痛い人はもうたくさん

「声を上げろ」

が成功体験になってしまって、何でも声を上げるのが正しいと思い込んでしまっているリベラル系も多いのかなと思ったり。

例えば安保法制のような違憲状態を無理やり強行採決という状態であれば声を上げて止めさせるのは正しい。

でも、自分が遭ったモラハラの事例としてそれ以前に20:00までにミスがあれば指摘してくださいと断りを入れたにも関わらず、23:00に指摘されたミスに対して、

「訂正するのは明日の朝になります」

と言っても、SNS上にキリバリの事実誤認させるデマをまき散らせられながら一晩中声を上げ続けられたのはこれはもう対話ができない人と言うだけの話になる。

正しく声を上げなければ、リベラルはただの痛い人になってしまう。

なので同じ支持者と言う箱に入れられながら、痛い人と一緒にいるのが辛くなって現在、立憲パートナーズとしての活動は休止しているわけだ。

つい最近ではこれ。

 立憲の京都府連は前原誠二さんも国民民主党に居り、ゼロから旧民主の旗を揚げた。25年間の繋がりの中で国政で野党共闘が始まったからと言って、急に前原さんの陣営との話をちゃぶ台返しするわけにも行かず、共闘を進めて行くのなら本当にデリケートに進めて行かなければならない。

 ところが…

 この申し入れ、何故、オープンにする必要があったのかな?京都新聞まで呼んで。オープンにしたら他の相手(前原陣営)も居るわけだし、オープンにお断りするしかなくなるでしょう。うがった見方をするならご破算にするためにわざわざオープンにして嫌がらせをしているのかなとすら思えてしまう。

 私のような普通に社会生活をして会社同士の大きな商談をしているような立場の人間だと、こんなデリケートな話は十分に話が詰まるまではメディアどころか自社の社員にすら話さない。水面下で非公式の会談を持ちながら徐々に間を詰めていくのが定石である。申し入れをオープンにしましたと言う記事を読み、私は「はぁ?」と呆れた。

 声を上げて、じゃあ、実務的に一緒にやっていくためのわだかまりとかあるいは今後の進め方とか不安に思う部分をひとつひとつ解消していくのは誰なんだってこと。野党共闘と決まったことだからやれと言うなら、それってリベラル系が最も嫌うパターナルなんじゃないの?そういうことを水面下で少しずつ話し合っていくことがリベラルなんだと思うけどね。

 対立しようとして対立しているわけじゃない。しかし、これまで長い対立の中で、私も京都の共産党の方々には胸に手を当てて考えて欲しいんだけど、対立関係にあった私に何もしてこなかった好意的に接していたと言う人ばかりじゃないでしょ?私だって嫌なことされたら嫌いになるし、嫌なことされた人は言うわな。うちのお客さんは当事者やし。当事者で生きてる人は京都で暮らしてるねん。申し入れしました~の前にやることは沢山あると思うけどね。

 けど、まぁ、話にならん人(対話のできない人=痛い人)なんでしょうね…。

 泉さんが悪いと声を上げている人は多分、泉さんよりももっとこんな対話の出来ない人ともお上手にお付き合いできて、水面下のデリケートな合意もうまく進めて持ってきてくれはるんやろなと、その手腕を尊敬してお手並み拝見してますわ。私はムリやわ、こんなことされたら。

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