携挙はあるのか?
クリスチャンになってからずっと、私は「携挙」を信じてきました。
携挙とは、イエス・キリストが昇天して以降の教会時代に救われたクリスチャンがみな、生きてる者も死んだ者も、キリストが天から戻って来られるときに空中に引き上げられ、雲の中で主と会い、その後、主と一緒に天に昇るというものです。
携挙のことを言ってるとされる代表的な聖書箇所は、第一テサロニケ人への手紙4章の後半です。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちはいつまでも主とともにいることになります。(2テサロニケ4:16,17)
この箇所には、クリスチャンたちが「空中で主と会う」と書かれています。しかし、その後に、天に昇るとは書かれていません。携挙を信じる人たちは、この箇所は携挙を教えてる箇所だと捉え、空中で主と会った後に天に昇ると理解します。
私はずっと、携挙があると信じ、神学的な立場で言えば「千年王国前患難期前携挙説」に立ってきました。
しかし、ここ最近、バイブルスタディで黙示録を学んでることもあり、改めて終末論を考え直すようになりました。自分とは異なる立場の人たちの意見、理解にも耳を傾けました。そして、今までの自分の立場のある部分に疑問を覚えるようになり、またある部分についてはより深く確信を抱くようになりました。
特に疑問を抱くようになったのは「携挙」に関してです。
私にとって携挙は当たり前のことだったのですが、みことばを字義通りに理解しようとする牧師や神学者の中でも、たくさんの人たちが携挙を信じていません。その人たちの意見を聞くことは、これまでずっと自分が信じてきたことが揺るがされことでもあり、携挙にずっと希望を抱いていた私にとっては心地良いものではありませんでした。むしろ、その説明を聞けば聞くほど戸惑い、そしてその説明が聖書的であると思えば思うほどショックを受けました。
これまで携挙を信じる牧師の教えを何度も聞いてきました。また、神学校の講義でも携挙に関して学びました。なので、携挙に関する情報や聖書的な根拠(だと考えられてるもの)にはかなり触れてきていました。そう簡単には自分の考えが覆されることはないだろうと最初は考えていました。しかし、携挙がないことを聖書的に説明する彼らの話には明確な聖書的な根拠があり、反対に自分が信じてきたものには、はっきりとした根拠に欠けるものでると考えさせられました。そして、私は自分の考えを変えざるをえませんでした。
どうして携挙がないと考えられるか、そのことも今後書いていきたいと思います。
携挙の聖書的な根拠とされる第一テサロニケの4章からも、ヨハネの福音書14章の前半も、第一コリント15章も、ヨハネの黙示録全体(特に3章)からも、はっきりと「携挙」があると信じることはできません。
マタイの福音書24章の前半と第二テサロニケ2章の前半をよく理解するならば、イエスさまの頭の中にも、パウロの頭の中にも、「携挙」というものは存在しなかっただろうと考えられます。
調べれば調べるほど複雑な思いにもなりましたが、「携挙」がないと考えるようになって、今は色々な聖書箇所の意味がすっきり分かるようになりました。無理やり?複雑な解釈をしなくても、単純に理解できるようになりました。または、違う箇所の意味がそれぞれつながるようになりました。
最初は戸惑い、大きなショックを受けましたが、今では不思議な平安が心の中にあります。
おそらく、クリスチャンになってからここまで大きな自分の教理的な変化を体験したことはないと思います。
携挙がない、教会が患難時代を通過するだろうというのは、ショックなことです。しかし、イエスさまはこのように語っています。
わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。(ヨハネの福音書17章15節)
神様は私たちをどんな中にあったとしても、試練の中にあったとしても守ってくださいます。 苦難の中で、神様は私たちに主から来る喜びや平安を与えてくださいます。
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