『サチン』5回も見ると感想も変わる

一回目の感想


今日はこの『よよよ』、じゃまくて #サチン を見たんですが、なんというかよよよな感じで、家で #ジッラ 見てようやく気を取り直したところです。はー、ブルーレイが発売されて、買っておいて良かったです。


二日目


『サチン』はモテ男とモテ女の意地の張り合いの恋模様。一般人が参考にできる所が何にもない。しかし美女の苦労はよく分かる。誰もが自分の顔しか見ないで告白してくるようで、もっと内面をしっかり見極めて欲しいと思ってるんだろうな。言っちゃなんだが、大した内面でもないんだけど。

これは昔のアイドル映画みたいに、主演のスター達を好きでたまらない人のための作品なのだろうか? 見る側にも相当な若さが要求される。若さがない場合は忍耐力で対応。結構つらいものがある。

2005年の作品だからタラパティは撮影時30才ぐらい? 顔が今より少しほっそりしていて『GOAT』のジーヴァンを思い出す。実際は登場時のガンディーの年齢ぐらいのはず。

「Whistle Podu」が流れて否が応でも『GOAT』が思い出されるのでした。サチンはひたすら前歯が可愛いくて、大学生にしか見えなくて、万能感にあふれイタズラはするし悪漢は成敗するけれど「善」と「良」しか心にはない。そんな人がジーヴァン演じるなんてさ……。

タラパティはアクション映画ばかりを見ていたので、こういうタイプの恋愛映画は初めてだったかも。珍しくニットを多く着用しているので、編み地がつかず離れず筋肉を浮かび上がらせてシャツ姿の時よりも身体が大きく見える。セーター着てるのに震えてるのが何かちょっと不思議だった。

たぶん、気温の低いところで暮らした事がないんだろう。寒いはずだからとセーターを用意して着たのはよいけれど、編み目のゆるいニットは風が突き通してくるから地肌にもろに冷気を感じていたのかも。演技じゃなくてタラパティほんとに寒かったのかもしれないな。いつも風がビュービュー吹いてて、薄い布のドレスを着ているヒロインが気の毒だった。さぞ寒かったことだろう。でも実は緩い編み地のセーターは一枚だと薄布が重なったドレスまとってるより寒いことがあるのよね。後半、サチンがジャケット着るようになってくれてほっとした。

気候というか気象というか季節感がよく分からない舞台だったので調べたウーティ(ウダガマンダラムの略)はタミルナードゥ州に連なる西ガーツ山脈の山中にあるリゾート地とのことで、標高が 2,240 m。なら劇中やたら地面に湧いてた白い霧、あれ普通に雲だわ。五里霧中じゃなくて、雲の中の恋物語だったのね。どっちにしても先行きが見通せない世界。

3回目

これ #サチン のアクションシーンなんですけど、タラパティが途中で「スパイダーマン、スパイダーマン♪」って歌ってるんですよ

 1分55秒あたり。 #GOAT にもスパイダーマンのフィギュアがでてくるんだけど、インドでも人気だったのね♪ ちなみにGOATではサチンでタラパティが歌ってたのと同じ一節が子どものジーヴァンの耳に聞こえています。

Spider-man, Spider-man
Does whatever a spider can?

4回目を見ながら考えたこと


恋愛映画としてのテーマは『愛を手に入れたければ意地とプライドを捨てろ』的な古式床しいものだけれど、今見ると描写されてるのは大学で女子生徒が男子にセクハラされてる場面だったり恋という名のストーカー行為を受けたりルッキズムを見せつけたりなので、実は結構先鋭的な作品だったのかもしれない。

ヒロインのシャーリニはとにかく美人なので、その気もないのに年中男に言い寄られて迷惑している。その場で断ったら後から兄とその手下を連れて報復に来られたりと危険な目にもあっているが、常に容赦なく男を振り倒すのは小気味いい。これは大学生男子達に「お前ら自重せい」と映画が教えているのかも。

シャーリニは自分を常に見つめているサチンに苛立って何故そんな事するのかと問い詰める(やめろと言わないあたり、実はすでに彼に気がある)。しかしサチンは上手いこと言って誤魔化して取り合わない。シャーリニが迷惑がっているのにお構いなしである。常に彼女の近くにいて、からかっている。

そんなサチンだが、自分が見つめられてると思った時にはソッコーでその女性の元にやめるようにと言いに行くのだ。この場合は誤解だったのでサチンが恥をかくのだが、男である自分がされていやなことを、自分がシャーリニに対して行っている事には気づかないまま。男女の差、違いが浮き彫りになっている。

ある日サチンは煙草を片手に、もう一方の手にはビール瓶を持ちながらという格好でシャーリニの母と談笑する。シャーリニの母はハンサムで口の上手いサチンが気に入ってるので文句は言わない。しかしサチンの知人(顔がアレ)は直前にビール瓶を持っていただけで通りすがりの女性に蔑まれ、なじられているのだ。

シャーリニの方は昼間からビールを飲んでいるサチンが恥ずかしくてたまらない。その事をサチンに訴えると 「人の目なんか気にするな。自由に好きな事をすればいい」と逆に説得される。すっかりその気になったシャーリニはかねてから着てみたいと思っていた派手で蓮っ葉なミニスカ姿で翌日登校する。

その服のせいでシャーリニは普段よりも男子からの注目を集め、行く先々で知らない男から誘いを受ける。断固として断り続けるシャーリニ。彼女はその自分好みの自由な格好をサチンに見て欲しかったのだ。しかしいざサチンに会うと「その格好は?」と彼女の服がお気に召さない様子。可愛いのだが安っぽく、軽薄で尻軽に見えたのだろう。

自分は昼からビールを飲んでそれを自慢しているのに、シャーリニが好きな服を着たら「君のいつも着てる服の方がいい」と暗にそれを否定する。人目を気にせず自由にしろと言ったのはそっちなのに。女性には男の目を惹かない、慎み深い服の方がいいと暗に押しつけるのはまさに男のWスタンダードである。

わりとこんな感じで、シャーリニを始めとする女性達に大学の男子生徒がどう関わるかというシーンを丹念に積み重ね、かつそれを女性がどう感じているかまでを描き出している。サチンのようなモテ男と、一般の男子との扱われ方の違いまでギャグにしつつもハッキリと。その辺はなかなか手厳しい。

サチンはまあ、男性的Wスタンダードも使うけれど、それもまたシャーリニの身を案じての事でもあるのだ。彼は本人も言うように女性に口笛拭いたり卑猥な言葉を言ったりはしない紳士である。基本的には女性を尊重しているので(シャーリニはからかうが)全体的に女性からの好感度は高い。なにしろハンサムな上にプロポーション抜群だし。そう、これは女性の目からのルッキズムをも語る作品なのである。

この映画、ストーリーにはまとまりがないが、案外インドでは大学生活をこれから始めるよという女子には良い注意喚起になってるのかもしれない。男子にとっては「こんなやり方で近づいたら女性に嫌われる」という見本集みたいなもの。
何より嬉しいことには、タラパティの口から何度も "I love you." が聞けるのだ♪ 彼のセクシーさがどこにあるか分かってるシーンもあるし、ファンならば見て損はない作品ではある。

5回目はシャーリニの立場になって見た

ここから少々ネタバレになるので未見の方はご注意。

雲の中の二人


雲に突っ込んでいくサチン

さて『サチン』を見るのもこれが一旦最後となるので、5回目はシャーリニの視点からサチンを見る事にした。

今まではタラパティファンとしてサチンを応援する立場からシャーリニを見ていて男の心を弄ぶひどい女だぐらいにしか思っていなかったのだが、同じ女としてシャーリニの考えを辿ってみることにしたのである。

実の所、サチンが一目でシャーリニに恋したように、シャーリニもまたふと見たサチンに心惹かれていたのだ。

二人の目と目があった時、そのまま歩み寄って
「この前あなたを見かけて……」
とでも会話を始めればすぐにも恋が始まったはずなのに、ロマコメのセオリーとして出会ったばかりの男女は最初は反発しあわなければならない。
そこで留年9回の先輩がしゃしゃり出ることになる。
その先輩の手前、シャーリニの美を手放しで讃えることができなくなって、サチンは彼女の容姿を批判し始める。その中に褒め言葉をこっそり交えているとはいえ、紛れもない侮辱である。

シャーリニとしては「初対面」の男にいきなり自慢の容姿をけなされたわけで、心中穏やかでいられるわけがない。しかもその彼についさっきまでは好意を抱いていたというのに。彼にも自分にもむかついて、反発するのは当然である。

その後も出会うたびにからかったり、バカにしたりしてくるサチン。女の立場からするとこれはうざくてイライラするだけである。そのくせふと気づくとサチンは自分を見つめている。冗談じゃない。

シャーリニは気が強いのでサチンに直談判に行くが、男の常として現を左右にするだけで女の言い分などまともにとってくれない。腹立ちが募るばかりである。

女の子なら誰でも経験あると思うけれど、特定の男の子によるしょーもないいやがらせ、やめてと言っても本人絶対きかないし、自分の親に言ったところで「あの子はお前のことが好きなのよ」とか言って我慢させられるだけ。
この段階でサチンがやってる事って、まさにそれだった。

シャーリニは気が強いだけじゃなく、賢く現実的な女性だ。
気に入らない男の恋文はその場で突き返すし、金持ちのどら息子に言い寄られても彼の財布をあてに買い物三昧したりすることもない。
インドで結婚前の女性として、男につけいる隙を与えない生き方を心得ている。

そんな彼女の身にふられ男の報復として危険が及びそうになった時、救ってくれたのはサチンだった。

その後もいろいろあった末に彼女はサチンを見直し、親しく友達づきあいするようになり、いい雰囲気になる。

しかしまだ前半なのでロマコメとしてはここで一波乱起こさねばならない。
晴れて二人が恋人になる前には試練が必要なのだ。

そこで今度はシャーリニ自身の習慣、すなわち「安易な告白にはノーと言う」態度が使われる。サチンからの愛の告白がどさくさ紛れだったため、シャーリニはそれを断るのだ。

この時点でサチンとは気心の知れた仲だったはずなのに、シャーリニは「一目惚れでは駄目。もっとお互いよく知り合ってから」と言って拒絶する。

サチン視点に立つと不思議でしようがない。こんなにも気が合っていつも話しているのに、何故受け入れてくれないのか。
タラパティファンの目線にたっても、こんなにもハンサムなお方から告白受けてるのに断るなんてあんた(シャーリニ)バカか、としか思わない。

しかしシャーリニの立場は現代日本女性とは違う。大学に行って自由を謳歌はしているが男女交際には慎重にならざるを得ない。親が見合いを持ち込んで来るかもしれないし、それを一存で断れない可能性もある。

またシャーリニにとって自分の美貌に惑わされて告白してくる男は……たぶん数が多すぎて……一時の気の迷い程度に思えていたのかもしれない。

そして、どうせ愛の告白をするならもっと全てが整った状態でロマンチックに実行して欲しかった、という気持ちもあったかも。

男にとってはどさくさ紛れのアイラブユーはロマンチックかもしれないが、女にとってはそうではない。雑な、その場の思いつきとしか受け取れない。

シャーリニにとっては素敵な期待が膨らんでいた所にいきなり冷水ぶっかけられた気持ちだったのだろうか。サチンが段階を踏んできちんとプロポーズしてくれることを彼女が願っていたとしたら、たぶんそうなのだろう。

しかし女の話など聞かないのが男の常。一度の拒絶にめげずサチンは何度もアイラブユーを繰り返す。その上「30日以内に君は僕に愛の告白をする」等という賭まで始める。

なんというか、ここまでバカにされたら意地でもうんと言うもんかというシャーリニの気持ちも分かってきましたね。女心をここまで蔑ろにされたら仕返しの一つもしなければ気がすまない。それが
「一度でいいから彼を泣かしたかった」
というセリフになるのだろう。

それが首尾良くいった時、サチンは自分で申し出た賭けに負けたので初めて彼女の言葉を真に受けるのだが、ここからのシーンのタラパティの愛を失った悲しみの演技があまりに上手すぎて、観客女子全員が彼にほだされてシャーリニを悪者扱いするという現象が生じてしまう。普通に考えればサチンの自業自得なのだ。彼自身の傲慢さが招いた結果なのだから。いつもの軽妙なサチンなら賭に負けても一晩反省して、またシャーリニに明るく迫るはずなのに。

しかしタラパティはサチンの喪失感をまるで人生の伴侶を失ったかのように表現するので、彼の深い愛に気づかず、自分のプライドのために彼を傷つける決心をしたシャーリニがとんでもない悪女に見えてしまうのだ。
だからシャーリニがその自分の犯した罪(本当はサチンが好きなのに気のないフリをした)の重さ、大きさに打ちひしがれた時も当然としか思わない。

しかし待て、シャーリニはたった一回、意地を張っただけじゃないのか?

最初は無礼で、次は苛つかせ、何度も恥をかかされたサチンに対する腹立ちをそうやって解消し、次に進むつもりだっただけなのでは?

そしてそれはその後のサチンとの交際においてシャーリニに有利に働くものだったのでは? 

シャーリニは賢い娘である。今の二人の関係のままでは自分が何もかもサチンの言うがままになるという恐れを抱くのも当然ではないか? 二人の関係を対等なものにするには、サチンに自分の言葉に耳を傾けるよう働きかけねばならない。その手っ取り早い方法が彼の傲慢さを打ち砕くことであり、具体的にいえば賭に勝つことだと彼女は心の底で気づいていたのでは?

そういう風に考えると彼女の行動に一本スジが通ってくる。
彼女はサチンが好きだし、できれば結婚したいとも考えていたけれど、今のように彼に振り回されっぱなしになるのは断固として拒否したかったのだ。
それは彼女のその後の人生にとってとても重要なことだから。

まあロマコメの試練としてそれを持ってくるのは作劇上どうかとは思うけれど、ヒロインとしての彼女の心情は細かに描けていることには視点を変えることによって初めて気づけたと思う。

サチンは素晴らしい男性として描かれているけれども、男特有の物の考え方からは脱却できていないキャラクターだった。シャーリニはその部分がどうしても我慢できない現代的なヒロインという設定で、二人の心の動きは俳優達の演技によって見事に表現されている。

二人とも意地っ張りだが、それによって人生を台無しにする前に謝ることのできる立派な大人なので、最後は幸せになれるのである。
しなくてもいい喧嘩や必要のない試練の末、自らの行いでハッピーエンドを迎えられた二人に幸あれ。

おまけ

#ディル・セ は確か #サチン でも言及があった。 #タライヴァー にはタミル語話者がヒンディーで「ディル」は「心」だと教えて貰うシーンがあるが、この時点で観客はそのことを熟知しているという前提あってのギャグのようだった。『ディル・セ』を見ていればタミルでもそんなの常識って感じなのかも。








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