自分のための親子丼、未遂。

旦那が夜勤の日はいそいそとカップラーメンを食べる。コンビニでちょっとヘンなのを買うのが好きだ。
しかしヘンだけあって、まあ…2回目はないな…というものが多い。よって紹介はしない。
結局トムヤムラーメンか蒙古タンメン中本に落ち着く。
旦那が唐辛子系の辛いものが苦手なので、こういうときに本気を出すのだ。
あらびき黒胡椒もイヤがる旦那だが、何故かわさびだけはむちゃくちゃ好きである。不思議だ…。

そんなこんなで今晩もカップラーメン…と思っていたが、唐突に!断固!親子丼が食べたくなった。
私は自分で作る親子丼が一番好きだ。
自分好みに作るのだから当たり前のことだ。

玉ねぎたっぷりで甘めで、卵はきちんと火が通りながらもふわふわ感を保っており、カツオのきいたダシはつゆだくが良い。めんつゆ上等。
つまりは家庭で食べる、ごくごくオーソドックスなものだ。
ただ、こと卵料理に限っては、あれは技術を食うものだと思っている。質感こそが命だ。

食事はたいてい旦那の味覚に合わせる。
白飯が好きだというので丼モノは滅多にやらない。
そして彼は、千切りキャベツで白飯が食える(ドレッシングの類いは一切使わずにだ!)ほどの薄味嗜好なので、私は自分の取り皿でスパイスや酢をカスタマイズするのが常だ。
薄い方に合わせておけばまあ間違いはなかろう、きっと健康にもよかろう、という合理的思考に基づくものだが、時々わたしの中の王が叛旗を掲げてテメエはそれでいいのか日和ってんじゃねえよと叫ぶ。
私の中には王がいる。数年前までサムライだったがジョブチェンジしたようだ。

まあそんなこんなで、親子丼である。
自分が好きなあんばいの親子丼を、自分のためだけに作る。

ふはは。胸が高鳴る。

小ぶりのフライパンに砂糖を撒き、玉ねぎを炒め、一口大に切った鶏肉をこんがり焼き、めんつゆをかけてから白だしやらで味見しながら味をととのえる。
そしてやおら強火にする。
ガンガンの強火で煮立ったフライパンの中に一気にとき卵を回しかけ、3回ほどささっとまぜて卵の色が白っぽく変わった瞬間に火を消す。そして蒸らす。

という流れだ。たぶん王道の作り方からは遠く離れている。が、私はこのやり方が好きだ。

(冷たい鍋に砂糖をばらばら撒いてから炒めると焦げ付かない。じきに鶏から出る脂でちょうどいい油加減になると思う。
フライパンに油をしいて肉を焼いてから脂を拭き取るという工程の何もかもがもったいなく思える貧乏人の発想である…。脂が好きなのでね…)

そして仕上げの溶き卵を投入すべく、冷蔵庫を開けたら。

卵が、ない。

まじかよ。3つはあったはずだ!

普段ならきちんと材料を揃えてから始めるところだが、さっさと食べたい余りにそこを怠った。100年ぶりの失態だ。

何故だ。たしかにあった。
しばし冷蔵庫の前で立ち尽くす。

…あ。昨晩使ったわ!ははは!

昨晩は旦那が休みで、夕食を作って私の帰りを待ってくれていた。
実に優しい男なのだ!
オムライスだった。私の好物だ。
あれだ間違いない。

つまり、自分が使ったときの残量しか把握していなかったのだ。不覚をとった。

というわけで鶏の煮物と白飯になった。
これはこれで美味い。よしとする。

自炊は自分の好みの味付けにできるので楽しい、だがそれが他人にとって美味であるかどうかは全く分からないという怖さがある。
人を招いて手製の食事を振る舞う人々はむちゃくちゃすごいと思う。
私にはムリだ。
遠方から友が訪ねて来るときは常に外食である。

何が言いたかったのか。
材料を確認してから調理せよという自戒である。

私の文は常に蛇行している。
推敲なぞしないからだ。
書く作業に飽きたらそこでアップして終了だ。
推敲を始めたが最後、いじりすぎてあーじゃねーこーじゃねーと言い始め結局ボツにするのが目に見えているからだ。

後日読み返して、こいつは何を言っているんだ!と呆れ返るのが常である。
初心者丸出し状態で、今はただやみくもに数をうつフェーズである。

三年後くらいには上手くなっているかもしれない。しらんけど。

おいしいものを食べます。