#ジガルタンダ・ダブルX 私にとっての頂点は

私にとっての頂点は、森から抜け出たキルバイが未踏の緑を踏み分けて跡を残しながら荷物を次々に捨てていき、やがて立ち止まって動かなくなるシーンだった。彼が初めて自己と真正面から向き合う瞬間。 シネマに魅入られた事を心の底から悟る時。その蠱からはもう抜けられない。

別の記事でも書いているけれど、その時のキルバイの、SJスーリヤさんの美しさは、外見を構成するすべての要素を貫いて内面の美しさが輝いていた。

汗にまみれた男が俯いたまま両目に涙をためていくだけのシーンが息を呑むほど美しいのだ。

それは演技を超越し、彼の心の美しさを垣間見たからなのだと思った。

芸術の神(ミューズ)に魂を奪われ、その走狗となり果てた自分を見つめ直し、その人生に悔いはないという思いを、俳優が役へと昇華させた瞬間。

それを撮影し、監督は映画として大勢の人の前に出す。

俳優は、それを許す。

自分自身の、本質に関わる部分が赤裸々にあらわれているその瞬間を、普通の人なら最も隠したいであろうその瞬間を、敢えて人前にさらし売り物にするのだ。

映画とは、演劇とは、そういうものだ。

芸術の神に選ばれたということは、自分の隠しておきたい心の一部さえさらけ出さなければいけないということだし、いやでもそれを最優先にしなければいけないということなのだ。自分自身を捨てなければ、芸術などできないのだ。

その事を、キルバイは、自分以外誰も踏み入れたことのなかった緑の園の中で思い知り、恐れおののき、逃れたいと願い、でも、もう、自分にはできないと、ミューズが与える甘美な魅力にはあらがえないと、知ったのだ。

そう、ミューズに仕える事は、蠱に魅入られること。
一度身を委ねてしまえば二度と戻れない。

そのことを誰よりも知っているSJスーリヤだからこそ、あのキルバイを演じられたのだろう。

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