プロセカ韓国語版の炎上について思うこと

先日、5月20日、プロジェクトセカイの韓国語版が正式にリリースされ、多くの注目を集めた。私は十数年前からボカロを聴いてきた韓国人のファンとして、とてもめでたいことだと思っていた。周りの仲間たちもこれをきっかけにして韓国にもボカロの風が再び吹いてくることを祈っていた。

好評を博しながら数日間運営されていたプロセカの韓国語版は、昨日(5月25日)とんでもない炎上を起こし韓国のオタク界隈の大話題に浮上した。その引き金は、同日午後8時から配信した「プロジェクトセカイ ワンダショちゃんねる #20」の内容であった。

簡略に説明すると、「レトロ」をテーマとして募集した衣装デザインキャンペーンで、「大正ロマン」をモチーフにした作品が採用されたことが原因であった。その採用を見た韓国の一部のユーザーが反対の声をあげ、批判するツイートが数千回リツイートされるなどの波乱が起こり、韓国語版の運営がそれに関して「韓国語版のサーバーでは当該衣装を販売致しません」と告知したのだ。

しかし、「大正ロマン」をテーマにした衣装に如何なる問題も感じないユーザー層ももちろん存在した。彼らは運営の告知に猛反発し、Twitterを中心にした一部のユーザーを贔屓する運営を批判した。イベントのランカーたちはプロフィールネームを「ツイッター贔屓するな」「運営はしっかりしろ」などに変更し、AppStoreの評価を意図的に下げるなどの抗議をした。結果として、「もう韓国語版はやらない、プロセカなんてやらない」などの意見も大きくなっている。たったの12時間の間、プロセカの韓国語版はこのような炎上を起こし、ユーザー間の溝が深まってしまったのだ。

ボカロを愛するファンとして、これは本当に悲しくて苦しくてあっけない事件である。みんなが期待していた明るい未来は来ず、リリース5日目で醜い争いがゲーム全体を覆ってしまった。どうかこの問題が収まり、プロセカの韓国語版に「未来から初めての音がやって来る」ことを切に願う。

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以下、個人的な気持ちと考えです。

大正時代に日本人が着ていた衣装を拒否する風潮、これは日本人から見たとき不可解なことだろう。「大正ロマン」を拒否する人々の論理は、大正時代が属している日本帝国時代に韓国を含めた朝鮮半島が植民地支配を受け、祖先たちがひっ迫されたという考えから起因する。彼らは自分の行為が「愛国」だと思い込み、大正ロマンに好意を示す人々は「売国奴」だとレッテルを貼っている。

ただし、注意しておきたいことがある。このような現象は日本のいわゆるネトウヨが主張しているように、韓国の教育が「反日」を助長しているから起こっているのだと言い切れるほど簡単な問題ではない。

歴史は多面性を持つ存在である。いかなる時代も両面性を持ち、事件は無機質な事件として存在するのみである。それを解釈するのは後代の役割だ。

韓国のオタク、すなわち日本のサブカルチャーを楽しむ人々は、実際長い間迫害されてきた。60年代~80年代生まれのオタクたちの親や祖父母は、植民地時代を生きた経験があり、人々によって違いはあるが植民地時代よりは「自身の国」、すなわち大韓民国の時代を好み、日本の文化に抵抗感を持っていた。家庭内でのしつけは勿論、自然とそれは日本文化への迫害に繋がり、1998年になるまで日本の大衆文化の輸入は固く禁じられていたのである。信じがたいことかもしれないが、今も韓国のラジオやテレビで日本の楽曲を流す行為はタブー視されている。

長い迫害の経験を持つ韓国のオタクたちは、常に自分が「日本文化は愛するが、帝国主義と植民地支配に同意するわけではない」と自省しながら自ら証明しなければならなかった。まさにそれが嫌気を出しながら「大正ロマン」を拒否する理由である。上述したように、大正時代は朝鮮を植民地化した日本帝国の時代区分に該当するためである。大正ロマンなどに対する反発は防衛機制として働き、少なくとも日本の大衆文化が開放される前(1998年以前)までは自分の潔白を証明する立派な装置となった。その時はまだ日本の文化を楽しむことが違法行為に当たる時代だったことを理解してもらいたい。楽しむためには、言い訳が必要だった。しかしながら、今現に2022年を生きる我々が、歴史と時代をそうやって簡単に定義してもいいのだろうか。

ミクロ的に、大正時代の例を挙げると、大正デモクラシーの際に培養された社会主義と自由主義の波は朝鮮の独立運動にも多大な影響を及ぼし、当時成長した知識人たちが大韓民国政府樹立の一翼を担った。一方、大正時代を前後にして三・一独立運動の弾圧(1919、大正8年)、関東大震災朝鮮人虐殺(1923、大正12年)などの事件が発生したことも決して否定してはならない厳めしい事実である。こういう暗鬱な事件が起こったからといって、大正時代を全否定して当時のファッションを登場させることを「拒否」する行為は、妥当だろうか。そしてその時代のファッションの実装を拒否する行為を「愛国」だと主張することは妥当だろうか。私はそう思わない。

在日外国人に対するヘイトスピーチを連発するネトウヨも、自国の利益のために動く小粉紅も、ウクライナを侵攻して民間人を殺しているロシア人も、そして大正時代のファッションを拒否して運営に噛み付き大量のDMを送り出す韓国人も、みんな自分がやっている行為を「愛国」だと思い込んでいるかもしれない。もしそれが本当の愛国ならば、私は愛国者になることを拒否し、博愛主義者になることを選びたい。彼らは外国と外国人の文化・歴史・特色などを理解しようとせず、自分自身が属しているグループの偏見に従っているだけだと私は思う。それよりは異文化を尊重し、理解し、共に楽しもうとする博愛主義の方が何倍も素敵ではなかろうか。

韓国近現代史の暗い歴史として、開発独裁政権の民間人弾圧も挙げられるだろう。1980年、韓国の光州という都市で軍事政権の圧政に反発する民主化運動がおこり、数百人の民間人が軍によって殺された事件(光州事件、光州民主化運動)が発生した。しかし、韓国のテレビドラマや漫画に80年代の軍服が登場したとき「光州事件の主犯が着ていた服装だ」と批判する声は一切上がらない。これは韓国の市民社会は1980年代の現代史について成熟した理解をしていて、時代の両面性を認知し、軍服を袋叩きにするのは過剰な反応だと考えているからである。同じ社会的合意が、大正時代についても先行されるべきだと思うが、まだそれほど韓国の市民社会は成熟していない。これには日韓両国の政治家の過誤があると言えるだろう。

オタクとサブカルチャーの話に戻ろう。
韓国のTwitterのシェア率は日本に比べて非常に低い。2021年のアンケートによると、Twitterを1年間一度でも利用したことがあると答えた回答者は全体の14%にしか及ばなかった。日本で「オタクのネット上の集い場」と言われるとまずTwitterを思い浮かぶはずだが、韓国ではそうではない。Twitterを代替するコミュニティサイトが多く機能していて、人々が棲み分けており、そのサイトごとに性格が大きく遊離している。定量評価が出来ないことなので感覚で話すしかないが、そのサイトたちの中で上述した「日本帝国期のものを拒否する」性格が最も強いところはTwitterである。むしろ今はそのような風潮がだいぶ弱まり、そういう行為をバカバカしいと批判する声さえも上がっている。これが「運営はTwitterを贔屓するな」という意見が上がった理由で、韓国語版をやるならプロセカを止めるか、日本語版をやるという人々があらわれた原因である。そしてTwitterにおける「大正ロマン衣装実装反対に反対する」声が少ない理由でもある。

日本に住んでみて肌で感じたことだが、韓国人は年齢を問わず日本人より何倍も政治に興味を持っている。韓国語版プロセカをサービスしている運営の大正ロマンに関する一連の行動は、日本を含めた外交についての企業倫理を示す重大な事件である。なのでTwitterを利用しないユーザー層は、この事件を政治的に受け取り「ICBM云々が歌詞に含まれる千本桜が配信されないことは覚悟していたが、大正ロマンに関しても運営がこんなに偏った姿勢を取るとは思わなかった」と考えて不自然ではないだろう。実際、韓国のカラオケにボカロ楽曲「千本桜」が収録されてから炎上し撤回した記憶がまだ新しい。

個々人の価値観が異なることは当然のことであり、大正ロマンが嫌いな人がいれば好きな人もいるだろう。それはもちろん尊重すべきである。しかし特定の表現が嫌いだからといって、その表現を全否定しレッテルを貼りながら検閲する行為も尊重すべきだろうか。長い間、サブカルチャーを始めとした日本文化の享受は韓国で「違法」であり検閲の対象であった。その時代に抗ってきたオタクたちが、今まさに自ら「自己検閲」を行っているのではないか。法に準じて何ら問題もない表現を、集団の力でやり玉に挙げて批判することは全体主義の典型的な手法ではなかったのか。

分かってほしいのは、韓国のオタクがみんな「大正時代の衣装なんて要らない」と思ってはいないということである。欲しがっている人も十二分に存在し、その人々の抗議行為で現在韓国語版プロセカのStoreでの評価は★2.3まで下がっている。私はTwitterのユーザーたちが大正ロマンに拒否感を示す理由は上で述べたように理解しているが、それに伴った一連の行動には全く同意しない。一刻でも早くこの事態が収まり、韓国語版プロセカが、そしてボカロが韓国で広く受け入れられることを希う限りである。

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5月27日0時20分追加

言いそびれていたが、上で述べたような「やり玉に挙げる行為」で潰された韓国のオタク界隈は決して少なくない。「お前の好きなジャンルは可笑しい빻았다」と非難し、自身がハマっているジャンルの潔白さを証明して自己防衛しようとする思考が繰り返し拡散していたのである。もうそんなことはやめて、お互い好きなことを楽しもう、と話しかけたいところである。

私はプロセカが、延いてはボカロがそんな羽目になることを懸念してこの記事を書いた。
いよわ氏の楽曲『あだぽしゃ』には、「私たちもう一生分かり合えなくても歩いていくんでしょう」という呼びかけのような歌詞がある。
われらは分かり合おうとしよう。また、もし分かり合いたくなかったら互いに咎めずすれ違っていこう。そして幸せになろう。過剰な自己防衛が必要だった迫害の時代はもう終わったのだ。


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