血縁原理主義という信仰の終わり ~CHAOS;CHILD(カオスチャイルド)感想~

※本編を履修済みであることが前提の記事ですので、未プレイの方が読むことは御遠慮ください






【信仰とその終わり】


※画像のキャラはCHAOS;HEAD NOAHの西條七海 怒ってる姿も可愛い

「んん~、やはり妹や姉キャラは血縁に限りますなあ! しょせん義妹や義姉のごとき存在は背徳感というスパイスが足りない紛い物でござるよ」
(by 2023年8月までの私)


 ……そんなふうに思っていた時期が(かなり長いこと)私にはありました


そしてCHAOS;CHILDとの出逢い

「血の繋がりがなんだ! そんなもの無くったってなあ……本物の家族にはなれるんだよ!」
(by CHAOS;CHILDプレイ後の私)


 ……まさかこの歳になって「実妹実姉原理主義」の信仰を覆えされるとは。

 いや、本件に関しては私にも言い分があるんですよ。
 いわゆる「義妹義姉モノ」って基本的に「姉弟(兄妹)から恋人へ」というのがセオリーじゃないですか。それが良くなかった(※たんに私のレパートリーが偏ってるだけとも言う)
 んで、これまたありがちな展開なんですが義理の関係で、

「だめ、私たち姉弟なんだよ……」

 とか言われても「いやでも血が繋がってないし何も問題なくね?」って感じちゃうわけですよ。これは白ける。
 創作でインモラルごっこするならちゃんと「血縁」にして欲しいし、そこで半端に日和るくらいなら最初からインモラルごっこなんてやらないで欲しい。……とまあそう思っていたわけです。

 

【では本作は何が違ったか?】


 CHAOS;CHILDって基本的に「〇〇から恋人へ」のフォーマットじゃないんですよね。「○○」を「恋人」の下位互換に想定してステップアップを目指す物語構造になっていない。
 このあたりはさすが公式に「ギャルゲではない」と言うだけはある。 
 では本作におけるドラマはいかなるプロセスを経ていくのか、

「虚から実へ」

 ……これでしょう(※その鏡合わせで「実から虚へ」という側面もあるのだがこの記事ではそっちは置いておく)。

 嘘や形から始まった「〇〇」という関係性そのものをフォーカスし掘り下げていくのが本作の持つ一側面と言えるでしょう。以下にいくつか具体例を挙げていきたいと思います。


【ケース1 香月華】

 香月華はもともとは乃々が連れてきて勝手に部員にした子だったんですよね。
 拓留は部長だけど乃々には頭が上がらないので、消極的にではあるけれど華の入部を認める形になった。
 そのうち華は部の備品であるPCを私物化して部室内でネトゲをやり始めるようになるわけですが、拓留にはこれを強く咎めたり追い出す勇気も無く結局これも黙認する形に。

 ……とまあ拓留から見れば華は多分に「形だけの部員」だったわけですね。喋らないしゲームばかりやってるしで苦手意識すら抱いていた。
 しかし当の華は、そんな自分を受け入れ居場所を与えてくれた新聞部に多大な恩義を感じていた。
 だからこそ、その危険性ゆえに封印していた自らの能力を解放して拓留を助けようとしたし、拓留もまたその想いに応える決意を固めることになる。

 形だけの部員から大切な部の仲間に

 端的に言うならそれが香月華との物語であると言えるでしょう。虚から実へ。


【ケース2 尾上世莉架】

 もうこれは既プレイの皆さんには説明不要ですね(でも書くけど)。

 守るべき年下の女の子

 そんな世莉架の正体は親の代わりを求めた拓留によって創り出された架空の存在だった。しかし最後には拓留は世莉架を守り、そして世莉架はひとりの人間として歩み始めていく。虚から実へ。


【ケース3 来栖乃々】

 そして来栖乃々あらため南沢泉理。
 
 拓留のよく知る来栖乃々は南沢泉理の演じる偽者で、青葉寮もまた佐久間恒がお遊びで始めた「家族ごっこ」だった。
 しかし集められた子供たちにとって、共に過ごした日々とそこで育まれた絆は本物だった。虚から実へ。

 来栖乃々ルートは「姉弟から恋人へ」の物語じゃないんですよね。
 赤の他人同士が集まって始められた家族ごっこが、様々な誤解とすれ違いを経ながら「本当の家族になる」物語。

 ……これに限って言えば「血が繋がっていない」からこそ意味がある話だと言えるでしょう。
「血縁」という確かな繋がりが無いからこそ、不確かで頼りなく形を持たない「家族の絆」がより一層に意義と重みを持ってくるわけですね。


【ギャルゲじゃない】


 公式いわく本作は「ギャルゲではない」そうです。
 何をもって「ギャルゲ」と定義するかは人によって解釈の分かれるところでしょうが、仮にそれを「恋愛シミュレーション」とするのであれば「恋仲になる」ことをゴールに据えていない本作はたしかに「ギャルゲではない」と言えるかもしれません(逆に雛絵ルートが「ギャルゲっぽい」と言われる由縁でもありますが)。

 この「恋仲になることがゴールではない」というのは来栖乃々ルートの「来栖乃々と思われていた人物の正体は南沢泉理だった」というネタばらしにおいて特に重要な意味を持ってくるように思います。
 たとえば仮に本作が「恋愛シミュレーション」だったとしましょう。そこで、

 ボインボインのねーちゃんと恋仲になったと思ったら、なんとその正体は幼児体型のチビッコだった

 という衝撃の事実が判明する。そんな中で主人公に、

「名前と外見が違ったとしても関係ない。中身は変わらないじゃないか」

 というセリフを言わせたとする。
 感動的かもしれないけれど、そこにはどうしても幾許かの「白々しさ」が出てしまうことは避けられないでしょう(ちなみに私はどっちの体型も好きです)。
 しかし本作においてフォーカスされるのはあくまでも「家族の絆」なわけです。であれば、

「名前と外見が違ったとしても関係ない。家族として共に過ごしてきた時間の中で向けてくれた愛情は本物だ」

 という言葉にも素直に「そうだそうだ! その通りだ!」と頷くことができる。これは見事と評さざるを得ない。

 

【ほっぺプクー】

 
 さて蛇足となりますが泉理の、

可愛い ほっぺをつつきたい

 この表情について。
 一部では「乃々のときには見せたことのない表情」と評判ですが、ところがどっこい立ち絵の差分にはないだけで、じつは「ある」んですよ乃々がその表情をする場面が。
 では8章の以下のシーンを参照、

ふーん
ぷくっと頬を膨らませる乃々

 乃々が頬を膨らませる差分ください!

 ……やはり姿は違っても中身は同じか。後日談小説のチルリバでも泉理は乃々の姿のときと変わらず学校で「女帝」って呼ばれてますしね。

 なお蛇足ついでにさらに蛇足を。
 来栖乃々ルートでのお出かけ中に川原くんから乃々のスマホに電話がかかってくるシーン、

ふーん

 スルースキルを身につけたつもりでいた拓留でしたが、どうやらお姉ちゃんには早くも手の内を読まれてる模様です。

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