ずっと運命だと思っていました ~春単2023・完~
2023年6月11日、日曜日。約1ヶ月に渡り上演されたMANKAI STAGE『A3!』ACT2! ~SPRING 2023~、大千秋楽お疲れさまでした。
5人だったエーステの新生春組に足掛け4年で6人目が加入してから早いもので1年。今年は去年のスケジュールよりも少し少なく27公演。あたたかく優しく吹いた春の嵐、少し遅れてきた桜吹雪。駆け抜けていくカンパニーの姿を立川・神戸・TDCと見つめ続け、沢山楽しむことが出来て本当に幸せな日々でした。
忘れられない台詞、忘れたくない歌声、忘れることはないであろう表情が今年も両手から溢れ落ちるくらい沢山あって、その全てを書き残すことは難しいけれど、少しでも多く残しておこう。長くなるし読みづらいかとは思いますが、よろしければしばしお付き合いください。
ストーリー全体の話
原作アプリゲーム「A3!」において、新生春組第5回公演「Knights of RoundⅣ THE STAGE」通称ナイラン公演は、特殊な公演である。そもそもゲームのキャラクターである彼らが、更にその中に登場するRPGゲームである「Knights of Round(ナイラン)」シリーズの4作目を2.5次元舞台として演じる物語。つまりこの話にはどういう要素があるかというと「2.5次元舞台とはこうあるべきだよね!」「こうあってほしいよね!」という台詞がこれでもかと出てくるイベストだ。
ステでは省略されていたその最たる台詞が、ナイランの産みの親である星井ディレクターのこの言葉↓
この台詞を本当の2.5次元舞台でやることがどれほど難しいか。というか、どれだけ演者の首を絞めるかは素人でも分かる。この台詞を舞台の上で発した後に説得力が無い瞬間を一瞬でも見せてしまえばすべてが崩壊する。具体的に言えば「いや、あなたたちからもA3!を舞台でやる意味は感じられませんけど?」という切り口でいくらでもステや演者を責めることが出来る隙を作る。だから、今回のステでやったナイラン公演はこの「2.5次元とは」の要素は可能な限り薄くし、茅ヶ崎至の過去に纏わるエピソードから紐付けられた「舞台の魅力とは何か」「誰かと気持ちを共有するとはどういうことか」「こだわることが大切」辺りの話に落とし込んで、2幕に控えるカルテット公演と少し絡めた内容になっていた。これのお陰で余計なことをあまり考えなくて済んだのが、脚本が上手いなと思った点。
しかしこのカットによってステのナイラン公演は、元々原作時点で持っていたストーリーの3分の1くらいを占める重要な話を薄められたため、序盤は(箱との相性もあって)かなり魅せたり伝えたりすることに苦戦していた印象。原作で読んだ話と少し内容がずれるから、受け手の咀嚼にも時間が掛かったので立川で見たナイラン劇中劇は「何が言いたいのか結局よく分からん(そもそも劇場の音響が最悪で単語数の多い歌詞が上手く聞き取れない)」ていうのが1番に来てしまって、全部終わった後に思い出せることが(春ケ丘に比べると)少なく、何とも言えない仕上がりだったことを覚えている。でも凱旋がはじまった瞬間に覚醒したのもナイランだった。というか、立川の後半戦からその進化は少しずつ感じ取っていた。伝えたいことや言いたいことがちゃんと、台詞や歌から伝わってくる。それなりの回数を重ねた人もそうではない人も、少なくともわたしの周りは「立川と凱旋のナイランは別の話(かと思うくらい進化した)」と口を揃えて言っていたし、わたし自身もそう感じた。1ヶ月という公演期間の中で、本当は最初からすべてが伝わることがベストだし、立川でしか見ることが出来ない人も居るのだけど、それでも「ちょっと微妙かもなー…」と一度は思ってしまった公演が「最高じゃないか!?」に化けることが出来るのは本当に素晴らしいことだなと思う。特に凱旋後半のナイランは人間の様々な感情が複雑に絡み合う様子の全てが鮮明に伝わってきて、本当に凄まじいファンタジーストーリーとそれを作り上げる男たちの心の話に変貌していた。努力を続けてくれて、本当にありがとうございました。
2.5次元とは、の話に戻るけど、1幕には至の『原作穢すの絶対禁止!』という台詞から始まる、とんでもない歌詞の曲がある。一部歌詞を抜粋すると『隠しイベントの隠れたエピソード、でもファンなら必ず知っている。知らなきゃナイランは語れない』『原作愛は無限大!稽古・稽古・合間にゲーム!寝る間を惜しんでやりこみやりこみ、解釈違いだなんて言わせて堪るか!』『全てはあの世界で生きるため、あの世界に相応しい男になるため!』etc…。この歌詞、よくリアルタイムでキャラクターを演じている俳優に歌わせたなと思います。心から。しかも春組の6人だけじゃ無く、今回から参加している定本さん演じる紬を含むサポートメンバーまで全員で歌い踊る『解釈違いだなんて絶対に言わせない!』は、エーステ制作陣の覚悟を感じた。わたしはもう随分前に(エーステではない辺境のジャンルで)とある俳優の適当な解釈の2.5次元舞台のせいで推しの原作レートまで暴落する大事故に出くわしたことがトラウマで、ぶっちゃけてしまえば俳優がそこまで原作をやり込んだり読み込んでいると盲目的に信じている方では無い。むしろアプリをインストールしていれば良い方じゃない?くらいしか信用してない薄情なオタクである。だから「ステージ上に居る人たち、寝る間を惜しんでA3!やりこんでないでしょ、たぶん」と性格の悪い見方もしてしまう。実際俳優はみんな忙しいし、エーステだけが仕事じゃないし、仕方ないとも思ってる。脚本が可能な限り原作の要素を拾い上げてくれたらそれで満足すべきだとも理解している。
『寝る間を惜しんでやり込み』なんて歌詞を歌われたら「ほんまかいな」と疑ってしまう人間がこうやって少なからず存在することが分かっている状況で、それを全員に歌い踊らせるというのは並大抵の覚悟じゃ無い。それは制作陣もそうだし、それを歌うことになった俳優達だって同じ覚悟をして、原作に真剣に向き合って居るということなのかもしれない。そうじゃなきゃ、あんな歌詞歌いたくないでしょう。何言われるか分かったもんじゃ無いんだし。だから、あの歌詞を歌い踊ってくれる程、このカンパニーは原作に向き合おうとしてくれているんだと少しは信じていたい。都合が良い思い込みと言われたらそれまでなんだけどね。
新生春組第6回公演「春ケ丘カルテット」。このイベストは個人的に原作A3!に実装された本公演イベントにおいて、屈指の名作だと考えている。春組の春組らしさが全力で詰まったイベストで、マイペースでお人好しな春組が特に互いに相談することなく各々にシトロンとタンジェリンのために出来ることをやってあげようとするあたたかいストーリー。6人の主演が回りきる第6回公演であるということもあり、物語自体の完成度が高い。
そして、ステ。今想像できる物語、演出、芝居、その粋を集めた最高の作品だった。初日に見た時に「(どの組よりも)春組が好きだなという気持ちを持って、この素晴らしい作品に出会うことが出来てよかった」って誇らしかった。他の組のファンに対して「見て、春組素晴らしいでしょう!」と言いたくなっちゃうくらい序盤から完成度が高かった。前述の通りナイランの立ち上がりがゆっくりだったので、立川で上演していた頃は正直全てが終わると春ヶ丘に涙腺をやられたせいでナイランのことは思い出せないってくらいの存在感と圧倒的な芝居が存在した。
わたしはヴァイオリンのことは綴と同じくらいしか知らないので分からないんだけど、今回連番した友人がヴァイオリンを弾ける人で、シトロンと真澄は本当に運指がちゃんとしていたと感動していて、それはすごいことだなと思う。少なくともわたしは古谷さんと高橋さんがヴァイオリンを弾けると聞いたことがないので、恐らくゼロから始まっているはずだ。『全てはあの世界で生きるため』、至が歌い上げた2.5次元の心得が脳裏を過る。当て振りが完璧に出来なきゃカルテットは語れない訳じゃないけど、説得力が違うんだよ。
物語や役柄の詳細は役者個人に言及する項で細かく追記するとして、最後に流れる「はじまりはカルテット」の大サビ付近の歌詞が今公演の総括というか、昨年春から始まったACT2の春組公演であるオズ・ナイラン・春ケ丘の総括のようになっていて感慨深い。
『昔の僕とは違うんだ』という歌詞は今回の主演・準主演の4人に共通する言葉だ。誰かと心を通わせる至も、ナイラン本公演を何とか実現しようと暗躍する千景も、仲間と夢を追うシトロンも、弟や家族のために頑張る真澄も、加入当初の4人からは想定されなかった姿に思える。
『いつかまた始めるんだ』、この歌詞が示す『いつか』はこの曲が終わってしまっても次にまた、という意味で置かれている。自由に『いつか』など想定することが出来なかった人生を歩んでいたシトロンが次に来る輝かしい春を思い、夢見て実現することが出来るのを体現したのが春ヶ丘カルテット。
『一人きりじゃ奏でられない、夢や理想を仲間と呼ぶ』このパートで歌唱に入ってくる町田を演じた至は、ナイラン公演を通してかけがえのない仲間を手に入れていたことを再認識する。1人では作れなかった舞台ナイラン、共に理想や夢を追ってくれたのは仲間だった。
『モノクロな世界に色を付けた、言葉や希望を絆と呼ぶ』このパートで入ってくるのは東條、つまり千景。千景は昨春のオズ公演を通して春組の言葉と絆の力で自分自身を、そして世界に色を取り戻し、オズは物語の最後に虹を掛けた。
第6回公演の終幕に相応しい、桜吹雪に包まれた穏やかな表情の6人を見ると毎公演胸が熱くなって、はじまりはカルテットという曲がより特別な曲になったと感じた春単2023だった。東條と町田に差し込むスポットが重なる一瞬だけ、床に写る影が六重奏になるのがとても好きで、笑い合い楽しそうに歌う6人が贈る『明日を照らすメッセージ』をちゃんと受け取りました。
ナイランと春ヶ丘、2つの物語はバラバラな話に見えるけど、最終的に言っていることは同じ物語である。茅ヶ崎至の物語、ナイラン本編、シトロンの物語、春ヶ丘本編の4部構成に共通する柱は「大好きな仲間と感情を共有する幸せ」と「やりたいことをこだわることの大切さ」だ。特に至の物語と春ヶ丘の本編は似ている。どちらも、強いこだわりを持ったややこしい性格の男が、それを理解してくれる仲間と出会いすれ違ったりしながらも夢を叶えるストーリー。そして、これはきっとそもそもA3!の春組が持つ根本の性質でもある。人を信じることが出来なかったり、夢を諦めていた春組の面々が、MANKAIカンパニーという場所で葛藤しながら、めんどくさがりながら、それでも5人の仲間と一緒に笑って「なりたいものになる」。それが春組。どこにも居場所がなかった咲也、親の邪魔にならないように1人で過ごしてきた真澄、兄として自分の願望を押し殺して来た綴、外岡の裏切りによって他人と関わる事を諦めた至、王としての将来から逃げることの出来なかったシトロン、命のやり取りがある極限の環境で生きてきた千景。加入前の6人に共通する「俺に夢なんて…」という切ない諦念を、6人は互いに支え合いながら一緒に1つずつ叶えていくんだ。きっと、これからも。
役者陣の話
ここからは役者陣に対してのお話をする。6人の役者と6人の役者と、それを支えた様々な人について。文量にかなり差が出ていますがご容赦下さい。
○立石俊樹さん as 茅ヶ崎至
1幕、つまり第5回公演ナイランの主演である至さん。茅ヶ崎至という人はある意味でとても諦めが早く、ある意味で執念深く、傷付きやすいのにふてぶてしいというTHEオタク人間である。公演を重ねる毎に進化した茅ヶ崎至によるオタク仕草(ファンにとってはいわゆる神!、グエンを誰かが演じるなんて俺は許さない他)は最早だいぶしっかりとしたキモさがあって、あんなに顔綺麗なのにオタクはオタクなんだな……と最早尊敬まである。
孤独だった暗黒の中学生時代、そしてトラウマの高校時代を経て至はすっかり人間不信だったけど、彼は本当はすごく寂しがりな人なんだろう。だからこそ、家賃浮かすためだけに入ったのに紆余曲折して巻き込まれたMANKAIカンパニーという場所で人の温かさを思い出し、それをきっかけに芝居を続けている。「舞台にはゲーム以上にお前をアツくさせる何かがあるんだろ」というのは千景の言葉で、それが一体何なのかは原作でもハッキリと「答えはこれです」とされているわけではない。それこそ受け取った各々の解釈や気持ちによって、考えは少しずつ違うだろう。そんな中で、わたしが今回のステを見て「ゲームにはなく舞台にだけある人をアツくさせる何か」について1つの答えを出すとしたら。舞台挨拶の内容も多少の改変が加えられていたので原作とはまた少しずれる部分もあるけど、舞台にはゲームには無い「温度」があったのではないかなと、想像している。
わたしは今回の物語を見ながら「至の舞台挨拶の何が星井さんを動かしたのだろう」「一緒に冒険に出ているワクワクを感じることが出来たって具体的に何」ってことを一生懸命考えていた。だって変な話だけど、割と世の中の人々ってコスプレした俳優が格好いい上に芝居をそれっぽく頑張ってくれていたら「推しが生きてる…!」ってなれる。でも星井さんはそうじゃない。コスプレしてるだけでは彼らが舞台上に生きていることにならないし、キャラクターを演じるのが上手いことと、ワクワクを感じさせることは違うと言うのだ。俳優がただ肉体を持つだけじゃ星井さんは満足してくれない。じゃあ、何を感じ取ったんだろう。ステの舞台挨拶の内容だけを鑑み(原作は一旦置いておく)、わたしの出した答えは前述の通り「温度」だった。エーステもそうなんじゃないかなって、思った瞬間があったから。どれだけ舞台上に素晴らしい解釈のものがあったとして、客席が置いてきぼりになる作品は観ている方もしんどい。演劇は絵画や小説とは違い、単一方向の芸術作品ではない。客席と双方向にアクションが生まれる刹那的な芸術だ。どれだけ立石さんが茅ヶ崎至という人間を忠実に演じてくれてもきっと、一方的では意味が無い。客席にいる「監督さん」が思わず声を掛けたくなってしまうような没入感。その世界に入り込んだような一体感、そこにいるのはキャラクターだけど確かに人間なんだと感じ取ることが出来る人肌の感覚。そういうものは確かに画面で隔てられ、質感の違う人間である原作キャラクターから感じ取る事は難しい。舞台の上で生身の人間が温度を持って演じるからこそ、その中にそれぞれの解釈や悩みが見えるからこそ、きっとわたしたちはその物語にのめり込むことが出来るんだと思う。あくまでも個人的な考えで、まだ完全な答えでは無いから今後も考え続けていきたいけれど、ひとまず今日時点での答え。
立石さんに関してはここ2~3年で自分が1番回数を重ねて見ている俳優の1人で「何様?」を恐れずに感想を書くのであれば、本当に本当に上手になったなとしみじみした。歌唱力には元々定評があったけど、やはりグランドミュージカルの板を踏めば踏むほど、歌で感情を伝える技術が飛躍的に向上する。今回のナイラン公演は歌唱力のある立石さんが至役だからこそ出来た演出や曲ばかりだった。「放課後の友達」なんて最早ソロミュージカルでしかなかったし。あれがあのクオリティで出来る2.5次元作品及び俳優はそんなに多くは居ないと思う。表情も歌声も安定して出力される至の回想シーンは毎回安心して見ることが出来たし、ナイラン本編のリードボーカルっぷりも流石の腕前だった。原作の声優陣すら悪戦苦闘していた「The Pride of The Knights」をあそこまで歌い上げてしまうのも、立石さんだからなんだよなぁ。
個人的には歌では無い芝居も好むので、103号室がバルコニーで話すシーン・舞台挨拶・外岡との会話がやっぱり日々変わっていくのを見るのが面白かった。立石さんは公演序盤はドライ→後半に行くにつれて感情が重たく乗るというイメージの役者なのだけど、今回は最後までウェットになりすぎること無く、でも茅ヶ崎至として自然に振る舞う事が出来る時間がどんどん長くなっていって、やっぱり芝居が上手になったなぁと感じてしまう事が多かったかな。至と過ごした時間が確実に彼の中に積み重なっていた。そして舞台挨拶の進化がめまぐるしく、一気に覚醒したと感じた回の作品への没入感は凄まじかった。舞台挨拶中で至が「ね?」と客席に同意を求める仕草をする時、その声色や微笑みに一気に客席の空気が持って行かれる時があって、あれは立石さんのもっている「世界中を見方に付ける力」の真髄だ。愛される力、惹き付ける力のとてつもなく強い俳優、それがきっと立石俊樹という人なのだ。その延長として春ケ丘カルテットの町田は少し抜けている愛され教師って感じがして、立石さんらしい役作りなのが素敵だったな。
至はACT1では春組の最年長としてみんなを外から見守り、ACT2の1周目では得体のしれない(でも自分が呼んでしまった)千景を警戒しながら春組の父として4人を支えていた。それが今回、千景が本格的に家族の中に入った状態でスタートしたため、すっかり先輩に甘えているのが分かって可愛かった。昨年の春にあった、千景と至の互いに探り合っている感じがなくなり、同室者として子どもたちには見せたくない姿を共有する同士として、悪友のような信頼関係が築かれているのがよく分かる。周囲より一歩遅く同居を開始した103号室もなんだかんだ上手くやってるじゃん、と思わせてくれて嬉しい。描かれていない背景を想像することが出来るのは、やっぱりありがたい。それだけ俳優陣が解釈をにじませてくれているという事だと思うので。
立石さんが至と歩んだ5年間、1つの到達点として素晴らしいランスロットを見せてくれて本当にありがとうございます。技術も解釈もまだまだ上へ行ける、そんな未来への期待も持てる最高の主演公演になりましたね。とっても楽しかった。
○古谷大和さん as シトロン
2幕、春ヶ丘カルテット公演の主演を担ったシトロン。彼は春組の母役に任命されている通り、包容力に溢れ、まさに春組らしい明るく愛らしく穏やかな人だ。王になるという生まれたときからの宿命をつい先日まで両肩に背負ったまま、それでも笑顔を絶やすこと無く生きてきた強い人。けれど、王としての適正や生き方ゆえに、彼には弱点がある。それがきっと「他人の弱さや過ちを許すことが出来る代わりに、自分の弱さや過ちを許すことが出来ない」ことなのだろう。わたしはシトロンの仕草で1つすごく気になっているシーンがあって、それはナイランの通し稽古後に星井さんが退室する際、頭を下げないこと(項垂れては居る)。他を見回してみると至はショックを受けているので動けない、真澄はそういうキャラクターなので頭を下げないとしても、シトロンは目上の人には頭を下げる印象だったから「意外だ…」と思っていて。あれは至の傷付きようを感じて、自分のアドバイスが誤っていたのではないかと自責しているのかなぁと想像したりしている。
カルテット公演で西園寺エニスが自分の弱さに目を向けない、自分は完璧だと思い込んでいるキャラクターであることから見ても(※公演に出てくるキャラクターやストーリーはそこまでの話を反映しているという法則がある)、シトロンは自分の弱さや過ちを許せない人なのかもしれない、と感じる。それはわざわざ立ち止まって「聞いて欲しいなら聞いてやる」と振り返った真澄をくしゃみではぐらかして退散するところや、「肝心な時は頼ってくれますよね?」と聞いてくれた咲也に対してしばらく喋り出せないところからも伝わってくる。誰かに何かを打ち明けることは、それを自分で認めるということだ。ずっと王になる運命を背負っていたシトロンが最も忌避していたものが「己の弱さ」と「過ち」だったのかもしれない。
世界のどこにも居ない想像上の理想の王様が一体どんなものか、シトロンは教えてくれない。でも、シトロンが「素晴らしい王様になる」と断言しているタンジェリンについて真澄は言う『こいつはそんなに子どもじゃ無いし、あんたの考えてることも分かってる。意外としっかりして強いやつだ』と。この台詞の「強い」と言う形容詞が実はすごく大切だったんじゃないかな。よくよく思い返すとタンジェリンの台詞の中には『ワタシやっぱりダメネ』『ワタシ間違えてばかりネ』『ワタシは不器用だから』と自分の弱さや出来ないところを表現する言葉が散見される。春組でそれを同じようにやるのは(特に初期の)咲也くんなのだけど、そんな風に素直で一生懸命な「己の弱さや過ち」に向き合える人を、シトロンは眩しく、そして大切に想っているのかもしれない。
シトロン役の古谷さん。去年の春単、いやもっと昔、円盤でしかエーステを観たことが無かった頃から、わたしは古谷さんの「A3!の世界観を守る意思」に全幅の信頼を置いている。大した数の芝居を見たことがあるわけではないけれど、守りたいものを守るだけの芝居力がある人だということも、感じ取っているつもり。古谷さんのおかげでいつもアドリブがとっちらかっている春組は、古谷さんがいるからこそA3!春組の輪郭を決して失わないでいられるのだろう。先頭に立ってはしゃぎ回りながらも「ここまでだよ」と言外に指し示した位置をみんなで守り、春組でいてくれる(たまにオーバーランしている。それもまた一興)。原作を見ている人間からすると、その頑固なまでの線引きは本当にありがたいなと思います。
そしてやはり西園寺エニスを演じるシトロンを演じている場面(いつもシトロンくんファーストで居て下さる古谷さんへ敬意を表しこの表現を使います)は、圧巻だった。人間関係に未熟な高校生らしい不器用なあどけなさが溢れる『カルテットはヴァイオリン1本では完成しない…』という台詞や、3人の仲間と共に行動し変わっていく年相応の無邪気さ、皇帝と呼ばれることも頷ける自信に満ちあふれた不遜な態度、ヴァイオリンを弾いているときの仕草や表情がどんどん変わっていくこと。そして最後のたった1人で沈黙を背負い弾く孤独な「春」。特に最後のシーンは、シトロンを演じているのが古谷さんだから可能な演出だなと感じた。並大抵の芝居力ではあの規模の会場で無音の中、たった1人であの長さの間を演じきることは出来ない。一生懸命理想の音をイメージして弓を引くのに、どうしてもその音にはならず演奏をやめてしまうエニスの苦しさ。自分から突き放しておきながら、それでももう戻ってこないであろう仲間の音へ心が持っていかれてしまう切なさ。そして賑やかさを失ったからこそ感じ取る、底知れぬ孤独。スポットライト1本で全身をさらけ出しすべてを見せてくれたあのシーンの会場の雰囲気や空気を、きっとわたしは忘れることはない。そして庸太が『俺はあんたとカルテットがやりたい』と力強く言ってくれた後に「春」の楽譜を開いた瞬間のあまりにも嬉しそうなエニスの表情も。
理想の王様になることは出来なかったし、もうそれを追いかけることはないシトロン。でも大好きな仲間と共にこれからも楽しく元気に、華やかに、夢を追いかける姿を見せて貰えたら良いなと願ってしまわずには居られない。物語の中に生きるキャラクターでしかないのに幸せを願ってしまうのはきっと、わたしがシトロンを「人間」だと捉えているからなんだろうな。そんな風に思えるように、シトロンに命を通わせてくださって、本当にありがとうございます。
〇染谷俊之さん as 卯木千景
春組に加入して2作目の公演、早くも準主演を任されることになった千景。前回のオズ公演では劇団を壊すことに尽力し、すべてが明かされてからは情緒がズタボロだったので、今回からようやく春組の家族として穏やかな表情を沢山見せるようになって、ああやっと春組は6人になったんだなぁと嬉しく思う。
今回の千景の見所は主にナイラン公演にあり、外岡と真正面からやり合うシーンと、103号室のバルコニーのシーンは特に印象的。これはわたしが千景に注目して見てしまう性質であることと、春単2022の記憶を未だに擦っていることもあるのかもしれないけど、どちらも去年を思わせる照明や立ち位置になっていた気がするのが、余計に頭を抱えたシーンだった。外岡とやり合うシーンは、この人は本当に「家族を守る」ことに全身全霊を傾け始めたんだなということを実感した。綴、真澄、咲也、シトロンの4人が困り果てているのを見計らって外岡に声を掛け始める。去年、碓氷岬が真澄を渡米させるために寮へ襲来した際、至が子ども達を引き下がらせて最前線に出たのと同じ構図だ。至と千景はどちらも面倒くさいことは嫌いだし、大抵のことはやってくれそうな他の大人や綴に押しつけてしまう厄介なコンビだけど、自らが大切にしているものを守るときには全てを捨て去って己の持つ最大限の攻撃力で戦闘態勢に入れる人達なのだ。それはきっと彼らが、自分の大切なものを失った経験があるからであり、大切なもののためなら何でも出来る覚悟がある人間だからだろう。千景は外岡がたるちをやり玉に挙げかけた瞬間に、スッと目を細め更に徹底的に危険因子だと判別して敵視する。『うちの劇団に声を掛けたのは最初からそれが狙いだったんでしょうか』と尋ねる際、外岡の目の前で口元だけを小さく笑みの形にして一切目が笑っていない表情になるのが毎公演怖かった。春組としては頼もしい限りではある。すごく怖いけど。
至と千景のバルコニーのシーンは千景の台詞にボリュームがあるシーンの中でも結構色々な変化があったシーンで、わたしが期間中1番「うわっ」てなった変化は凱旋初日辺りから始めたと思われる『俺はオズ公演ではじめて舞台に立って、ずっと目を背けてきた俺自身の感情にはじめて触れることが出来た。同時に一緒に舞台に立つお前たちの心とふれあうような、不思議な感覚を体験した』の台詞の『お前たちの心とふれあう』で左手中指に填めているオーガストの形見である指輪をみつめてそっと撫でるようになったこと。千景にとって演劇は全く出会う予定ではなかった代物だけど、色々な巡り合わせでオズワルドを演じることになり、もう一度みんなの心とふれあいたいと思ってしまって、また舞台に立つことにした。自嘲気味な笑い方も表情もとても穏やかで、何かを思い出していることを感じさせる雰囲気を纏っているのが本当によかった。そしてこのシーンの照明は去年の春単で至が、キャリーケース片手に脱走しかけていた千景を引き留めたシーンに似ていた。あの時、至の言葉は届かなくて最終的に引き留めに成功したのは咲也だったけど、今度は千景が至のために柄にも無い言葉を尽くしてくれる、お返しのシーンだったんじゃないかと勝手に思っている。
そんな千景を演じた染谷さんは、昨春と冬に引き続き相変わらずまるで本当にそこでそう感じているかのような、そうしたいからしているかのような、あまりにもリアルな人間の芝居をする。前述のシーンもそうだけれど、その表情や仕草の秀逸さが1番出ていたと感じているのは実は劇中劇ナイランでガウェインを演じている時で、特にグエンを奪還するためにランスロットとガレスが反乱を起こした後。ランスロットが反乱を起こした瞬間にまず一段階の困惑、ガレスが助太刀に来た瞬間に「何故だ…!」と言いたげな本当に苦しそうな表情をする。ランスロットがアーサー王を元に戻した後、一緒に戦わせて欲しいと頭を下げる場面でも、認められないと言わんばかりに表情を歪めている。ガウェインは千景よりも直情的なキャラクターなので、表情の瞬発力は際立っていた。全ての客席から見える芝居ではないのだけどエクスカリバーを授けてくれたガレスに『お前こそ真の騎士だ!』と拳を突き上げるシーンの表情が見えた公演がいくつかあって、それがすごく誇らしげでもう居ないガレスへの親愛の気持ちが伝わってきて好きだった。モードレッドやマーリンの攻撃に勢いよく吹き飛ばされてくる際、俯きながらも「今楽しくて堪らないんだ」と言いたげな笑顔を見せていたのが、染谷さんも千景も充実してそうでよかったな。
春ケ丘カルテットの東條には原作に無いけどとても印象的な台詞が揃っている。エニスに対して尋ねる『西園寺は好きな季節ってある?』から始まる一連の「四季はそれぞれ違うから素晴らしく、すべてが必要なのだ」という言葉はA3!原作の持つすごく大きなテーマでもある。エーアニの主題歌であるCircle of seasonsの中に『神様がなんで1年を4つに分けたのか少しだけ分かった気がしたよ』『1人でいるより互いに寄り添い、365日寂しくないように』という歌詞があるけど、東條の台詞にはそれが凝縮されている。それから、最後の町田へ贈る『君もまた(音楽を)やればいい』。東條と町田の関係は実は原作でもあまりよく分かっていないのだけど、控えめにだけど期待を込めるように町田にそれを告げた東條は、きっと町田がかつて奏でていた音楽が好きだったんだろうな、と思わせられる。染谷さんが原作サイドや脚本家から聞かされた、あるいは想像した東條の物語はどんな人生だったのだろう。きっと機会は無いけれど、いつか聞いてみたい。
そして染谷さんはきっと、前回の冬と今回の春との間で、恐らくだけど原作の千景について相当勉強している。何故そう思うかと言うとアドリブの瞬発力と正確性が別人のように進化していたから。冬もシトロンにべったべたに絡まれて様々なアドリブをさせられていたけど、キャラクターを守ろうと逃げ回っていた日とかもあって(それはそれでありがたい判断だったとも思う)。確かに冬の段階ではぽろっと出てくる言葉が「それは原作設定の千景だと無理あるなぁ」みたいな日もそれなりにあったりして、ハイクオリティな芝居を見せて貰っていることは確かだし台本の無いところに多くを求めてはいけないか……と考えていたのだけど、今回のアドリブシーンでの言葉選びや思考回路がかなり原作の卯木千景に寄っていて、もうなんかちょっと「面白い」とか「すごい」を飛ばしてやや引いた瞬間があった。あまりにも精度が高すぎる。そしてこれはちっとも当たり前ではないことだと心から思う。求めてもなかなか難しいところをしっかりと埋めてくれる誠実さ、こだわりの強さ、ちゃんと感じ取りました。本当に、本当に嬉しかった。卯木千景を大切にしてくれてありがとうございます。
○高橋怜也さん as 碓氷真澄
千景同様、昨春に『家族になりたい……!』でようやく春組を家族として認識しはじめた真澄。今回は弟が増えるの巻。
と、その前に1幕の時に1つ真澄の仕草で引っかかっているものがある。ずっと変わってないまま千秋楽まで辿り着いてしまって、たぶんこういうことなんだろうなと思っている。それは、至さんの放課後の友達の話を聞きながら巻き起こる事件の一部始終をみんなで見守っていたシーンの最後、『はじめての友達は、放課後の友達は、もうどこにも居ない』の歌詞と共に上手袖へと捌けていく傷心の外岡を真澄だけがわざわざ最後まで見詰めている。勝手な解釈だけど、真澄は(原作だと)アリス公演で至と組んだ時に外岡のことを匂わされているので、それを思い出していることの匂わせなのかなぁと思っている。春単2019には至の『アイツに笑われる』という台詞はあったのかな。ここの詳細は調べられていないし、きっとこれを読んでいる人のが詳しい。
シトロンに闘志を燃やした結果、準主演になった第6回公演「春ケ丘カルテット」。その決定とほぼ同時にタンジェリンが登場。わがまま自由な一人っ子の真澄が監督のお願いを聞いてタンジェリンのお世話をしている姿はとても可愛くて、時にヒヤヒヤもので、そりゃ制作陣も可愛い2人に1曲作るよねと納得のシーン。碓氷真澄という人はとても愛情深い人だ。でも基本的に愛されるより愛したいタイプなので、タンジェリンに対する不慣れで渋々な「兄」としての振る舞いは人間関係の経験が未熟な高校生男子の不器用さが溢れ出ている。すごく嫌そうだけど、それでも放り出さないのは監督からのお願いだからというだけでは無いんじゃないかなぁと微笑ましくなってしまうのは、わたしたちが真澄の愛情深さを知っているからかもしれない。
『ツラい時に誰かに寄りかかることは別に悪いことじゃない。それが家族の役割なんだって、この劇団に入って知った』そう言う真澄がタンジェリンの頭を撫でながら、壇上にいる咲也くんを見詰めているのが印象的だった。やっぱり春組=家族の根本のところに居るのは佐久間咲也リーダーなんだ。兄様は頭を撫でて慰めてくれたのだと言ったタンジェリンに躊躇うことなく伸ばされた手は、真澄の「愛し上手」を強く感じる。大切な人が欲しいと言ったものを惜しみなく与える。それが碓氷真澄の根源的な性格なのだと思う。彼が幼い頃に貰えなかった両親の愛情の裏返しなのかもしれない。
愛しても愛しても返ってこなかった両親の愛に飢えていた真澄は、父である岬と和解したことと、春組から注がれる愛情を不慣れな手付きで受け止めはじめたことで、人として成長している。もちろん監督への愛はずっとパワーアップを重ねているけど、原作でシトロンが真澄に言ったことがあるように、真澄はそもそも誰かをとても愛することが出来る性質なのだ。クールだけれど本当はみんなに愛を向けることが出来る優しい人。自分からは言い出せないタンジェリンの代わりに言葉を紡ぎ、シトロンを叱ることが出来る。それは優しい春組の中では若く真っ直ぐで、傷付くことをあまり恐れない真澄だからこその行動だ。
真澄を演じた高橋さんは、歌唱力がずば抜けていることに注目が行きがちだし、本当に素晴らしい歌声を持っている。でも個人的には視線や表情、細かい仕草の芝居がすごく生っぽくて良いなぁと思う。特に真澄はあまり台詞数の多いキャラクターではないので場が進行しているときに黙って成り行きを見守っている(興味なさそうな顔をしている)ことが多い。でもちゃんと視線で感情を示し、微かにだけど口元を緩めたり、悔し気に引き結んだりすることもあって、きちんと心を動かしていることが分かるのが堪らない。染谷さんの表情同様、やっぱりそういう細かい芝居はクールな真澄を演じている時よりも、ガレスや庸太を演じている時の方が分かりやすく、より直接的にストーリーに影響するので、劇中劇の高橋くんもいつも生き生きしていて素晴らしかった。ガレスの一喜一憂、死に際に兄上に見せる微笑み、そして『真の騎士だ!』と告げられたときのあまりにも幸福そうな表情。わたしはナイランの最後のThe Pride Of The Knightsの終盤で『さあこの身を捧げよう一緒に』の歌詞と共にガレスが袖から出てきて『一緒に』と真っ直ぐガウェインに手を伸ばしながら歌うのを見る度に胸が熱くなった。そして春ケ丘公演の庸太がエニス先輩に掛ける情熱的であたたかい言葉のすべて、そして『俺は春が良い』と克己先輩・悠に伝える時の悲しみを堪える決意の表情。どれもこれも、彼の表情1つでぐっと人を惹き付けるパワーを感じた。
芝居も歌もダンスも殺陣も器用になんでもこなす、まさに真澄役にぴったりの役者さん。その上、今回の春単では去年を上回る客降り伝説の数々も残した高橋さん。ステージ上からもこれ以上無いくらいに「カントクが好きすぎてツラい」真澄節を炸裂させ、この人この仕事天職なんじゃ?と思わされるほどのあまりの狂いっぷりに何度も拍手を贈った。沢山楽しませてくれて、沢山愛をくれて、本当にありがとうございました。
○前川優希さん as 皆木綴
自由気ままマイペース揃いの春組で唯一無二の苦労人・皆木綴。5人だった頃を思い浮かべると、丁度年齢が真ん中で上にも下にも苦労していた綴は、6人になったことで明確に年下組に分類され、今回の公演では随分千景の偉大さを感じたのでは無いかと、何となく思った。少し幼さが前に出る感じになって、綴ってまだ学生だったなぁということを思い出せるのがすごく良い。お兄ちゃんぶって頑張っていても、完全な大人ではないんだなという状況が視覚化され、可愛らしい印象が強くなった。
とはいえ綴の兄属性は彼の生き様でもあり、染みついた特性でもあり、今回も遺憾なく発揮されている。至の過去の一部始終を見ながら外岡に手が出そうな程キレていた千景を宥めていたのは綴だし、綴は誰かが傷付けられることに敏感で、そしてそれなりに頭の回転が速いので、たるちの件について外岡に提案された瞬間やんわりとだけど真っ先に拒否を示したのは綴だった。綴にとって至は面倒ごとばかり頼んで甘えてくるダメな大人代表だけど、大切な家族であることには変わらない。至と綴の絶妙な信頼関係が浮き出るシーン。とは言えソファーで至さんに寄りかかられたらバシバシ叩くし、髪をくしゃっとされたら拗ねて台本渡してあげないけど、それも綴の思う遠慮のない家族なんだろうと思う。綴というキャラクターは上下関係を重んじているのか春組以外に所属する年上の劇団員の呼称を全て「名字+さん」で固定している。高校時代の先輩である一成すら「三好さん」。大学の先輩である臣くんも「伏見さん」。そんな中で「至さん」「千景さん」「シトロンさん」と呼んでいるのはやっぱり特別な距離感なんだろうなって、思ったりもする。家族を名字で呼ぶのちょっと変ですからね。疑似家族だとしても。
タンジェリンを部屋に呼ぼうのシーンで『シトロンさんの弟ってことは俺たちの弟みたいなもんなんだから』と真澄を諭していたのは、昨春を越えたからこそ説得力のある「血の繋がりではない家族の繋がり」を実感している綴の台詞。そして真澄はじめての弟の面倒を見るイベントを最もハラハラ見守っている人間も綴である。それはもう、心配でソファーから立ち上がっては千景に無理やり座らされてる程度にはハラハラしている。綴にとってまず真澄が弟みたいなもので、真澄の人間関係1年生らしい不器用さと最も衝突して苦労してきたのも綴で、その成長を脚本として書き綴って来たのも綴。『これは意外!レアな光景!わがまま自由な一人っ子、そんなあいつが世話してる文句を言いながら』と歌い踊る綴の楽しそうで嬉しそうでちょっとニヤッとした雰囲気の顔、すごくよかったな。同じシーンから抜粋するとタンジェリンにお手伝いを教えてほしいと言われて等価交換を持ち出した真澄にバケツを渡す時の、心配とも信頼とも言いきれない表情がすごく生々しい兄だった。ぴったりな日本語を探すなら「大丈夫なんだろうな?ちゃんとやれよ?」かもしれない。窺うような神妙な表情は心配性の兄そのもので、毎公演102号室で共に暮らす2人の今の関係に思いを馳せたシーン。
綴役の前川さんはたぶん、高橋さんとは対照的に「受ける芝居」や「視線の芝居」が熟成されるまでにしばらく時間が掛かるタイプ。人の話していることを聞いて、心を揺らしていることが表に出てくるのは開幕からしばらく経ってから。これまでの春冬春の平均値を見ても最後の休演日の後に一気に覚醒するくらいのスローペースな印象。でも覚醒した後の綴が揃った春組の空気って本当に何にも替えがたい特別な身内感みたいなものがある。その場で本当に春組が生きているような不思議な感じがする。
劇中劇ではナイランのラスボスであるマーリンとエニスを迎え入れるカルテットのまとめ役日野という完全に真逆なキャラクターを演じていたけれど、前川さんの持つ空気感や佇まいは今の2.5次元舞台の中ではそれなりに特殊なんじゃないかと感じていた。それは彼の愛嬌のある顔立ちだったり、驚くほどにスレンダーな体躯だったり、他とは少し違う個性的な雰囲気から醸し出される部分もあって、格好いい役・善人・三の線から悪役まで幅広く違和感なく演じられるのは彼の持つ強い個性だ。例えば春組を横に並べた時にパッと見で華やかなイケメンというタイプではないけれど、だからこそマーリンが演じられるし、だからこそ優しさとドライさのある日野も演じられる。その雰囲気の独特さと、どんな色でも染まれるフラットな印象と、悪役をやってもどこか憎めない可愛らしさとが合わさって、劇中劇の前川さんはどんな役でも大抵しっかりと爪痕が残っているのですごい。
マーリンの熱演と早替えはずっと凄まじかったけれど、個人的にはガウェインの攻撃力を増幅してガレスが死んでしまったシーンでこちらに見えないように手で顔を隠しながら笑っているのと、最後の曲の時に『拳を天に掲げ』で全員が片手を空に伸ばすのに、マーリンだけが手を胸に引くような振りなのが、如何にもラスボスって感じで細かく仕草が付いていてわくわくした。物語は主役だけじゃ進まないよね、と思う。幕が閉まる時にニヤニヤ笑っているのも、この物語がはじまりの物語で先は長いって感じが伝わって来た。
日野の面倒見が良いチャラ男感もとても好きだったな。庸太や悠と違ってエニスと正面衝突することをしない日野だけど、彼が3年生でまとめ役としてヘラっと存在しているから1年生コンビは割と自由に出来るわけで、あの引き算の芝居みたいなものがわたしはすごく好みだった。積極的に物語の真ん中で動くわけではないのに、空気感を支えている助演みたいな感じが。
そして前川さんと言えば春組のツッコミ役としての重要な役回りをいつも担ってくれる。6人になったところでそんなに役回り変わらなかったね、という気持ちにもなるけど少しは負担軽減したのでしょうか。前川さんが居ることに安心して、他のメンバーたちが思い思いに発言し、目一杯遊ぶことが出来る。それはたぶん、今のエーステの春組が春組らしくいられる理由の1つでもあり、彼が居なくなったらこうは行かないんだろうなと思ってしまう稀有な要素だ。今回も春組らしさを守ってくださって、本当にありがとうございます。
○横田龍儀さん as 佐久間咲也
佐久間咲也という人は、彼が春組のリーダーであるからこそ、春組はこれまで何とかかんとかやってこれたな……と思わせる説得力がある。今回のステでは6人が全員で並んで踊る振付が多かったけれど「この中で4人は【もうここにはいなかったかもしれない劇団員】だな」と突然ハッとした瞬間があって、すべては咲也くんの必死な説得と真っすぐな心(そして綴のサポート)の賜物なので、春組はそんな刹那的な面も含めて愛おしいのかもしれない。
咲也は今回、主演でも準主演でもない。それでも彼がリーダーとして立っているからこそ今回の至やシトロンは主演として舞台を背負うことが出来た面がある。春組で1番小柄で無垢で、それでいて芯が強い頼もしいリーダー。1幕では『作品を1番好きな至さんが主演を務めるのは当然だと思います』、2幕では『シトロンさんが主演を経験するのは俺たちに必要なこと』と、誰よりも先に2人の主演を肯定し祝福し、明るく応援するのが咲也だ。
そして、OPの台詞やシトロンに主演を決める際の台詞から、実は咲也くんの夢に対する物語はここからが本当のスタートだったのかも、と思ったりした。これまでは仲間を集める物語、ここからは仲間と共に夢を叶える物語。わたしたちはACT1.2.3という括りで分けて考えることが多いけど、全体で言えば冬組第4回公演までと春組第5回公演からは明確に違う目標のあるストーリーなのかもしれない。
咲也を演じる横田さんのお芝居について、去年のわたしは「割とムラのある俳優」という評価を下していた。評価を見直したい。ムラじゃなくてあれは、感情の揺らぎなんだって。わたしがそれなりの回数を重ねて横田さんの演じる咲也くんを見慣れたことはたぶん大きいのだけど、今年の咲也くんは「今日はちょっとアツすぎたね」みたいなことが全然無かった。いつでもどんな時も佐久間咲也らしい姿を見せてくれる。主演・準主演の大きな役回りが無い中で、仲間を温かく支え、与えられた役を全うするひた向きな姿はまさに佐久間咲也だなと感嘆する。
劇中劇で与えられた2つの役がどちらも本当に秀逸だった。特にモードレッドはナイラン劇中劇自体が立川の悪環境下で苦戦する中、1人だけ初日から完全に仕上がっていた。横田さんと言う人はなんて正統派なカッコいい殺陣をするんだろう。武器との相性もあるだろうけど(斧や本を持たされていたらたぶん様子は違った)、原作ではそこまで比重を与えられていないモードレッドがほぼ設定を変えることなくあそこまで躍進し、少なくともわたしの周りは口を揃えて「モードレッドが超良かった」と言われる程に爪痕が残ったのは、横田さんの殺陣技術と魅せ方の上手さがかなり大きな要因だったと思う。
モードレッドと打って変わって春ケ丘カルテットの米田悠は気が弱くて優しい、普段の咲也を更にほわほわさせたような可愛らしい役。でも、エニス先輩と幼馴染みの庸太を繋ぐ大切な役。庸太が『悠の音には温度がある。春の日差しみたいな温度が』と言うけど、その役が務められるのはやっぱり春組だと咲也くんしか居ないなぁと思う。庸太と悠の幼馴染みコンビが舞台上でしっかり幼馴染みしているのを見ながら、芝居って不思議だなぁという気持ちになる。「全部真っ赤な嘘」なのに「本当の感情」と「本当の関係」がある。咲也と真澄は幼馴染じゃないし、横田さんと高橋さんは幼馴染じゃない。でも、悠と庸太は幼馴染だ。
例えば、外岡と至が再会した談話室。千景と外岡がやり合って、至が放課後の友達の話を打ち明けてくれた稽古場。冬組が心配してくれた舞台袖。シトロンの本当の気持ちを聞いた中庭。今回「話を聞く」という場面が圧倒的に多かった咲也くんは、いつでも誰かの心に寄り添い、一緒に喜んだり悲しんだり心配したりして、表情をくるくると変えた。台詞のないシーンでもずっと、佐久間咲也は春組に寄り添い、その手を引き、その背を押した。それを怠った公演は少なくともわたしが観た中では1公演、1シーン、一瞬たりとも存在しなかったと思う。そのずっと咲也で居てくれる献身的な佇まいに、目一杯の感謝を。今年の春もあたたかく優しく、愛おしかった。それはきっと、あなたが真ん中にいるからです。
○定本楓馬さん as 月岡紬
可愛い顔した演劇ジャンキー、冬組リーダーの月岡紬。まさにぴったりの人間が2代目として来たなぁ、と回を重ねる毎にひしひしと感じた。キャストの変更が行われると、どうしても観客は違いに目が行ってしまうものだけど、定本さんは何と言うか良い意味で前任者の気配をあまり感じない。それは、彼が「月岡紬」という1人の人間に真正面から向き合ってくれた証だ。というのも、キャラクターを自分なりに研究して解釈して改めて舞台上に上げるより、前任者が作り上げた芝居をなぞってコピーする方がたぶん、役者にとっては簡単なんだよね。他所ではたまに「いやこれ、前任者のコピーでは?」というキャス変を見掛けるし。
前任者、荒牧さんの演じる月岡紬はどちらかというと「2次元」的な魅力がより強くあったなぁとわたしは感じている。キャラクターらしさ、ある意味でのリアルではないわざとらしさみたいなものも全て含んだ、わたしたちのよく知っている月岡紬が画面から飛び出してきたような雰囲気を纏っていた。その芝居が出来る俳優をあまり観たことがないので、彼はとても優秀であり、1つの理想的な2.5次元のあり方であり、だからこそ2.5次元作品に引っ切り無しに呼ばれるのだろう。でも、今回から紬を演じる定本さんからは荒牧さんより強く「3次元」を感じる。生命としての人肌の感覚。画面から飛び出してきたわけではない、そこにずっと生きている月岡紬という男の肉体と背景。それがすごく初々しくも生々しくて新鮮だったな。春組は割と生々しい芝居をする俳優が多いので、たぶん相性も良かった。この紬が旗を振ってあの痛快な俳優だらけの冬組と突き進む冬組単独公演が、今から待ち遠しくなった。
『俺たちは家族なんだから』と、紬は言った。この台詞は前回の冬単2023で『俺たちは家族で、ここは大切な居場所だ』と言った紬と同一の存在としての証明。綺麗に繋がったバトンを、また新しい表情を見せるエーステの月岡紬を、これからも楽しみにしたい。
○北園涼さん as 高遠丞
北園さんの演じる高遠丞ってこんなに面白かったんだ、が、春単初日に抱いた感想。アクの強い冬組の中で常識人枠、時に無自覚のいじられ役として可愛がられている、実は冬組最年少の丞。無骨で遊びのない性格は、それが貫かれているからこそ時に愉快で、サポートメンバーが少なく心もとない今回の春単を楽しくしてくれた1人。そして、定本さんの紬とのコンビネーションがどんどん良くなって行くのを観るのが微笑ましかった。何と言うべきか、きっと北園さんはこの紬のキャス変を自分が見届け、支える心づもりで春単に参加しているんだろうなぁ、みたいなことを何度か感じたこともあった。
わたしが丞の台詞でいつも良いなぁと思っていたのは『シトロンは何も言わないんだろ?なら、ほっとけばいいんじゃないか?』と何でもない風に言うところ。丞らしい言葉であり、そしてもっと良いのがそれに対して紬も別に否定しないところ。何かしてあげたいとみんなが各々に考える春組と違って、冬組は適任者にお任せする傾向があるし、自分から話し出さない限りは黙って傍にいることが多いので、各組のカラーが如実に出たシーンで、サポートメンバーとの絡みは色んな発見があって面白いなと思う。
そして丞と言えば、ミカを客席に案内するシーン。日替わりかと思っていたけど初日から千秋楽まで一言一句変わらなかった。そして全部の回で笑いを取っていた凄まじい腕力のあるシーン。客席だって回数を重ねただけ何度も見ている人が増えるので慣れていくにも関わらず、丞とミカのやり取りはずっと可愛くてずっと新鮮に面白かった。あれは丞にしか出来ない。最高だったね。
明るく穏やかな春単にぴったりの、安心感ある日替わりを毎公演提供してくれた冬組の2人。ヒヤッとすることがとても少ない、誰のことも犠牲にしない優しい日替わりがすごく楽しかった。前半は流石に緊張気味だったけど、後半は元気いっぱいにはしゃいでくれた定本さんの紬と、堅実にがっちり支えた北園さんの丞。本当に春単に出演してくださってありがとうございました。いつか来る君たちにとっての輝かしい春、すなわち冬組単独公演でまた会えるのを楽しみにしています。
○武東賢杜さん as 外岡巧
友情というものは諸刃の剣だ。信じることは思い込むことに似ているし、他人の気持ちを推し量ることも、その答え合わせをすることも難しい。どこにも攻略方法が無いからバッドエンドに行くこともあるし、「リセットしてもう1回」が出来ないのがこの世界の道理である。
高校時代の外岡巧という少年はきっと、茅ヶ崎至という唯一無二の親友と過ごす2人だけの桃源郷が好きだったんだと思う。至にとって外岡は「はじめての友達」で「親友」だった。けれど、至はたぶん、外岡巧という人間に強くこだわっていたわけじゃなくて、はじめて理解してくれたのが外岡で、はじめて自分を認めてくれた家族では無い人間が外岡だっただけだ。外岡をきっかけに世界が広がったことを至は嬉しそうに春組に話していたし、人間不信なキャラクターの割に他人に対して傍若無人だし、元来甘えたがりな寂しがりで、人が好きなタイプなのだろう。逆に「リア充キャラ」を作っていた外岡は、友達と呼べる存在が数多にいる状況の中で至に他では替えの効かない唯一性を見出す。薄っぺらな友人関係に冷め気味だった日々の中で、至と過ごす時間だけが本当の自分で居られたのかもしれない。だから、あの日至に他の同級生を交えた状態でナイランについて話しかけられたことは、もちろん外岡にとってせっかく築き上げたウェイなキャラクターが崩れてしまう危機だったけど、それと同じくらい至と2人きりの閉鎖的な関係が崩れることを恐れたのかもしれない。至は『オタバレするリスクも考えずに話しかけたのは軽率だった』と反省しているけど、たぶん本質的にはそこじゃなくて、「2人」じゃなくなることが怖かったんじゃないか。だから外岡は傷付けた至に『俺の趣味、クラスの奴らにバラせば』と持ちかける。そうすればイーブンになり、ついでにクラスの人間から白い目で見られることは必至なので、「2人」に戻れると思ってしまったのかもしれない。ただの妄想だけど。外岡は至が嫌いだったことはきっと一瞬もない。特別で、だからこそ握りしめて壊してしまったのだ。
高校生くらいの頃、人間の視野はそんなに広くは無い。今思い返すと経験値が低いので考えもすごく浅い。大人になった今だって大した価値観では生きられないんだから、学生時代なんてもっとである。大好きな親友を奪われたくないって思ってしまう日だってあるだろう。わたしはそれなりにちゃんと成人だけど、今でもあるよ。友情の中にだって嫉妬はある。だからあの日の外岡は別に至を陥れようとしたわけじゃ無くて、ただ少し意地悪な気持ちになっただけなんだと感じる。それが思わぬ形で相手を深く傷付けることになって至の人生をねじ曲げたけど、決して最初からそれを望んでいた訳じゃ無かった。そうじゃなかったらあんな嬉しそうな顔で再会しに来ない。至は会いたくなかっただろうけど。
外岡について動き(フルボイス化、舞台化ほか)がある度に「外岡を許せる派/許せない派」という話題がSNSに出てくるけど、劇中劇ナイランの最後が『俺はまだお前を許したわけじゃない、だがお前が友であることは変わらない』という言葉に帰結しているのを見ると、至もたぶんそういう気持ちなんだろうと思う。事件の前のように戻ることは出来ないかもしれないけど、でも新しいストーリーがまた此処からきっとはじまるんだ。大人は面倒くさいから高校生の時のようには進まないだろうけど、大人の距離感で進んでいく。
そんな原作から賛否両論の外岡を引き受けて下さって熱演して下さった武東さんは、すごくエンターテイナーな役者だなと感じた。至が食いつきそうな話題を出す一瞬だけ至に視線を向けたり、『チケットの売れ行きはどうですか?』という台詞に怪しさを乗せたり、真っ向から対峙してくる千景に対して不敵に笑みを返して見せたり、食えない男を演じるのが本当に上手。だからこそ、放課後の友達のシーンで至と遊んでいるときの無邪気で楽しそうな笑顔や、至の秘密をバラしている時の罪悪感に満ちた表情、そして最後に至と話している時の切なさと喜び。そういう素顔が余計に無防備に見えた。外岡巧という人間の不器用で、それでもふてぶてしく生きていく姿をまざまざとステで見ることが出来てよかった。わたしは性格悪くしか生きられない男が嫌いになれない性質なので、外岡が肉体を持って鮮やかにそこに居たことがとても嬉しかったんだ。
○新谷聖司さん as タンジェリン
冬から引き続きMANKAIカンパニーに愛と勇気と可愛らしさを添えたタンジェリン。声が出せなかった東京公演を乗り越えて、最後の最後まで一生懸命駆け抜けてくれた愛らしい小さな王子様に感謝を贈りたい。そして、もう1人のタンジェリンである白石康介さんにも、本当に感謝しています。大切な言葉やお芝居を、繋ぎ続けることが出来て本当によかった。
ステでは存在しなかった表現だけれどタンジェリンはずっとザフラ王国にとって「居ても居なくてもどっちでもいい王子」だったらしい。だから、王族であり王位継承権もあるけれど大して(王位継承者として)大事にはされていなかったようだ。その背景を踏まえて歌われているのが『嫌なことがあると頭を撫でて慰めてくれた』『兄様だけがワタシのこと認めてくれた』という歌詞。タンジェリンにとって、いつか王になる存在であるにも関わらず分け隔て無く優しくしてくれるシトロニア兄様は特別な存在だった。そんな中、突然降りてきてしまった王位継承権第一位の座。これはただの想像だけど、もしシトロンが王位を継承していたら、タンジェリンはその手伝いがしたかったんじゃないかとふと思った。あまり彼からは「自分以外の誰かになりたい」という気持ちを感じない。お国柄や階級制度が染みついている状況もあるだろうけど、自分の人生のことをすでに悟っている人間のように思える。だから真澄が言うように、突然皇太子になったにも関わらず、王になることから逃げない強さがある。
『ワタシには昔からなりたいものが1つだけありました』この言葉を歌う時のタンジェリンはそれまでぐしゃぐしゃに泣いていたこと何て忘れるくらいとても強い瞳をして、そして誇らしい顔をしている。それを奪ってしまった自責の念に駆られはじめるシトロンなんてまるで目に入っていないかのように。きっとタンジェリンにとって、シトロンがどんな姿であろうと、どんな決断をしようと『大好きな兄様』に替わりは無い。恨む事なんて考えたこともないのだろう。シトロンが深く深く後悔していたタンジェリンへ王位継承権が渡った件について、当のタンジェリンはもう決めていたのだ。「兄様のようになる」と。
愛らしいタンジェリンを演じた新谷さん。何というか、座組も裏方もみんなタンジェリンにメロメロなことがよく分かる演出や歌が散りばめられていて、その魅力でもってきっとこれからもっと高くまで羽ばたいていけるのだろうと思った。声が出ない時からずっと、シトロンとのデュエットソングできちんと気持ちを作って毎公演ぼろぼろ泣いて、ラブリーブラザーで舞台を駆け回り、最後はきゃっきゃと笑って、無邪気さを溢れさせながら板の上に居るときはずっとタンジェリンでいる。新谷さんにスポットが当たると、すっと視線が行ってしまうような不思議な求心力を持っている。そしてあんなにも子どもらしいのに、大切な場で凜とした表情も出来る。これからどんな役者になっていくんだろうって、とっても楽しみな役者さん。
影ナレでタンジェリンは言っていた。だからこちらからも「いつかまた!」。
○小椋涼介さん as ミカ
冬よりもだいぶ大切な場面に出番があったミカ。そしてミカ自身の魅力も目一杯に振りまいた春単だったように思う。表情をあまり変えないキャラクターながら、愛嬌たっぷりの従者。ガイさんの元部下なことがよく伝わってくる。ザフラの人々はみんな素直で愛らしい。
ミカと言えば個人的には千景に『ザフラで何があったの?』と聞かれるシーンが印象的だ。ミカはタンジェリンの従者で、確かにしっかり者だけど、MANKAIカンパニーの面々と比べて見ると結構幼く見える。千景と対峙している時など、どう見てもただの子どもだ。『シトロンが愛情深い人間だと言うことは分かる』『シトロンは他人の弱さも過ちも許せる人間だろ』と語る千景の一言一言にコクコク頷いている姿は幼気で、ミカも困って色々考えているんだなぁという気持ちになった。王族直属の従者なのでそんなに位が低いようにも、国での発言権が無いようにも思えないけれど、ミカはミカで立場があったりして悩んだり葛藤したりするんだろう。小椋さんの表情からは、そんなミカの人生も少し、感じ取る事が出来たのが嬉しかった。
小椋さんは春単の期間中に俳優1周年を迎えたらしい。はじめて舞台に立った日から1年だそうだ。1年でTDCに立っている巡り合わせの力が強いなと思いつつ、彼もまた別の作品で見ることが出来たらいい。もっと出番の多い役で、もっといろんな感情を揺さぶられる役だったら、果たしてどんな風になるんだろう。沢山の板をこれからも踏めますように。ミカを演じたことがその背中を押してくれますように。勝手にだけど、そんなことを祈る。
○田口涼さん as 松川伊助
お馴染みの支配人。毎クールこれだけの数の公演をこなしている座組でお馴染みになっているのって本当に凄まじい話だと思う。田口さんが松川伊助役をライフワークのようにしてくれているのは、それだけで結構すごい事だ。
毎公演がアドリブ80%みたいな支配人をいつもちゃんとしたクオリティで出してこれるのはやっぱり田口さんだからだよなぁと、今回ほぼ全員と絡みがある支配人の安定感を見ながら「流石だな…」と感動してしまった。それに支配人は、ふとした時に劇団員とはまた違う表情をするのが良い。外岡から資料を貰ったときに咲也と綴は至を気にしているのに資料を捲っていたりとか、放課後の友達の時は居なかったのがそっと戻って来て気遣わしげな顔をしたと思ったら『2.5次元舞台ってこんなに大変なんですか…!』に繋がったりする。アプリの中で物語を進めている時には気にならない単調さを、演劇のテンポにするために絶対に必要な存在。それが支配人。
個人的には去年の春単の『待ちましょう!』みたいな支配人の真剣な芝居もまた見たくて、でもストーリーに無いものは仕方がない。今回は雄三さんも居なかったし人が圧倒的に少ない分、全てを回してくれて、ところどころに愉快な日替わりを挟み、春組を自由にさせつつ冬組の手綱を(後半千切られかけてたけど)握ってくれた、そのバランス感覚とセンスと視野の広さに拍手を贈ります。松川伊助は田口さんにしか務まらないかもしれない。改めてそんな風に感じた1ヶ月だった。
まとめのような余談のような
エーステは基本的にいつも春組が第一弾としてスタートなので、OPもカテコ衣装も凱旋演出も、春組のオタクだけは何が起こるかうっすらとした予測しか立たないまま初日に向かう。それが毎年「怖……!」と思いながらも、春組だけの特権なんだなと思ったりしたのが今年の話。何が起こるか分からないことをハラハラと観に行くのも、実は舞台の良さなのかもしれない。春組が一五一会をやったということは、夏秋冬はきっとこうだろうな、カテコ衣装はこれなんだなって予測が立ってしまうもんね。
カテコ衣装が初日の幕間でツイッターに先出しされていた(ゲネ写真が解禁になっていた…)ことや、それでもカテコの幕が開いた瞬間に見えたピンクのスーツに立川が悲鳴で震えたことや、突然「春夏秋冬☆Blooming!」に転調してTDCがざわめいたことなど、思い出として刻んでおこう。事前物販の瞬殺具合も、東京公演初日に物販列から入場列に切り替えられて立川に幽閉されたこと(※語弊あり)も、神戸が3公演しか無かったことも、あれもこれも、怒ったことも笑ったことも全部、共に春を過ごした思い出になっていく。喉元過ぎれば熱さを忘れるとはこのことです。
わたしは今回のOP曲の歌詞がとっても好きで、どの言葉も大好きだけど『大切なのはとりあえずでも一歩進むための勇気』が6人が順番に肩をたたき合う振り付けだったことも含めて、好きだった。わたしはいつも春組に勇気を貰っているからそう思うのだろう。自分の嫌なところ、思い出したくないこと、目を逸らして来たこと、そういうものに向き合うきっかけになるのは何故かいつも春組の公演の時で、そういう毎年の思い出も少しずつ重なってきたなぁって思う日々だった。
重なってきたと言えば、OPと一五一会の追加歌詞で花びらに纏わる歌詞があったことは、じんわりと「春組の俳優は7人」を感じた。OPでは『手のひらに落ちた1枚が次の季節へ運んでくれる』。一五一会の追加歌詞は『永遠なんて無いけど僕らの手のひらに落ちた花びらが、“おかえり"と来年もずっと先の未来でも微笑んでくれる』。ここに出てくる花びらって多分、春トルの時にリリースしたアルバムに収録されていた「桜の下で」の歌詞にある『そっと手のひらに舞い落ちてきた出会いの色した花びらをみんなで眺めて笑い合った』時の花びらと同じ意味だとわたしは勝手に思っていて。きっと春組の歌う「花びら」は「出会い」という意味なのだろう。それは牧島さんが真澄を演じていた5人だった頃から、ずっと変わらず。そしてこれからも繋がっていくのだと思う。出会ったことが無かったことになることはないから。
つらつらと書いたけれど、今回の春単でわたしが1番好きなシーンはタンジェリンが『ワタシは兄様のような人間に、王になります。その時がきっとワタシの人生の、春です』と言った瞬間の、春組の全員が舞台上に揃ってタンジェリンを見守っているシーン。この場面の景色は原作春組曲の「春ですね。」の歌詞と似ている。
『春はずっと見守ってた』って、とても心の震える歌詞だなと思う。だからその歌詞通りの画が舞台の上にある瞬間、そして、タンジェリンに優しく心を寄り添わせる春組6人の何にも代えがたいあたたかな空気で劇場がいっぱいになるこの瞬間が、そして最後の春ケ丘カルテットへ繋がっていくこのシーンが、わたしはこの春単の中で1番好きでした。もちろんあそこが良いそこが気に入ってるって散々言えるけど、でもやっぱり1番はここ。この6人が春組で、そしてこの6人が春組を演じてくれて本当に幸せだなと一際強く感じた象徴的なシーンだった。春という季節は少し切ないけれど優しくあたたかく、そして輝かしい。やっぱりわたしは、春が大好きだよ。
特別で大切で、こんなに愛しく思える春。悲しいことにこの春は永遠ではない。でも、永遠なんてないけど「出会った」事実が消えることは決してないのだと教えてくれるのもまた春組なのだ。1ヶ月間ずっと幸せな物語を見せてくださった。本当に素敵な時間をありがとうございました。とても寂しいけれど、いつか来る輝かしい次の春を祈りながら、今は次の季節にバトンを渡そう。
またいつか、春組6人の「おかえり」が聞ける日が巡ってきますように。次の春を始める日をずっと、お待ちしています。