性善説と性悪説、その真偽

人は性善説と性悪説、どちらに属するかで議論が行われることがある。これは私も時々考えるテーマではあるが、ここで一つ私の考えを述べようと思う。

まずは答えから率直に、人は性悪説だと言うのが私の結論だ。

皆さんご存知のTwitterが分かりやすいだろう。人を攻撃するのが日常的であり一部界隈ではその争いを止めようとする、いわゆる善人に属するであろう人たちも攻撃することもあるまるで無法地帯のようになっている。争い、攻撃し、晒す。これらの行為をすることでいいねを稼いで承認欲求を満たす。

しかし、Twitterで暴れている人たちが現実でも同じ行動をしているか?と問われた際、多くの人たちはそうではないだろう。朝起きて、仕事や学校に行き、夜に寝て1日を終える。その1日の中で人を攻撃することなんて無いだろう。

ではなぜこうした現実とTwitterという二面性が生まれているのか。それは匿名性だろう。Twitterでは一部を除き顔も、名前も、住所も、自ら開示しない限り基本的にはわからない。そうした匿名性という名のベールに包まれているからこそ自分を無敵かのように思い人を攻撃する。これこそが私が人は性悪説であると考える根拠の一つだ。

現実での人間は弱い。人間関係、立場、上下関係などがあり、誰に対しても強気に出れるなんていう人は僅かだし、そういう強気に出る人はいつしか居場所を失う。そして強気に振る舞う人は居場所を失うということも私たちは理解している。

つまり現実での私たちは本来の私たちではないのだ。そうしたしがらみを全て無くしたものがSNSであり、ここに人間の本性は現れる。


だが、性悪説だからこそ人間は美しいのだ。


まず初めに仮に人間が性善説だった時の話をしよう。そうした世界では人は善人であることが当たり前で悪人であることが異常なのだ。これが何を表しているのか。それは人は人を減点方式でしか見れなくなってしまうということである。困ってる人を助けるのが当たり前、弱い人を助けるのが当たり前。その世界の中で人を助けたとしても当たり前だから称賛はされない。見てみぬふりをしたら非難をされる。そんな減点方式でしか生きていけない世界では息苦しいだろう。

だが性悪説だった場合はどうだろうか。困っている人を助けるのはすごいこと、弱い人を助けるのが素晴らしいこと、そうした世界では加点方式で人は評価される。怠けるものに制裁を、ではなく頑張るものに祝福を、の世界の方が輝いてはいないだろうか。

人は怠惰で、傲慢で、愚かで醜い。
だからこそ、頑張る人が輝いてみえる。

優しい人が人に優しくするのは当たり前である。
だが、傲慢な人が人に優しくするのには努力が必要である。
そうした努力が当たり前にならないからこそ性悪説を私は推す。

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