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さなのばくたん。双方向性は毒か薬か/ばくたん。の可能性


1.はじめに

こんにちは。私のnoteを開いて下さりありがとうございます。

これは、私が「さなのばくたん。-王国からの招待状-」を現地に見に行ったときの感想をまとめたものになります。今年のばくたん。は去年と比較してコミカルだったので、文体も少しラフに、自分語り多め、内容簡単に書いていこうと思います。

そして、この記事の目的は、今回のばくたん。で自分の感情や考えに生じた変化を整理することです。

2.本題の前に、去年の振り返り

 私は去年のばくたんにも参加し、そのときの感想をnoteとして残した。それが下の記事。

 いま読んでも当時の感情がありありと思い出せ、自分の考えを図示してうまく整理できたのと同時に、私の考えを理解してくれる人がこの世に存在することがわかったので、書いてよかったなと思う。ただ、全体的にちょっと暗かったかも。ちなみに、この記事を書いてから3ヶ月間くらいは人の顔に泥を塗ったような罪悪感に駆られ、ゆびきりをつたえてを聴くたびに自責の念に苛まれていた。

 それはさておき、今年のばくたんや去年のばくたんからの間を見ていて、私の解釈はある程度正しかったと感じた。本当に名取は監督という立場であると。直近の振り返り配信において「当たり前のように"ひとり何役"もできて~」と言っていたのはちょっとびっくりしたけど。
 しかし、構造にばかり注目して、心情について考えが及んでいなかった。
 具体的には、去年のばくたんで、名取が引け目を感じていることが前面に押し出されていたが、その理由についてあまり考えていなかった。なんで引け目を感じることがあるんだろう?と、結論からいえば、名取は今まで”不幸”を背負う生き方をしていて、幸せになることに罪悪感があったんだと思う。去年のばくたんは、幸せになる罪悪感を振り切って、不幸なフリを辞める。これからよろしくな!みたいな意味があったんじゃないかな。

 まぁそんなこんなで、考えもまとまり自責の念からも開放された状態で、今年のばくたんを見にいった。

3.今年のばくたん。

 今回のイベントは普通にめっちゃ楽しかった。間違いなく現地でしかできない体験ができたと思う。ただ、同時に少し危うさのようなものを感じて怖いと思う面もあった。それらについて話していこう。

完全な双方向性

 イベント中はすごい一体感を感じた。普段私は、配信ではコメントを全くしないし、そもそもあまりコメント欄を見ていないので声出しはほんのちょっとしかしていなかったが、周りの出す声、飛び交うヤジはまさしく配信の雰囲気そのままだったと思う。声出し禁止・馴れ合い禁止だったからこその衝撃だった。
 でも、あまりにそのまま過ぎて、ああ、ほんとにこういう感じなんだ。と思わなくもなかったし、全然声出しできていない自分が申し訳なってきたりもした。
 そして、あの空間、あの箱には異様な雰囲気があったと思う。 

 あの空間には、完全な双方向性があったのだ。

 普段の配信や今までのばくたんのように、文字に対する返答やペンライトに対する返答ではない、”自分の声”に対しての”声の返答”だ。なんて言えばいいかわからないが、初めての”インターネットではない双方向性”のようなものが存在していた。これは間違いなく現地でしか感じられないものだし、そこにいた全員がその危うさに勘づいていただろう。

愛の競争

 私はその異様な雰囲気を感じ、それと同時に、私が名取をどれだけ推しているか、愛しているかの競争の舞台に立たされていることに気がついた。
 みなグッズを買い、コラボフードを食べ、プレゼントを送り、ペンライトで感情を表現し、めいいっぱいの自分の声で名取に愛を伝える。もとよりそんな場所だったが、会場の雰囲気、そしてあの箱のサイズが妙に生々しかったことが相まって、その空間が競争の舞台であることを意識せざるを得なかった。
 そのとき私には、名取を好きだという自信がなかった。なぜなら、私は名取の不幸な面を知って好きになったからだ。具体的にはある考察要素動画を見て、グッと引き込まれてそのままの勢いで見ている。一生モンダイナイトリッパー!を聴いているし、去年のばくたんも引きずっている。要は、不幸な名取が好きだったのだ。みんなが名取の幸福を望んでいる中、私は心から望めていない、愛の競争のスタートラインに立つことすら許されていない。そんな場所に立っていることに罪の意識を感じた。
 そうして私は完全に疲れてしまった。人生初の推し疲れかもしれない。私は会場の雰囲気が配信の雰囲気そのままだと感じた。すなわち、気づかなかっただけで普段の配信でも競争は行われていたということだ。まぁVtuberってそんなもんよなと思いつつ数日が経った。

双方向性は毒か薬か

 結果的には、私にとって完全な双方向性空間は毒だった。
 しかし、その毒にも慣れ、推し疲れも取れてきた頃、名取の振り返り配信があった。それを見てみると、

 なんか、いつもよりめちゃくちゃおもしろい!

 自分でもびっくりした。なんでこんな面白いんだ。こころなしかコメント欄も生き生きしているように感じた。そしてなぜ面白くなったのか考えるようになった。

 私の結論としては、今回のばくたんは、配信をみること・コメントをすることに『甲斐』を与えたのではないかと思う。
 今までは、所詮文字やペンライトのような間接でのやりとりだったが、ばくたんでは、こちらの声が直接届いていることがはっきりと感じることができた。そのため、届いているという実感を糧にして、普段の配信でも推し甲斐、コメントし甲斐のようなものが生まれたように思う。

 突然持論を語らせてもらうが、私は、何かを推している状態とは、「そのものと、日常と非日常を共有している状態」だと定義している。自分の人生とは別に、サブのラインとして推しとの日常と非日常を置く、そうすることで自分の人生にイベントが用意され、普段の生活も、日常という思い出となり、非日常のイベントがより日常を輝かせるようになる。今回のばくたんはまさに、非日常の経験として重要な意味をもっていた。

 振り返ってみると、あの異様な空間、私にとっては毒だったが、日常を存分に楽しんでいるような、普段からコメントやリプしている人にとっては、もしかしたら薬、もっと言えば薬(やく)のような最高の空間だったのかもしれない。その片鱗を理解できたことに嬉しさと若干の怖さを感じる。

4.まとめ

 今回のばくたんを経て、直後は推し疲れを感じたが、それは成長痛のようなもので、より普段の配信が面白くなった。非常に不思議な体験だったが、何かを推すことの楽しさについて、理解が一歩進んだ気がする。

5.ばくたん。の可能性

 さて、ここからは第二の本題について話していきたいと思います。みなさんは「この記事」を読んだでしょうか。と引用していましたが、消されてしまったようです。私の記事なんかより数百倍も面白く、全然違う観点から書かれていて興味深い。なにより、去年のばくたんの頃には多く見られたのに、今年の他のnoteには無い、ばくたん本編自体に対する考察のnoteであり、非常に貴重で素晴らしい記事だったのですが…。まあそのような記事が存在しました。(私の記事も消すべきかもしれない、言われたら消します)

 正直、この記事内で事件とされている内容に関して、私は全く気にしたことがなかった。Vtuberの成長過程において当然のことだし、そんなものだと受け入れていた。一方で、今回のイベントを見て、なんとなく気付いていないメッセージが込められているような、小さな違和感を覚えていた。物足りなさと言ってもいいかもしれない。
 そんなときこの記事を読んで、ゲキ重感情に少々びっくりはしたが、(お金の問題かどうかはさておき)話の筋についてはだいたい合っているような感じがした。なるほどと思った。確かに、どのような温度感にしろ学生名取の言葉を聞いて、反省はしていなくても(する必要はないのだが)、謝っているように解釈はできるなと。まさに事件に気づかない一般人にはわからない、非常に面白い観点だなと思った。

 そして私は、この記事は正誤に関わらず、存在自体に価値があると感じた。なぜそう感じたかについて説明していこう。

 まず、この記事は全編を通して名取さなの心情について考察する形で書かれている。対して、私の記事はつねに自分の心の動きと考えのみを記述している、というかそう心がけている。ただし今回の私の記事において、この記事を読んでから付け加えた部分が2つある。1つ目は、去年の振り返りにおける名取の心情についての考察部分。2つ目は、自分が名取の不幸な面を見て好きになったという部分。
 1つ目に関しては、そもそも今回の記事の趣旨に関係がないし、完全に他者の心情への考察であり、私のスタンスからすると普段なら書いたとしても残さない。
 2つ目に関しては、明らかに去年のばくたんの記事内で書くべきことだ。それに、別になくても競争に疲れたという意図で理解できるだろうし、読み手に不快感を感じさせるだろう。
 これらはそれぞれ、コンテンツを通して実際に存在する人間の心情をズケズケと考察する行為・現実の人間に対して、嫌いともシャーデンフロイデとも違うが、不幸であってほしいと考えてしまう行為だ。これこそVtuberが現実と想像、3次元と2次元の混ざったような存在であるから起こる、特有の行為・感情であるといえる。私はこのような特有の感覚を味わうために名取を見ていると言っても過言ではない。

 そして、「この記事」は、今回のばくたんには名取からの隠されたメッセージがあることを示した。実際にそうなのかはわからないが、そう考えられるという可能性を示したのだ。私は、正直今回のばくたんからは、ただのVtuberのイベントのような・ただのアイドルを推しているような形になってしまったと考えていた。わかりやすく言えば、Vtuberである・名取である必要性を欠いているように感じていた。
 しかし、この記事は、存在する人間の心情を考察するというVtuberだからこそできる行為を通して、ばくたんが名取の心の機微を反映している場という可能性を提示した。これは、Vtuberを見る意義、名取を見る意義において重要な価値があると思う。なぜなら、普段の1年間の活動で感じたことを単独イベントという形で暗にフィードバックを受けられるようなVtuberは、唯一無二、名取だけだからだ。
 この記事はそのような、ばくたんの可能性を示していると感じた。私はてっきり去年のばくたんによって、中の人のレイヤーがばくたんから完全に消え去ってしまったと考えていた。しかし、この記事はまだ残っているという可能性、そう考えられるという側面を提示してくれた。その点で、読んで良かったなと思う。そして私もそう思われるような記事を書きたい。

 今回はここまで、最後まで読んでくれてありがとうございます。


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