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尊重と分析に関する一考察

こんにちは。Siriに無視される、なかだいらです。
このnoteでは長男ナオ、次男リョウが発達障害の診断を受けた流れ、その後バリ島で育て直しを行った体験の記録を、本人の許可を取ったうえでつづっていきます。
バリ島へ行ったのが2009年。まずはそれまでの日記を出していきます。#057

2007/12/30「相手を心から尊重すること」

いままでの私は、誰かが悲しんでいたり悩んでいたら、一緒になって解決方法を模索していたと思う。
それは、自分がひとよりも他人の心に共感しやすく、情が深いからだと思ってた。そして相手のことをとても大切に考えているからできることだとも思ってた。
でも、それがとんだ偽善、エゴであると気づいた。
こころのどこかで「このひとは私が手伝ってやらない限り、自分で解決なんてできないだろう」という深層心理があるのではないか。他人の人生なのに、私がそのひとをおんぶして歩いてしまうような状態だ。とても厚かま
しく、失礼な行為。
誰にも他人の人生を変えられないし、そもそもそんな権利なんてありもしないんだ。
「共依存」の本を読んで、初めて私は理解した。

私にはそんな権利がない。

そのひと本人が自分の力で悲しみから抜け出せるまで穏やかに見守り、悩みを解決する力を必ず持っているんだと信じられるように。
それが相手を心から尊重すること、親身になること、愛なんだろうと思う。

同じようにこのエゴが他の問題とも関係していると分かった。
私は自分ではどうにもできない辛い事件を自分の中で処理しきれず困っていた。紛争や虐待など痛々しいニュースを見るたび、立ち直りに時間がかかっていた。

この問題について私はただ単に「自分は無力である」ということを受け入れられずに困っていただけなんだと分かった。それらの事件について、私はいま何もできない。
心の中をドロドロに煮詰めているのは、そのことを認めたくないだけのことだった。
これは紛争や虐待に関して「自分は無力だから何もしない、何も感じない」というのとは違う。
私はそれに関して私のできることをやるだけのこと。

2007/12/31「分析は必要ないということ」

人生には不必要なことは何ひとつ起きない。
いいことも悪いことも全部学びになる。
だから失敗も悲しみもプラスに転換させよう。
どんな出来事に直面しても、良い方向に捉えて行こう。

いままでずっとそう思ってた。この出来事にはどんな意味があるんだろうって。
でも、プラスに振り分ける作業そのものも、実はいらないことなんだろうな、と分かった。
何らかの出来事に直面したら「やる」だけ。どんなことも分析したり判断したりしないで「やる」だけ。
無理な仕事を引き受けるとか、そういうことではなく。無理な仕事の場合、「断ること」を「やる」という道もあるのだから。他人に振り回されたりしないで、しっかり自分の中心を落ち着かせて、直感に従ってただただ「やる」のみ。腹をくくるぞ。これが、あるがままを受け入れる、ということなのかな?

「だから前から言ってるじゃない」って、いくら周りがアドバイスしてくれても、結局は自分で痛い目にあうことで「気づく→実感する→分かる」にたどり着く仕組みになっているんだろうな。

来年は日々直感に従い「ありがとう」「感謝☆感謝」を口癖に精一杯頑張ります!

■当時をふりかえって補足 2021.10.25
日々直感に従った結果、この翌年はバリ島行きを決心してしまいます。
物事の見方については、過去記事なので変化の経過も載せています。いまは痛々しいニュースを、まったく別の世界観で捉えています。目の前に立ち昇るものに、反射的に生きるのを辞めました。なのでもう大丈夫。自分のできることをやりながら、揺さぶられず立っていられます。分析についても、いまは白隠禅師の「ほう、そうか」の精神を目指しています。まだまだ日常の中で慌ててもがいてしまうけど、色々なことが大丈夫になってきました。全部を受け入れる姿勢が、以前より整ってきたと思います。

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