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文系と理系

今回の更新では「理系は文系はそんなに変わらないと考えることがでるか」という点について考えを残します。(尚近年はその2つの境界線が曖昧になっていると考えることは十分に可能な為、基準として古典的な系譜に則りこれらを記述しました)

文系学問は理系学問と比較された際、「私文」「逃げの文系」などの幾つかのユニークな蔑称を用いて揶揄されることからもその立場を軽視されることは少なくありません。

しかし、文系学問と理系学問はそれぞれ偶然性を別々の個所に抱えており、その点においてはどちらも大差ないとも考えております。(この2つが対立する背景はその他にも社会貢献性などが考えられますが今回はスルーします)

文系が抱える偶然性とはやはり「再現性の無さ」が大きいのではないでしょうか。例として歴史というポピュラーな学問を手に取ってみればこれは明白です。仮に時間が巻き戻りある出来事が確実に再現されるかといえば自信をもって頷くことは困難です。また古典的な心理学に対しても、それにおいて重要な概念を提唱した人間が、仮に人生で見たもの感じたものが異なればこそ、それは提唱されなかったかもしれません。

*)理系にとってみればこのような点を考慮する必要がありません。物の理は何度でも繰り返され、時間こそ要求されますが理系の分野で名をはせた偉人が仮に生まれなくても、私たちが学校で苦労して親しんだ諸法則もタイムラグの後に見つかることは変わりないでしょう。

一見理論に満ち溢れ偶然性を受け入れる隙などとてもないように見える理系学問ですが、それは足元に巧妙に配置されています。理系学問が抱える偶然性とは「世界を記述する形式に数値が採用された(歴史的な)事実」そのものです。手から離れたものが地面に落ちる、この様子は一般的な数式と高校の物理で容易に記述可能であり、その回答は現代では真理とされます。もしこの様子に対して「ものが落ちるのは神様がそうしたから」などといったら変わり者扱いされかねません。

しかし世界を物理で記述しなければならない理由ななどなく、仮にすべての出来事に対して「神の意志」が原因であると結論付けたとしても、物理が採用されている現代と同じく矛盾は何処にも生じません。つまり長い時間と共に組み上げられた精緻な理論は1つの偶然性のもとに成り立っています。(「*)」で始めた個所は理論に満ちた世界を印象付けますが、この一連を踏まえるとそれは砂上の楼閣と表現できます。)

これは歴史上の出来事である黒船来航(偶然性)について研究している方と世界の記述形式に数が採用された(偶然性)ことに基づいて宇宙を研究されている方は構造的に同種であると言い換えることができると考えられます。

私は全ての考えをテキストに憑依させることが出来たかという点について全く自信がないため、非常に歯がゆい気分ではありますが現にこれ以上手の打ちようがないためここで終わります。

最後にこれを記述するには遅すぎたかもしれませんが、私はこれらの対立を煽ったり(当記事にはそのような影響力もありませんが)どちらかを無駄と言い切るつもりもありません。

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