも最初はすごく発声が強くて、熱い気持ちを込めた台詞だったはず。後半になればなるほど、優しく幸福そうになっていったのが印象的で、密もといディセンバーが家族のことを愛していたこと、そして今も愛しているのがよく伝わって来た。
 最後まで千景の名前を呼ばなかった密が呼ぶ唯一の「千景」は、色々な表情を見せていたけれどとても嬉しそうに笑って終わった。そしてそのシーンで少しびっくりした顔をしていた千景もいつからか、ふっと笑うようになった。神戸公演くらいからかな。死ねない自害薬のせいでバラバラに千切れた絆が、甘くない自害薬のおかげでもう一度繋がった。かけがえのない家族になれた2人が本当に愛おしい。
 あと密の忘れていけない台詞として「大丈夫、絶対助けるから」がある。千景に軟禁された監督を安心させるための、そして監督ともう1人を助けに来た決意の言葉。その前のシーンで密は運命共同体である冬組に救われた。君は独りではない、罪も一緒に背負うという言葉はあまりにも強い覚悟だ。そのあたたかで真剣な覚悟を持って密は、エイプリルの、そして千景の孤独と罪を一緒に背負いに来た。「絶対に助ける」の矛先が監督へ向けたものだけじゃないと、ちゃんと分かる表情と声音を毎公演届けてもらえて、植田さんには本当に感謝しかない。
 これは余談として、カテコ曲「24 flowers」で客席に降りた千景が戻ってくる立ち位置が密の左隣だった。いつもダッシュで帰って来たままの勢いで密の腰を抱いて笑顔を見せに行っていて、密と千景というよりは植田さんと染谷さんがお疲れ様って気持ちなんだろうなと思うけど、何だかすごくほっとした。全公演、命をかけて真剣勝負してくれてありがとうございました。そのタイミングで必ず咲也くんの「終わらない夢を一緒に見ましょう」が聞こえるのもすごくいい。また一緒に夢が見られるね。

 卯木千景という男は、強靭な心身を持っているけれど、神経質でめんどくさくて実は結構子供っぽい。頑固で、頭も口も回りすぎる理論派。けれど、本来はちゃっかりしていて色んな事を面白がっていて、誰にも分からないようなところで自分の大切なものをとても愛している。そういう千景の表と裏と嘘と本当を全部引っくるめて、それこそ手品のように見せたり仕舞ったりしていた染谷俊之さんという俳優は、あまりにもクレバーで器用。彼の他の芝居を観たことある訳じゃないけれど、たぶん誰かがピンポイントに名指しで指名したんだろうなと想像するくらい、卯木千景というキャラクターに適正がある芝居を魅せてくれた。
 俳優同士がどんどん仲良くなってしまったから1幕がやりにくくなっていった、と染谷さんは言っていたけど、だからなのか千景は感情のアップダウンが公演期間終盤になればなるほど激しくなっていった。特に顕著だったのは「まるまるまとまる大作戦」の時で、東京公演や神戸の頃はみんなが周りをぐるぐる回るのを見て手拍子してたりとか、少しは心が近付いたような雰囲気を出していたのに、凱旋では後ろを向く度に表情がバッサリ失われて心が凍てついていた。春組が千景にグッと近付いて来る度に胸の前で腕を組んで、背中を向けて拒絶する。例えば至に「契約しませんか?」と問われた時、咲也に「千景さんならすぐにみんなと仲良くなれます」と言われた時、「もっと良い芝居のためにもっと仲良くなりたい」と言われた時もそう。表向きは「構わないよ」「楽しみだな」「努力しよう」と朗らかに頷いているけれど、そっと腕を組み、そして相手が視線を外すタイミングで組んだ腕も解く。警戒、拒絶、そして嫌悪。腕を組み、背を向けるその細やかな仕草が明確に他者を寄せ付けていない。繊細に心の機微を表現してくれているんだなぁと感嘆した。
 監督に怒鳴り散らした後、稽古場に戻ってきた咲也に対して必死に本当の顔を隠すように不器用に微笑んでいたり、稽古で雄三に叱られた直後のみんなが真澄に注目した瞬間、それまでの殊勝さを捨て去って「稽古なんて心底どうでもいい」みたいな目をしていた日もあった。何回観てもきっと、染谷さんが仕込んだ卯木千景の、卯木千景らしい動作を全て見付けることは出来ないんだろうな。タネも仕掛けもないように見せ掛けて、指先にまでトリックを隠している。
 凍てついた表情、全身からほとばしる拒絶の動作、そして憎悪に彩られた怒鳴り声。それらと対照的に、オーガストの話をする時の千景は酷く頼りない印象を受けた。月並みな表現だけれど、まるで迷子になった子供のような顔をしていた。その千景の持つどうしようもない孤独や寂しさ、そこから来るオーガストへの執着は、凄まじい説得力がある。例えば、忘れてしまって怯え戸惑う密にどんどん怒りを募らせて行った「家族だってさ!」とか。「俺は唯一無二の家族を失った」のすがるように指輪を口元に近付ける場面もそう。怒りに震え、それだけを必死に手繰り寄せながら、つついたら崩れてしまいそうな繊細で痛々しい表情を何度も見せる。

 個人的に月下関係で1番舞台化の意味を感じたシーンは「あの日」の回想シーン。原作ではひたすらに密の独白と、少々のオーガストが混ざるだけで、立ち絵が無い。それが舞台になったことで、密の独白を聞き、そして目の前でそれが繰り広げられる時に千景がどんな表情をするか、残酷なほど鮮やかに舞台の上に並べられてしまった。東京公演の最初の方は「案外しゃんとしているんだなエイプリル」と思ったそのシーンも、神戸公演の頃にはもう、目の前でオーガストが撃たれるのを見て目を見開きながら泣き出しそうに全身を震わせていた。極めつけはディセンバーが「オーガストが助からないなら俺も此処で死ぬ」と震える手で自害薬を煽る場面。言葉を聞いてショックを受け、薬を飲み干すディセンバーに手を伸ばしたそうにして、立っていられないと言わんばかりによろめく。薬を飲むディセンバーを見つめる「置いていくな」と叫び出しそうなくらいに深い絶望を浮かべた瞳。たった3人の家族が次々と目の前で死んでいくことを受け止められていない頼りない姿。声も上げられないような衝撃にただただ襲われ続ける可哀想な人を、誰も支えてあげられなかった現実。密を殴って罵って首に手を掛けて、それでやっと繋いだ自分の正当性さえ小瓶と共に粉々に砕け散って、何もかもを失ったことにすぐに気付いてしまう皮肉なまでの聡明さ。卯木千景というキャラクターが1人ぼっちで佇んでいた深淵を、これ以上無いってくらい丁寧に、そしてつまびらかに舞台の上で表現したシーンだった。このシーンが完璧だからこそ、その後の数々の台詞の深みやあたたかみが増すんだろうなといつも思っていた。闇が暗ければ暗いほど、光は明るく眩しいものだ。
 嫌な予感がしていたというオーガストはもしかすると、だからこそ生命力の強いディセンバーを携え、エイプリルは出張に行かせたのかもしれない。きっとあの断崖に居たのがエイプリルだったとして、オーガストが助からないと知った時にディセンバーと同じ道を選ぶだろう。でも、薬を飲んでオーガストの嘘を聞いた衝撃のまま冬の海に突き落とされて、エイプリルが岸まで泳ぎ着いたかは甚だ疑問だ。たぶんそんなに強い人じゃない。
 着替えても何をしても片時も肌身離さず持っていた、形見である自害薬が割れてしまうのも厭わずに密の手から叩き落とすのを観る度に、やっぱりこの人、オーガストだけじゃなくてディセンバーのことも守りたかったんだなと、思ったりした。クリスマスにジンジャーブレッドを食べる約束をするのは、家族だもんね。

 千景を、そして1幕では真澄を。一生懸命手を伸ばして、真っ直ぐに受け入れて、家族にしてくれたのはやっぱり佐久間咲也くんだった。咲也くんを演じる横田さんは日々のお芝居の振れ幅が物凄く広い人で「今日の咲也くん本当に最高だった…!」時もあれば「今日なんかまたいつもと違ったね?」みたいな日もあったりして、ずっと新鮮で、見ていて飽きない咲也くんだった。彼を見ていると自分の好きな佐久間咲也ってどんな部分なんだろう、みたいなことを自然と考えてしまうんですよね。それくらい色んなお芝居を見せてくれるし、すなわち本当に自分の解釈から外れてると感じる日とかもあるけれど、真っ直ぐでにこにこしていて春組の真ん中に立っているその姿はいつだって頼もしい。
 個人的には「俺たちだって家族です」「公演の成功よりももっと、大事なことが」という2つの台詞が印象深かった。本当はどちらのシーンもその先の台詞がピークなのだけれど、だからこそ日々の違いや表情でその後の重さが変わる台詞だなと感じた。「俺たちだって家族です」は、1幕、真澄が旅立とうとする空港に押し掛けて引き戻そうとする咲也たちに、岬の秘書である須賀が「この間も言ったはずです、これは家族の問題だと!」と非難したことに対する返し。東京楽含め「家族です!!」と怒鳴り返すような発声が多かったけれど、自分が観たいくつかの公演で「俺たちだって、家族です」とぽつりと静かに優しく、けれど真っ直ぐに鋭く返したことがあった。横田さんは基本的に芝居が大きめなのもあって、逆に静の芝居が際立つ。その前に「仲間です!!」と岬に返すシーンとの対比が美しく、「一緒に居ようよ、真澄くん」との調和があって、個人的には凄く好きなシーンになった。思えばエーステACT1の春組は「家族みたい」とは言っていたけれど「家族です」とはあまり言っていなかったのかもしれない。少なくとも歌詞はいつも「家族みたい」だった。その後の初恵さんからの手紙でも明らかになる通り、A3!の春組における「家族」とは「絆」と「居場所」、そして「宝物」の名前だ。春組が家族という居場所であることを、ここに居て良い、ここに居て欲しいと伝えることを真っ先に出来たのはやっぱり咲也くんで。それは彼が誰よりも、その場所を大切にしてきたからこそ出来ることだった。
 「公演の成功よりももっと、大事なことが」は、出て行こうとした千景を間一髪で引き留めて舞台の上で一緒に眠るシーンに出てくる。素の千景はとてつもなく自傷的な人間なので、そういう言い方してわざわざ傷付きに行かなくていいのに、と思うような言葉遣いをする。例えば「せっかくここまで積み上げた春組の評判を、どん底まで落としちゃって良いの?」。それに対して咲也くんはそれよりももっと大事なことがあると言った。この台詞の「もっと」の言い方がすごく好きだった。優しくて、でも有無を言わせない強さがある。咲也くんにとってお芝居は人生の中で本当に本当に大切なもので、春組公演の成功も物凄く重要だ。でも、そんなことよりも今は目の前で途方に暮れて泣き出しそうになって、放っておいたら罪悪感に潰れて死んでしまいそうな千景を支えることが大事なのだと言い切る。曲も含めてこのシーンの咲也くんの優しく包み込むような表情と声音は毎公演圧巻で、彼がいるからこそ春組は家族で居られるし、6人で居られるのだなと毎回感じていた。桜色の照明も本当に綺麗だったな。全部ひっくるめて、大好きなシーン。
 ポスターのキャッチにもなっていた「客席から観ていた家族の一員にはじめてなれた気がした」という言葉は、きっと春組全員の言葉だ。「憧れて手に入れた」のは咲也だけじゃない。客席から観ていたのも、咲也だけじゃない。両親からの愛情を上手く受け取れなかった真澄、ずっと脚本が書きたくてでもずっと踏み出すことが出来なかった綴、人間不信でゲームにしか熱くなることの出来なかった至、兄弟に裏切られ自身の運命に苦悩していたシトロン。それぞれ具体的に欲しかったものは違うけれど、演劇という居場所、春組の自分という存在を通して手に入れたかけがえのないものが、そこにはあった。かつて「ロミオは俺の役だ」と身体を壊すほど居場所に固執して血眼になっていた咲也が、今度は千景に誰にも奪われることのない居場所を示す。そこにあったのは、千景が最悪の形で失った「家族」という名の繋がりだった。

 家族という名の繋がり、そこに溢れる愛情を誰よりも敏感に感じていたのは、本当は真澄なのかもしれない。真澄を演じた高橋怜也さんという俳優は、丁寧に繊細に17歳を演じていた。東京公演では他のメンバーに比べてアクセルを踏み切っていない感じがして、横田さんとはまた違う形で毎公演違う表情をするので「これは…?」と思いつつ見守っていた。そうこうしている内に、回を重ねれば重ねるほど、舞台上の全て、真澄をとりまく環境の全てからの感情を一身に受け止めて苦悩し、涙しはじめるように変わっていった。触れたら崩れてしまいそうな細い身体が受け止める悲しみや、愛を捨てて行かなければならない葛藤、愛しているからこそ共には居られない痛み。すみれ色の瞳に涙をいっぱいに溜めるシーンが公演期間が進めば進むほどどんどん前倒しになって、自分と周囲の感情に揺さぶられ翻弄され、それでも突き放そうとする真澄の表情からは、片時も目が離せない心持ちだった。
 碓氷真澄といえば監督のサイコストーカー。日替わり館内放送では度々「すくすくと立派なストーカーに育ちました」などと紹介されていたほど。芝居をはじめた理由も監督という、一目惚れ・筋金入り・一生添い遂げる覚悟の三拍子。そんな彼が語る両親との思い出は、確かに子供心を深く傷付けるには十分であると思うけれど、同時に真澄って小さな時から真澄なんだなと当たり前のことを思った。要するに真澄はずっと、誰かを愛したい人なのだ。勿論愛されたいだろうけれど、どちらかと言えば自分が尽くすことで安定するタイプ。両親から求められた息子としての役割をひたすらに全うして生きてきたいじらしさは、どんなに監督にスルーされようとめげることのないひたむきな健気さを確かに感じる。追い掛けられるよりも追い掛ける方が性に合っている。
 そして、愛されることがとっても下手な少年でもある。あれだけ有無を言わせなかった岬が初恵さんの手紙を聞いて「この人たちと一緒にいたいのか?どうなんだ?」と尋ねる。これは真澄のことはどうでも良い存在じゃないと分かる台詞。「一緒に居ようよ、真澄くん」と咲也に声を掛けられて尚、動くことの出来ない不器用な人。心のままに動くことが出来ない17歳の葛藤を、まるでそこで本当に生きているかのように高橋さんは表現してくれた。愛されるということは信じてもらうということで、期待されることにも似ている。春組の4人が贈った「此処に居て」「一緒に居よう」「どこにも行くな」「家族になろう」という言葉と監督の優しさを飲み込むことすらしばらく時間が掛かっていたけれど、その戸惑う姿も毎公演本物だった。驚いて、傷付いて、泣いて、愛する。元来感情表現の希薄な真澄が懸命に生きる姿がそこにあった。人生には彩りと賑やかさが必須な訳ではないけれど、真澄の人生が鮮やかになっていく様を見ることが出来るのは嬉しい。
 「革命を気取るのは勝手だが、今の生活を変えたくないやつもいる」。これは真澄演じる南の魔法使いの元にオズとリックがやって来た時に掛ける言葉。そして、アジトで特別稽古をしている監督のシーンで選ばれる南の魔法使いの台詞。千景が成し遂げようとした復讐は、MANKAIカンパニー的には完全にテロだ。どうにかして破壊しようと画策する男に対するこの言葉は強い抵抗であり、1幕で今の生活にようやく落ち着いた真澄が言うからこそ響く言葉でもある。
 舞台化して演出されてやっと映えるようになった監督と千景を除く春組が稽古を続ける場面で選ばれる5人のセリフは、恐らく原作の時点ですでに、行方不明になってその場にはいない千景へ投げかけられた言葉だった。「あなた様はどなた様ですか?」そう言う咲也は後に、千景がどんな人なのかも分からなかったと言った。「魔法使いオズ、こんな辺境の地に何の用かな?」「微力だが助太刀しよう。オズの魔法使いにわが祝福を!」この言葉は、エイプリル同様に日本のさびれた劇団へ海を越えてやって来たシトロンの優しさ。「まさか、あいつが裏切るはずがない!」そういう綴はどこか訝しげにしながらも、千景のことを受け入れようと、千景が春組になれるようにと一生懸命脚本を綴ってくれた。「確かに守りを固めているようだ」という至は最初から千景の挙動を伺うように見守っていた。薄々かなり怪しいことに気が付きながら反撃に出ないのはそれでも千景を受け入れようとしているからだ。そして最後に続く台詞は「あなた様のお帰りをいつまでもお待ちしています」。全員が千景を、あるいは千景に向けて言葉を投げる咲也の背中を見つめるシーン。舞台になり、本当はその場にいないはずの千景がそこにいるという演出が付いたことで、春組がどれほどの気持ちで監督と千景を思っていたかが伝わる、重要なシーンになった。

 「エメラルドのペテン師」は、国を追われたオズワルドが偶然辿り着いた魔法の国で名前を変え、オズとして生きていくために人々を騙しながら、仕方なく人々に手を貸している内に、人としての心を取り戻し、オズワルド本人が救われる物語。それって、エイプリルが卯木千景として潜入したMANKAIカンパニーで起きたことと全く同じであって、皆木綴先生ってすごいなと感動さえ覚える。「綴は俺のことをよく掴んでるよ」どころの騒ぎではない。人生が見透かされている。
 綴を演じた前川さんは正直どういう芝居プランでそこに立っているかよく分かりかねた俳優ではあるのだけれど、1つ言えることがあるとすれば、舞台の上に居る瞬間、限りなく皆木綴と同一の心で生きている。だから、真澄として生きることがどんどん深まっていった高橋さんとのシーン、綴が真澄を思って怒鳴ったり泣いたりするシーンは相性がものすごく良くて、どの場面も見事だった。
 「真澄、俺たちと一緒に居よう」これは、空港で一緒に居たいと言い出せない真澄へ掛ける言葉。ここまでの綴は「所詮は他人だから俺たちに出来ることは何もない」「親が決めたこと」と自分たちは血の繋がりには勝てないと決めつけていた。彼は普通の家庭で育った普通に家族のいる人間なので、血のつながりの強さを知っているのだ。でも、初恵さんという血縁者からの手紙を聞いて、綴は覚悟を決めたように真澄に向かい合う。もしかすると綴の中で「春組家族」はこの時までごっこ遊びに過ぎなかったのかもしれない。家族みたいなもの、家族ということになっている架空の存在が、本当の「家族」に変わっていく、その過程が今回の舞台の上にはあった。家族になったのは真澄と千景だけじゃない。咲也も綴も至もシトロンも、たぶんこの物語を通して1年前の春とは違う気持ちになったのではないかと想像する。真澄と千景が加わったのではなく、6人のつながりの形が変わったのだ。
 「千景さんはもう、俺たちの家族なんすから」という台詞は、確か原作にはない。というより、咲也が千景を追いかけて行った直後、夜中に2人を探す春組のシーン自体が舞台オリジナルである。あれだけ血の繋がりには勝てないと諦めて何度も引き下がろうとしていた綴が、だれよりも先に千景を探しに行こうと言い出すのは、この物語の中で感じられる綴の成長だ。この言葉を前川さんがすごく大切にしていることが分かって、このシーンはフランクで明るい雰囲気の中に確かな絆が見えるのがすごく良かった。咲也や至だけじゃない、全員が千景を想う気持ちが表れる大事なシーンで、ここまで積み上げてきた絆によって動き出した4人が、最後の1ピースである千景を迎えに行こうと走り出す。その先頭を走る綴は、1幕で後ろばかりを向いて諦めていた時の彼とは違うのだということがありありと分かって、眩しかった。
 「綴は俺のこと、よく掴んでるよ」と、千景は言った。それに対して綴は、東京公演では少し驚いて嬉しそうな表情、神戸でははにかんでいて、香川辺りから「そうっすかね」と頭をかいて照れ臭そうにするようになった。全41公演、積み重なっていった座組の絆を経て千景が向けるようになった優しい眼差しが、前川さん演じる綴がそこで生きて輝き続けた証のようで、素敵だったな。あまり派手なシーンやキラーワードを与えられているわけでは無いけれど、堅実に着実に地に足が付いた皆木綴。アドリブやソロを含め、その時その時を楽しそうに生きていた姿はあまりに魅力的でした。

 派手なシーンはあまり無いけれど、着実に爪痕を残した冬組の中で、雪白東という人は上田さんが芝居にひた向きな人であることを感じさせるように、誠実で穏やかであたたかで、誰に対して伸ばした手も優しく、麗しかった。
 東が与えられた本公演最大のミッションは恐らく、初恵さんからの手紙の代読。手紙なのでまあまあな長台詞で、東京公演の頃はただ読み上げるように、優しくてでも結構さらっとしていた記憶がある。それが神戸辺りから、声色を変えて初恵さんとして読み上げるようになったのが本当に印象的だった。特に手紙の中で劇団の話や春組の話をするところ、例えば「家族とは、血の繋がりではなく、もっと深いところで繋がる縁」という言葉。あくまで体を岬に向けながら、指し示すように春組の4人を見回して紡がれる言葉は、初恵さんが真澄を守ってくれる姿のようで、その東の背中を見る度に涙が出た。真澄にはこんな仲間たちがいるんだよ、と岬に対して示すことは初恵さんではなく東だからこそ出来る仕草でもあって、その塩梅が丁度よかった。
 ご本人が結構笑い上戸なのか、誉や紬とのアドリブで笑いが止まらなくなってしまったり、原作の東は年齢不詳のミステリアスお兄さんだけれど、上田さんの東はもっと若いというか、可愛らしい印象だった。一歩引いたところにいる物憂げな静かさよりも、寂しがりでみんなのことが大好きなところが前に出ている東は、ちょっぴりお茶目でかわいい。そんな東ももしかすると、これまで上田さんが演じてきた中で少しずつ積み重なって来たものなのかもしれなくて、この春は過ごしてきたいくつもの季節の上にあるんだな、と感じた部分でもあった。

 何故か全国各地で「理解不能」を踊ったり、シトロンに思い切りドアを閉められたり、謎ルールのグリコで遊んだり、たるえだをしたり、即興ジェスチャー合戦(?)をしたり、東に留守番していてねと頼まれたり、怒鳴り声と涙の多い本公演の明るい部分を担い、縁の下の力持ちとして大活躍していた誉。完全に「属性:コメディ」だった春単の誉を演じていた田中涼星さんはその佇まいの温度調節がすごく上手だったなと感じる。パーソナルな部分をあまり知らないので想像するばかりだけど、彼自身がものすごく空気を読むのが上手なのかもしれない。
 アップダウンの激しい物語の中で、アップの部分を多く請け負っていた誉は、それでも騒がしすぎることなく、あくまでも春組の空気に上手に溶け込んでいたように感じる。サポートとして、大人として、優しく明るく脇を固めた偉大な存在。個人的に「この人が居なかったら、また違う温度感の公演になっただろうな」と思うダントツのキャラクターであり、俳優だった。
 明るく楽しく優しい誉だけれど、今回彼に課された最も重い台詞は「その罪はどの程度の重さかね?」。密を支える冬組の中でも、同室でマシュマロ供給係で、第2回公演の際の恩を返そうとしていた誉は誰よりも密に近く、真剣だ。
 密が泣き崩れる中、感情の機微に敏感なメンバーが多い冬組の中で、真っ先に罪という言葉が出せるのは、エアーの読めない誉だからだとも思う。誰だって口火を切るのは怖いので。誉はきっとあの一瞬で密の気持ちになって考えた。そして自分だったらどう言って欲しいか、抜群の語彙力の中から選んだ。思い出すのが怖いけれど思い出さなければならない、だから、それが少しでも怖くなくなるにはどうして貰えたらありがたいか。他人を理解できないことに苦しんだ誉は、他人に理解されると救われることがあるとよく知っている。「怖い」と泣く密に寄り添う時、優しい顔をしている回と、真剣な顔をしている回があった。最終的に真剣な顔で「我々は運命共同体だ」と言った後、密と目が合って微笑みかける形になっていたのが最高のコンビネーションだったと感じる。誉には何回か心の中でスタオベした。
 密に振り回され、密を振り回し、そうやって築いて来た凸凹な2人の繋がりが強く感じられた公演だったなとしみじみ思う。ずっと密と同じ部屋で寝起きしている誉が「目が覚めた時も傍にいると約束しよう」と優しく語り掛ける意味は大きい。それって、これからも変わらない日々を一緒に送ろうって意味もあると思うから。

 他人を理解し懐に入れることを諦めた大人は、MANKAIカンパニーに出会いもう一度誰かを信じてみることを前向きに検討する。誰かを信じるということは誰かを選んだ自分を信じるということでもある。自分の城を守るという邪な理由で千景を紹介した至は、雄三や咲也が「春組としてまとまる」ということについて口にする時、ふいと視線を逸らすようにするのが印象的だった。それもそのはず、実は一度も同じ部屋で眠ったことのない同室相手なのだ。
 茅ヶ崎至を演じた立石さんは本編の最中いつも一歩引いているような印象を受ける。これは彼が出ている他の作品でも割とそうなのだけれど、茅ヶ崎至という役はそれが顕著だなと感じた。立石さん自身はどこの現場でも「居るだけで場の空気が明るくなる」と言われているような人なので、敢えて至を演じている時は俯瞰的なポジションに身を置いているんだろうなと何となく思った。今回はそこに千景という、初期位置が更に外側の人間が増えたことで玉突き的に他のメンバーとの距離感が程よく、家族という枠の中に収まりながら他の春組4人とはまた違った場所に立っていて、そもそも華のある人でもあるため、すごく独特の空気を纏っていたように感じる。カンパニーに限りなく近いけれど、ほんの少しだけ千景に、そして他の大人に近付くことの出来る人間、その唯一のポジションを埋めるのが至だ。
 「こういうのって本人の意見を尊重すべきでしょ。いきなり来て1週間後に引っ越せだなんて横暴すぎると思いますけど」と、真澄の渡米を告げに来た岬に理論的に詰め寄ったのは至だった。咲也も綴も感情任せに岬を責める中、冷静かつ笑みすら浮かべる姿は、ジャージを着ていても一流商社マンの対人スキルなのかなと思う。勿論相手は至よりも何枚も上手だけれど、この場で至が前に出たことは、咲也たちにとって物凄く頼もしかったのではないか。公演期間後半になればなるほど、この台詞は意識的にスピードが落ちて、交渉らしい雰囲気を纏ったのがすごく好きだった。稽古直前までゲームをしているダメな大人代表の、真澄のために前へ前へ出て行く姿はなりふり構わないところを含めて格好良かったな。
 「戻ってくる気、ないくせに」これは立石さん本人も至の見所だと言っていた、脱走する千景に気が付いて引き留める場面。公演が重なってだんだんと千景が弱く頼りなくなっていくので、それに比例して至はどんどん頼もしく、そして不器用な愛を一層感じられるようになった場面だった。「先輩は同室するにあたって最高の人材なんで」と微笑んで見せた後、振り向かない千景の背中を伺うようにじっと眺め、千景の答えを聞いても表情を変えないまま、千景の姿が完全に消えてから全てを悟ったような苦々しい顔をする。わたしは至が千景を見送る時の"間"と「しょうがないなぁ」と言いたげな表情がとても好きだった。他人の事なんてどうでも良くなっていた茅ヶ崎至がMANKAIカンパニーの中で絆されて、けれど自分では追いかけずに咲也に電話を掛ける。至なりの不器用な手助けであり、1年前の自らを春組に引き留めたリーダーへの絶大な信頼であり、そして千景への分かりづらい心遣いでもある。寝ている咲也を起こしてまで千景を止めたかったのか、寝ている間に居なくなってしまった千景にショックを受ける咲也たちを見たくなかったのか。至の中ではどちらが大きかったのだろうとたまに考えたけれど、答えはハッキリしない。ただ、あの時点ではきっと千景のことよりも咲也たちの方が至にとって大切だったとは思う。それでも綴に「千景さんはもう俺たちの家族」だと言われ、少しだけきょとんとした後「確かに」とはにかんだその顔に、きっと嘘や妥協は無かった。大切なものはいつの間にか増えていく。人も居場所も気が付いた時には手放せなくなっているものなのかもしれない。
 「まあいい、信じてやろう」。西の魔法使いはオズにそう不敵に微笑む。至は自分が引き込んだ千景をあまり信用していなかったようだった。あの個人間契約の内容を考えれば当然で、あまり深く関わろうという気も無さそうで、出来ればカンパニーから少し遠いところに居て欲しいっていう気持ちすらあっただろう。それでも、自分が演劇に出会って変わっていったように、何かが千景の救いになれば良いと思ったのかもしれない。大切な監督を拉致した千景を、聡い至が何故信じることにしたのか本当のところは分からない。だけど、誘拐された本人である監督が千景を受け入れたこと、咲也がそれこそリックのようにどこまでも千景を信じていたこと、そして1年前の素行不良な自分が信じてもらって救われたことを千景に重ねたのかもしれない。信じる者は救われるなんてこの世界の真っ赤な嘘。だけど「もう一度誰かを信じてみても良い」と、MANKAIカンパニーの中で茅ヶ崎至は1年前にそう思ったのだったね。
 これは余談だけれど、立石さんという人は甘えても大丈夫と判断した人には大型犬のように懐く人なので、カテコ曲で日に日に仲良くなっている事が分かる商社マンズを見て、素敵な仲間が増えてよかったねとほのぼのした。商社マンズ……この布陣で次回作も上演するのだろうか……想像するとちょっと気が遠くなるなぁ。色んな意味で。

 気が遠くなるほどの長いロングラン公演、1公演も欠かすこと無く笑いの場を提供してくれたシトロン。無邪気で明るく、本当は思慮深く達観している。古谷さんという人を深く知っている訳では無いけれど、彼はフランクな場でシトロンへの思いや役作りについて語ることを嫌う気がある人だと、何となく見たことがある。でも、本当はきっと誰よりもシトロンを見つめて、考察して、深く理解している。そしてとてもお芝居が好きな人なのだろうな、ともすごく感じる。
 古谷さん演じるシトロンは、誰に対しても愛情深い。原作通りと言ってしまえばそれまでかもしれないけれど、支え守るように差し出されるいくつもの挙動は、劇中劇を含め一貫していつも誰かのために伸ばされていた。息子を連れて行こうとする岬の前で、真澄を庇って隠した背中。監督と千景が行方不明になった日、「明日には帰ってきますよね……?」と泣き出しそうな顔をした咲也の背に伸ばされた手。真実を知って呼吸するだけで精一杯な千景が参加したズタボロの稽古の最後に向けられた気づかわし気な眼差しと優しい軽口。その全ての愛情表現の裏側にあったのは空港で鋭く言い放った「真澄は絶対渡さないヨ」に通じる、切実なまでの繋がりへの執着だったのかもしれない。あと2つほど季節を越えた頃、シトロンが一度この劇団を去ることになるのをメタな世界に生きるわたしたちは知っている。だから、そんな彼の言う「もう1人でどこかへ行ったらダメ」をどんな気持ちで受け止めたらいいのか、劇場で聞く度に考えたけれど、何度考えても優しいが故に残酷な人だなと思った。どうして居なくならないで欲しいことを自分には適用できないのか。シトロンもいつまで此処に居られるかはその時点では分かっていなかったのだけれど。ただ、古谷さんはそれを知っている。その上で込められた気持ちはなんだったのだろう。とても聞いてみたいような、聞いたら絶対ダメなような。東京公演を見たときにすごく思ったけれど、古谷さんの演じるシトロンはやっぱり奥行きというか人間としての幅がとても広くあるので、物凄く興味深いし、もっともっと色んな表情を観たいなとついつい前のめりになってしまう。
 ところで「家族」とか言いながら、「家族」だからこそかもしれないけれど、ACT3現在6人中4人が退団を希望し実行に移したことがあるのは4つの組の中でダントツの水準である春組。ああ見えて素行が不良。出会いと別れの季節だと言ってもさぁ、である。でも、寂しがりばかり、繋がりを求めるものばかりが集まった「家族」は、綻びと結びなおしを繰り返しながら強くなっていく。きっと、これからも。
 「ウスイマスミ、身長175センチ、りっっっっっっぱなストーカー。でもワタシたちの大切な人、一緒に探して欲しいヨ~!」これは千秋楽で発された空港の館内放送だけど、シトロンによる館内放送は毎公演手を変え品を変え、真澄のことを時に面白おかしく、時に真っ直ぐ気持ちを込め、最上級に愛していると伝えていた。真澄が眠るのが好きなこと、監督が好きなこと、愛想が無いこと、落ち込むと小さくなること……どれもこれも、真澄のことをよく知り、大切にしているシトロンだからこそ面白おかしく表現しても許される部分であり、真澄の可愛いところだ。シトロンのアドリブも日替わりも沢山あったけれど、個人的にはこの空港の館内放送アドリブが1番好きだった。日々変えていった頭の回転と手練が凄いし、毎公演必ずクスッとしてしまうような内容を考えてくれるのも天晴れすぎる。
 「タネも仕掛けも無いチカゲ、格好いいヨ」。オズとリックの最後の掛け合いを観ながら、魔法使い役の4人は笑う。劇中劇で、登場している人物同士がモノローグで会話することはA3!によくあるけれど、袖に控えている団員がひょこりと顔を見せて言葉を交わすことは結構珍しいと、思う。最初からあたたかくウェルカムモードだったシトロンは、最後まで持ち前の包容力で春組を包み、そしてみんなを笑顔にしてくれた。彼が幸せそうであればあるほど、先のことを考えたくなくなる。でも雄三も言っていたし、遅れて合流した紬も言っていた。「どんなことも、6人が1つになるために必要なことだ」って。それはずっと、この先もそうなのだ。

 凱旋公演から参加の紬は、月岡紬にしか言えない言葉を大切に抱えて舞台の上に上がってきた。荒牧さんという俳優はとてつもなく人気があって、びっくりするほど忙しいというイメージなので、一体全体どうして凱旋だけ出ることに?と結構謎だったんだけれど、舞台の上に居る姿を観て、たぶん……すごい出たかったんだろうなぁと、何となく思ってしまった。都合の良い解釈かもしれないけど。
 「彼らの芝居が、彼らの芝居じゃなくなっちゃうから」。イマジナリー総監督の代わりに初恵さんの元に向かった紬が必死に訴えるシーン。凱旋からガッツリ追加シーンが差し込まれていて「!?」てなったのも束の間、月岡紬にしか言えない言葉が次々飛び出す。紬は演劇に取り憑かれた男なので、その紬がどうしても春組の芝居には真澄が必要なのだと言う姿は、あまりにも説得力がある。カンパニーで人一倍、芝居に人生を振り回されてきた男が断固として貫こうとする唯一無二の春組の形、春組の芝居。きっと別の組の誰かが同じようなことになっても紬は同じ事を言うだろうけれど、この言葉は内容云々よりも、紬が発するということに重大な意味がある。
 やっと真澄を取り戻し、「家族って何だろう?家族という名の特別な関係」と歌う春組の後ろで一人、下を向いて暗い顔をする人がいる。密だ。香川まで密に明確に働きかける人はおらず、一人でじっと黙って苦しんでいた。でも凱旋公演で密の隣に来た紬は、結構早い段階で様子がおかしいことに気が付く。声を掛けようかなどうしよう、という顔でずっと伺いながら、最終的に背中からそっと両手で支えるようにして「一緒に帰ろう」と笑顔を向けて一緒に寮へ帰っていく。凱旋初日にそれを観てぼろぼろ泣いてしまった。1幕の密は自分の中の虚に怯え、千景に怯えて右往左往していた。自分が何者なのか分からず、突如現れた過去の影に揺さぶられ、途方に暮れている。そんな密を1人にせず、でも何も聞かずに笑顔で支えてくれようとした紬の優しさは、とても尊く美しかった。
 「安心して眠って良いよ」、きっとこの言葉を言うために、紬は凱旋に来たんだなと個人的には思っている台詞。卯木千景と御影密は基本的に対になる存在として描かれている。甘党と辛党、チカゲとミカゲ、神経質と大雑把、重度のショートスリーパーと軽いナルコレプシー。見た目や色味も含めて鏡合わせの2人、というのが公式の解釈なのだろうなぁと思う。そんな千景と密が対になるので、周りの状況もある程度は対になっている。だから千景に新しい家族が居るなら、密にだって勿論居る。密が冬組に見守られながら眠るシーンは、咲也と千景が劇場で眠るシーンの対だ。舞台では割愛されていたけれど密が起きたときに冬組はみんな起きていて、千景が起きた時に春組はみんな寝ている。「おやすみ、密」「目が覚めた時も君の傍にいると約束しよう」「安心して眠って良いよ」という3つの台詞は「千景さんの居場所は誰にも奪われません、此処にあります」「MANKAIカンパニーは千景さんの家族ですから」「おやすみなさい、千景さん」の対だ。千景の新しい家族の代表が咲也なら、密にとってのそれは紬以外あり得ない。もちろんずっとずっと、本公演の冬組最重要シーンと言っても過言では無い場面ではあったけれど、紬が来たことでより一層、意味が増えたなったシーンだと感じた。それまでも一応5人居る体だった冬組だけど、やっぱり紬が来たことで厚みがぐっと増したのをまざまざと感じてしまったので、丞にも居て欲しかったなと少し惜しい気持ちになる。言っても仕方が無いことだね。でも寂しかったと思ってしまうことも仕方が無い。

 支配人、雄三さん、碓氷岬、そして須賀さんやオーガストまで演じていたアンサンブルの皆さん。そのすべてに見せ場があり、あんなことがよかった、こんなところが好きだったと思い出せる。真澄父の表情は香川楽が本当に感極まっていて泣いてしまいそうで真澄への気持ちが伝わってくるのが良かったし、支配人の「待ちましょう!」は凱旋の初日が最高に力強くて好きだった。支配人は田口さんの温度感とか、劇団員より少し引いている感じが良い。あと客席の空気をよく読んで臨機応変に芝居を変えるところが「生」っぽくて最高。
 そしてみんなを支え、アドリブを止め、自らもアドリブで場を盛り上げた雄三さんは毎公演違うから本当に見応えがあった。こんなに違うんかって観る度にびっくりしたな。加減を知らない春組のわちゃわちゃをいつもどうにかしてくれてありがたかった。雄三さんがそこにいるから、ヒヤヒヤしないでずっと楽しかった。カテコ曲のダンスが上手すぎて、2番を冬組と踊る雄三に惚れ惚れしたりもした。

 「この新しい家族は絶対に守る。だから、見守っていてくれ」そう言って、指輪をはめた左手で虹を架けるオズに扮する千景が舞台上ではじめて満面の笑みを見せる時、いつも原作の「久しぶりに幸せな1日だったよ」を思い出していた。
 どんな物語も見方によればそうだけど、今回の春単の物語も例に漏れず、終わって尚、全部が全部幸せな話じゃ無い。取り戻せない時間も、もう戻れない場所も、失ったままの大切なものも、今は明かせない傷も、確かにそこにある。自分に関してもそうだけど、人間はそう簡単に変われる訳では無い。ゆっくりとしか癒えることのない傷も、今はどうしようも出来ない怒りも、一生続くかと錯覚するような絶望も、ずっとそこにあったりする。死んでも許されないこと、許せないことだって、もしかしたらあるのかもしれない。
 だけど、人はどうしたって今よりも未来の時間を生きていかなきゃならない。裏切りも喪失も絶望も罪も、持って生きていくには苦しい。忘れたい、忘れられない、忘れない。完全に過去を捨てては行けないのも事実だ。
 公演を観ながら考えた。彼が最初から「卯木千景」として生まれていたら幸せだったのかな、と。きっと商社に提出してある履歴書には平々凡々な人生が記されている。組織の諜報員になることもなく、本当の家族に捨てられることも、家族を失い裏切られ尋問に掛けられることも無い人生だったら。でも今がどんなにツラい過去の先にある未来だったとしても、彼がこれ以外の人生を選ぶと思えなかった。自らの過ちと後悔と共に生きていくのは苦しく、時に立ち止まってしまって動けないくらいの慟哭でどうしようもない日だってあるだろう。でも自分の歩いてきた道は1つしかない。だから、自分が選んだ大切なもの、大好きなもの、信じられるものを自分の腕で抱きしめることが出来るのも、きっとこの人生だけなんだ。
 わたしは自分の好きなものや大事なものを「これだ」と掴んで生きることが下手くそだし、どこか斜に構えてしまう面倒くさい人間だけれど、少しでも自分が選んだものを大切に、言葉に出来なくても、せめて姿勢としては大事にしていきたいし、大事だなと思う自分のことを認めていきたい。これから先の決意を密に語る千景の吹っ切れたような表情を観て、そんなことを思った。自分を許す事って難しい。誰かを騙せても自分自身は騙せない。とはいえ、自分がこれからどうして行きたいかを明確に見付けて言葉にするのもまたすごく難しいことだから、千景は凄い。やっぱり強い人だなと思う。
 わたしもせめて後ろは向かず、流されつつも前に進めたら良い。情熱的な感情はなくても、挑発的な言葉のトリックで。意外と悪くないなって、これからも笑って進んで行けたらいいな。

 自分が大切にしているキャラクターたちや物語が、最初から最後までずっと丁寧に大切にしてもらえること、愛して貰えること、理解しよう表現しようと努力して貰えること、それがきちんと舞台上から伝わってくること。こんなに幸せなことはない。6人の連れてきてくれた新しい春が大好きになって、わたしのはじまりも見付かった気持ちがした。大千秋楽の後ナレで「春組の佐久間咲也と」「卯木千景です」と聞こえた瞬間、涙が止まらなくなってしまったな。やっと春組に、家族になれたその声を聞くことが出来て、本当に嬉しかったから。
 いつかまた、6人並んだところが観られたら良いと思いつつ、今はまだもう少しだけ春の想い出を噛み締めます。乾杯の後に6人で行うコイントスの幸福も、カテコ曲の六人六色だった「今日はありがとう」も。自分が観た沢山の記憶は少しずつ薄れて行ってしまうけれど、その儚さも大切だったことも愛おしく抱きしめながら。きっと、そうこうしてたら騒がしい夏がいつの間にかどこかからやって来るのかもしれない。それも今は楽しみだな。楽しみだと思えて、よかった。
 改めまして、ここまでお読みいただき、本日は誠にありがとうございました。エーステ春単ACT2、関わった全ての皆様、本当に本当にお疲れさまでした!

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