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ギャルはマインドかファッションか

私は2000年代初頭のギャルファッションが好きだ。
ヤマンバ、ガングロギャルから始まり私の青春は白ギャル、黒ギャル時代だった。

お姉系、サーフ系、B系、姫系、アメカジ系、サーフ系、ロック系…
もっと大きく言えばギャル系、赤文字系(CanCam)、青文字系(Zipper)、ageha系があった。

私はお姉系、ロック系、ageha系と強め白ギャルを貫いていた。
友人もその時の私を振り返ってギャルだった言うが、当時の私は自分のことをギャルだとは思っていなかった。

平成初期のコギャルといえば援助交際で遊び代を稼いでは深夜まで制服のまま駅前などに大人数の仲間とたむろして派閥があり女同士でもタイマンを張っているイメージがあったからだ。

そもそも私は仲間作りが出来なかった、話が噛み合わないのだ。流行りのバライティー番組や芸能人、同じクラスのカップルの話題から、親への不満。
テレビを禁止された生活を中学生までしていたせいで、テレビを見る習慣もなければ、当時から離人感と無感情が強すぎて楽しむことはおろか興味すら湧かなかった。
親に対する不満はもうとうの昔に考え尽くして親という存在に見返りや期待するのを諦めていた。そんな14才が門限を設ける親がウザいなんていう話に付き合う事は苦痛でしかなかった。

次に制服が嫌いだった。制服はブランドではなく足枷だった。制服を着ることで弱者と決めつけられて搾取される立場に立たされる事にうんざりしていた。
誰も本当の私なぞ見ずに、制服を着ている=未成年の女子学生という中身のない虚像に自分の都合の良い理想を中身だと押し付けてくるだけの大人を滑稽だと思っていた。
昼間は偉そうに大人という仮面を被るくせに、裏では下心丸出しで近づいて来るような結局エゴイストしか居ないのだ。

最後に誰かと対立する事を避けていた。学生生活で目立つ事は不利益で、もう家の事で精神力は削がれ、通学と成績の維持で精一杯だった。
誰かの反感を買うのは中学時代に慣れた。私が何かしてもしなくても目付きが悪いだの、他の子とつるまないだの、そんな下らない理由で絡んでくるやつは居るのだ。それにいちいち付き合う義理はないし、私からみたその相手は風景の1つでしかない。

秋口になると家の前に枯葉が落ちている事があるだろう、だが大半の人は1、2枚の枯葉なんてすぐにどっか行くものだと思って足すら止めない。
私からすれば付き合いのないクラスメイトは、その1、2枚の落ち葉だ。それが10枚になろうと20枚になろうと、秋を感じる事はあれど出勤前にそれらを拾い集めゴミ捨て場へと持っていく事なんて私は決してしない。

彼らは怒りや不安、目に見えない感情を吐き出すために、ただただエネルギーの発散場所を求めているにすぎない。
だから、クラスメイトは落ち葉に対して何故そこに居るんだと話しかけているようなものだ。

太宰治や芥川龍之介ならそれすらも情緒溢れる光景かもしれないが。


最後に人に何を言われても自分が決めた道なら気にしない、これが唯一のギャルマインドならば、私はギャルだったのだろう。

ただ、陽キャという意味のギャルではない。
私はノリの悪い陰キャでいいのだ。
人と接するという事は私にとっては消耗を意味しているのだから。

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