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『THE FIRST SLAM DUNK』敗北は経験であり過程

映画『THE FIRST SLAM DUNK』を観てきた。

いちおうスラムダンクのアニメ世代なので、主なキャラクターやストーリーはなんとなく知っているけれど、しっかり漫画やアニメを見たことがない、しかもバスケのルールも体育の時間に習った程度、という状態。

そんなやつが何で映画を観にいこうかと思ったかというと、「応援上映」という、映画だけれども本物の試合さながらに声出し応援をしながら鑑賞できる会が設けられていて賑わっているとニュースで知ったため。

「いやいや、結果がわかってる、しかもフィクションの試合を見て『がんばれー!』って応援するって一体どゆこと?」と思っていたけれど、鑑賞して思った。確かにこれは試合だわ。

40分のバスケの試合がほぼフル尺で再現されていて、味方陣地から相手陣地まで走ったときの距離感、ジャンプの滞空時間、パスのスピードなどが(バスケの経験が浅いので本当のところがわからないけれど)、演出上スローモーションにするところ以外はかなり実際に近いんじゃないかと感じた。

敵に囲まれる中で必死で味方の姿を探すキャラクターの目線を追ってカメラが左右に振るのも一瞬で、「こんな見えるか見えないかの時間で戦況判断してるんだ」と驚いた。

その合間に、キャラクターの過去、挫折や葛藤、その瞬間の感情や思考、ベンチの様子、メンバーを取り巻く人たちの描写などが入ってくるから、スーパーマルチアングルで1試合をまるまる堪能するという感じ。

(以下、多少ネタバレになるため、今後鑑賞する方はスクロールにご注意ください)

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「諦めたらそこで試合終了ですよ」はあまりにも有名なセリフだけれど、今回のリアルな描写の中で見るとその意味を改めてひしひしと感じる。

残り数秒というところで敵に得点されてしまったら、普通そこで心折れるというか、ゴールまでの距離を考えたら物理的に無理でしょって思うけれど、瞬発的にゴールに向かって走りだす姿は、あきらめが悪いを通り越して、思わず「ば、馬鹿なの…」と思ってしまうほど。

でもその、現実とか常識とかをぶち破っていくところにすごく感動する。多分その瞬間は、勝つとも負けるとも考えていないんじゃないかなと思う。

大人になると、というか私は、ギリギリまでがんばるずっとずっと手前に安全な線を引いている。手を伸ばして届かなかったときの心が砕け散る感じを味わいたくないから、賢い選択と称してあがくということを避ける。というより、試合に出ることそのものを最初から放棄したりもする。

印象的なシーンとして、敵の山王工業のエース沢北くんが、試合の前に神社で「高校バスケでやれることはすべてやりました。もし俺に必要な経験があるのだとしたらそれをください。」(セリフうろ覚えですごめんなさい)と願かけをするという場面があった。
そして、湘北に負けた後、そのときのことを思い出し、自分の願いが叶えられたことを知り泣き崩れる。

強豪校でスタメンをはり「やれることはすべてやった」と言いきれるだけの正しい努力家である沢北くんのことを、高校時代は帰宅部だった私(帰宅部というのは帰宅の早さを競う部です。日々一分一秒でも早く帰ることを目標としています)が引き合いに出すのは非常におこがましいけれど、敗北すること、絶望すること、心が砕けるような思いをすることも、「必要な経験であり過程である」というメッセージに思わず唸ってしまった。

沢北くんを見て宮城くんが「バスケのことだけ考えてきたんだろうな」(これもセリフうろ覚えですごめんなさい)と思わずつぶやくシーンがあるけれど、宮城くんがバスケのこと”だけ”考えて生きてはこれなかったということが映画内では描かれている。何度も打ち砕かれる経験をして、そこからそれでもバスケをしようと立ち上がってきたから、ギリギリのところで競り勝てる。敵のゾーンプレスを、超低姿勢からドリブルでかいくぐるシーンはしびれるくらいにかっこいい。

「失敗」や「敗北」なんて嫌に決まってるけれど、そこで試合終了では決してなく、それはやがて貴重な糧になる。ただし、あきらめなければ。

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