タラパティの演技の神髄はどこにある?

タラパティはアトリ監督の思う「良き父親」を演じていてそれは観客にとっても偶像となる程素晴らしいのだけれど、でも彼本人が本当に演じたいシーンは別にある。最近のタラパティの映画は「社会正義の実現」がテーマだけれど、彼が心から演じたいと思っているのはそれを訴えるシーンでは恐らくない。

タラパティが演じたいのは「愛する者との離別」なのだと思う。 何故なら彼の演技が最もその技量を発揮するのは大抵においてそのシーンだから。そしてそれは私の知る限り一つとして同じ演技ではないから。失った相手との関係性にもよるが『マジック』では狂乱、『ビギル』は悲嘆、『火花』は悲痛となる。

それは『タライヴァー』では悲愴であり、『プリ』では憤怒だった。まるでトラウマの再現のようにタラパティは死別の苦しさと悲しみを何度も何度も繰り返す。 映画によってはそういうシーンがない場合もあるが、どこかに別れのシーンがある作品の方が彼の演技の評価は高いと思う。

『マスター』では彼が遭遇するのは前日会っただけで縁もゆかりもない者の死だ。タラパティ演じるDJにその責任があるわけでもない。それなのに彼はその死を防げなかった事にショックを受け、渡されたことに気づかないままだった手紙を見て涙する。その激しい『悔恨』の念は観客を圧倒する。

『マスター』では彼が別れを告げる対象はもう一つある。それは自分に約束されていた未来。展望を見いだせず酒に逃げていた時点で大学教授としての将来は捨て気味だったにしろ自由を楽しむ未来はあったはずだ。だがDJは自分の生きる意味と引き替えにそれを手放す。そこに悔いはない。あるのは『自嘲』。

#マスター先生が来る! そのシーンで観客が呆気にとられるのは、DJの決意が如何に固いかをその瞬間初めて知るからだ。誰もそこまでするとは思っていない。それをすればDJは自分の人生を捨てる事になるから。どこかで折り合いをつけるのだろうと甘く見ている。ところがその思いは一瞬の内に打ち砕かれる。

ここからネタバレ。未見の方はご注意を。


直前までDJはバワーニが申し出た休戦協定に耳を貸しているように見える。
バワーニが提案するあれこれにうんうんと返事をしているようにさえ聞こえてくる。
たぶんDJも心を決めかねていたのだろう。バワーニは死ななければならないと思っていたにせよ、手を下すのは自分ではなくてもいいはずだと。
一度は殺すと決心したとはいえ、それは自分が刑務所に入る事を意味するのだから逡巡して当然だ。

バワーニは死ななくてはならない。何故ならこいつは社会に害悪を流すから。
そこに否やはない。でも今でなくてもいいのではないか。俺(DJ)自身が始末をつけなくても、司法に委ねてもーーこれだけ証拠が揃っているのだからーーしばらく刑務所から出てくることはできないだろう。その間にバワーニの手下どもも四散して、ドンとして君臨することはできなくなるかもしれない。何より、俺、今、ちょっとバテてるし……。

なんて思ってたかもしれないと私は思う。DJだって人の子、刑務所に入るのはいやだろう。できれば避けたいと考えていたとしても無理はない。

でもバワーニの「俺は政界に入る」という言葉に迷いは全てふっとんだ。
その後の「先生、俺と一緒にやろう」(うろ覚え。ディスク欲しいよぉ)で怒りは頂点に達し、こいつを生かしておくことはできないという決断を脳がするより早く身体が動いてバワーニを持ち上げ、フックで心臓を貫いた。

怒りのあまり我を忘れたから、DJはその後自分をあざ笑ったのか?
我慢できていれば自分の将来を失わなかったと思って?

幾分かはそんな要素もあるかもしれない。
でも、DJは自分がバワーニを殺さなければならないと最初から知っていた。
知っていたのだ、自分しかバワーニを殺せないと。
そのことに改めて気づき、自分の運命を笑いたくなったのかもしれない。何をぐずぐずしてたんだよ、オマエ(自分)と。

あの兄弟の死体を見た時自分は死んだ。
そのつぐないをするのに随分時間がかかったけれど、今漸く達成できた。
そうだ、これこそが、自分の真の望みではなかったか。
バワーニを殺し、彼の考えたシステムを潰し、少年達が支配から抜け出し自立の道を歩むこと。社会の公正さの実現に一歩近づくこと。

ぐらいまで考えが進んだところでダースが声をかけてきたので激高したのかもしれない。こっちはとっくに覚悟を決めてるんだから余計な事言うなと。

次の瞬間には再びDJ先生のペルソナをかぶりなおして、自分の心を隠してしまうのだけれど。

ローケーシュ監督はタラパティが幾つものペルソナを使い分ける演技が殊の外好きなのかもしれない。






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