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自分の「反出生主義」についてのまとめ

 このnoteアカウントはもともと反出生主義に関する文章を投稿するために開設したものです。上にリンクを貼った記事が最初に公開したものでした。この頃と比べればネット上での反出生主義の知名度も上がりましたかね。

 今では更新告知用に作ったTwitterのほうがメインになり、こちらへの投稿もまれになってしまいました。しかしTwitterは構造上どうしても流れ去るもので、その人の思想スタンス全体を知ることには困難が伴います。私も反出生主義に関心がある人とTwitterで接することが多いのですが、この人はどういう考えなのかなと思われたときに読んでもらうための文章があるといいなと思い、久しぶりに筆を執りました。あくまで現時点でのものですが、私が反出生主義について考えていることをざっくりとまとめてみたいと思います。

反出生主義支持なのか?

 そもそもの立場の話ですが、今のところ私は反出生主義支持と言って問題はないと思います。反出生主義の定義としては、ここではとりあえずできるだけ広くして「子供を生まれさせることはよくないと考える哲学的立場」としておきます。

 それでなぜ「今のところ支持と言って問題はない」という微妙な言い方をしたかというと、それは反出生主義をアイデンティティにしたくないからです。まだ自分もそんなに長く生きてるわけではないですし、この先考えが変わる可能性も十分あると思うので、反出生主義に同意する部分は多いとしても、一定の距離はあったほうがいいかなと思っています。結果として文章が回りくどい言い方になってしまうことも多いですが。

 反出生主義にも幾つかのタイプがあるようですが、私が今どう考えているかを簡潔にまとめると以下のようになります。

  • 人生は本人にとって悪いものになるリスクがある。しかもその可能性は現状小さくないと思われる。

  • 人生が悪いものになる根本的な原因は「我々が苦痛を感じること」である。

  • 生まれれば苦痛は回避できない。一方生まれないことで本人に問題は生じない。

  • 他人に苦痛を感じさせることはよくない。生まれる人間に同意も取っていないのだからなおさらである。

  • よって子供を生まれさせるべきではない。

 ここから各事項を詳しく見ていきたいと思います。

人生のリスク

 反出生主義では「全ての出生は悪い」という説があり、そちらが主流な気もしますが、個人としては納得できていないところです。というのも、人生の良し悪しなんて本人にしかわからないだろうというのが率直な感想だからです。個々の人間がどのような人生を送ったかというのは観測可能で、それをもとにどのくらい豊かな生活をしたか、あるいはどのくらい困難な日々を送ったかを考察することはできるかもしれません。しかし、その人生がよかったか悪かったかというのは、結局はその人の主観が全てで、それを「客観的証拠」からどうこう言うことに意味はないのでは?というのが私見です。

 人生の良し悪しは映画や料理の評価の延長線上にあるものだと思っています。客観的に分析することはできても、最終的にはよい映画か、よい料理かはその人の感想なのです。そのため、生まれたことをその本人がよかったと考える可能性は否定しません。逆にみんなが人生を悪いものと思っているなら、人類は既に滅んでいるか、少なくとも反出生主義はもっとメジャーな思想になっていると思います。

 とはいえ、本人が人生を悪いものとして評価する可能性も十分にあります。人生には様々なリスクがあります。病気、怪我、経済苦、人間関係、事故、犯罪被害、戦争、災害、そして避けられない死。日本に生まれるのは「国ガチャ」としてはかなり幸運な部類だと思いますが、それでもニュースで流れる話題は大半が何らかの「問題」です。小さい時から学校に行って、受験して、就活して、起きてる時間のうち多くを労働に費やして…。「普通の」人生にもそれなりの苦労が伴うことにほとんどの人が同意するでしょう。先述の各種イベントに巻き込まれればさらに困難が積み重なります。

 日本に生まれてもこうなのですから、世界の話はもうする必要もないでしょう。残念ながら、どこに生まれるか、どんな家庭に生まれるかは子供には選べません。もちろん生きていればよいこともあるでしょうが、このような状況で「生まれてこないほうがよかった」という思いに至る人が出るのも当然ですし、それが珍しいケースではないことも想像に難くありません。

根本は苦痛

 なぜ我々の人生が悪いものになりうるのか、その根本的な原因は「苦痛」でしょう。苦痛をなぜ感じるのかと言えば、もともとは生命の存続のためでした。何らかの危機的状況に際して対応するためには、そうせざるをえないほど強い苦痛を感じるほうが適応的でした。生物というのは幸福なものではなく遺伝子を残せたものの形質が後代に伝わります。致命的な状況で諦めて苦しまずに死んだ個体より、強い苦痛を感じどうにか逃れようと抵抗した個体のほうが子孫を残しやすかったのでしょう。

 生存競争に晒されることはほとんどなくなった現代人ですが、苦痛というシステムは生命に直接かかわらない場面でも発揮されてしまいます。人間は社会の中で暮らす生物であり、苦痛を感じてでも繁殖に役立つ優位なポジションを目指そうとする個体の遺伝子が受け継がれやすくなりました。さらには、今生存が脅かされているわけでなくても、先のことを考えて苦痛を感じることも少なくありません。しかも苦痛は相対的なものなので、現代人に石器時代よりよい暮らしをしているぞ!と言ってもつらさを感じなくなるわけではありません。

 苦痛を感じるには2つのものが必要です。それは我々に影響を及ぼす外的原因と、我々の中にある「苦痛を感じる能力」です。苦痛を感じる能力がなければ、何が起こっても動じないでしょう。知らない外国語で罵倒されても「?」で終わるようなものです。しかし残念なことに、人間として生まれた場合、苦痛を感じる能力というのは、個人差があれど誰しもが備えているものです。つまり、生殖とは子供に「苦痛を感じる能力」を与えたうえで、苦痛の原因に事欠かない世界に生み出す行為なのです

「生まれる」「生まれない」の非対称性

 それでも「生まれれば悪いことばかりではなくよいこともあるじゃないか」という反論は考えられます。私も「よいことがある」ことは否定しませんし、先述のように「結果的に本人が生まれてきてよかったと評価する」可能性も否定しません。その前提をふまえ、生まれることと生まれないこと、どちらがよいのかを比較することにします。

 快苦の非対称性の話ではD. ベネターがしているものも参考にしてほしいのですが、私としては結局「生まれて悪かったと思う人はいても、生まれなくて悪かったと思う人はいない」ということだと考えています。生まれて悪かったと思う人はいます。生まれてよかったと思う人もおそらくいます。しかし、生まれなかった場合はそのことで悪かったと思う人も良かったと思う人もいません。当然ながらまだ存在していない人は良い悪いの評価ができないからです。生まれる前は本当に非存在なのか?という疑問があるかもしれませんが、非存在ではないという証拠が示されない限り、どう遡っても受精以前には意識をもった主体は存在しないと考えるのが妥当だと思われます。

 つまり、人間を生まれさせることには加害性が伴うのに対し、生まれさせないことには加害性は伴わないということになります。ここでいう「加害」とは、「本人が悪いと評価する事象を引き起こすこと」だと思ってください。生まれさせたことによって、生まれてこないほうがよかったと考えるほどの苦痛を味わうことになったというのは生殖を通した加害、生まれた側から見れば出生による被害だと言えると考えます。なぜなら苦痛の原因が数多ある世界に苦痛を感じる能力のある主体を生み出したからです。一方で生まれさせなかった場合は、生まれなかった人間は苦痛を感じさせることができないので、加害になりようがないのです。

 断っておきますが、私は子供をつくる人間に悪意があると言いたいわけではありません。むしろ子供には幸せになってほしいと願っている親がほぼすべてだと思います。しかしその思いの一方で、子供が生まれることにより苦痛のリスクにさらされることもまた事実だと思います。

まず加害を避けるべきである

 ここまでの話をふまえたうえで、ここからはなぜ生まれさせないほうがよいかという価値判断の話になります。先ほど生まれさせることが「加害」になりうるという説明をしましたが、逆に生まれて(も)よかったと本人が思った場合はそれは加害とは言えなくなります。むしろ感謝されるかもしれません。

 私は、あることをすることでそれがされた相手にとって良いことになるか悪いことになるかわからない場合は、まずは加害にならないようにすべきだと考えます。これは社会常識でもそうだと思われ、相手に迷惑がかかる可能性がある場合、相手の意向がわからないときは行動の前に同意をとるべきだということには多くの人が同意するでしょう。

 なぜそうなのかと言われると理由の説明は難しいのですが、例えるなら「儲かると思ったから君の財産からも投資しておいたよ(※損する可能性もある)」と勝手に資産を動かされたら、実際に儲かるか損するかは関係なく何してるんだと思う感覚でしょうか。喜ぶかもしれないと思ったら同意を得ずに何でもしてくれていいよとは自分は思わないのですが、他の人はどうなんでしょう。

 もちろん生殖に限らずいつも何かをする前に同意がとれるわけではありません。極端な例で言えば、意識を失った人を助けるために、周囲の人々に見られかねない場所で衣服を切って脱がせることが必要な場合があるかもしれません。この場合、助かったとしても本人が裸を見られるくらいなら死なせてほしかったと感じる可能性はありますが、それでも一般的には救命のほうがその人の益になると考えられるので、加害の要素を含みかねない行為でも同意なく行うことが社会的に許容されるでしょう。

 これはその行為をしなかったときの害(死んでしまう)が、した場合(服を脱がされる)より十分に大きい可能性が高い場合の話だと言えます。我々はこの社会で、何かを勝手にされることを全く許容しないわけにはいかないでしょう。これはこちらから誰かに同意をえず何かをする場面も多々あるため、お互いある程度の自由を許容することで折り合えるからです。しかし出生に関してはそうではありません。まだ生まれていない人間は生まれないことで何も不利益を被らないだけでなく、我々に同意なく何かをすることで利益を得ることもないからです。

結論

 ここまで、私が子供を生まれさせるべきではないと考える理由を、順を追って見てきました。もう一度まとめると、子供は生まれることを原因として様々な苦痛に直面する無視できないリスクがあり、一方で生まれないことには何の問題もない、それなのに同意もとれない状況で加害になりかねない行為を一方的に行うことには大きな問題があるのではないか、という話でした。結論はともかく、個々の部分に関しては一般の常識や事実認識に沿っていると思います。

 我々が子供をつくりたいと思うとき、直接的な理由は子供がほしいなどかもしれませんが、もっと実際的な理由としては、社会を維持するための次世代の再生産という面があります。確かに現時点での社会は、有性生殖によって社会の構成員を減らさないことに依存しています。とはいえ社会が維持できなくなって我々が困ったとしても、まだ生まれていない人間たちが同様に困るということは起こりえないのです。生まれてくるまでは何の利害関係もありません。

 しかしそうは言っても強制的に生まれさせられてしまえば、生活をしていかざるをえません。子供の頃は親が面倒を見てくれる場合がほとんどでしょうが、大人になってからは自分で生活すること、そして社会に貢献することが求められます。労働が嫌でも生活をやめることも難しいので、多くの人が生活のために不本意な労働をしています。これは生存を人質に社会の維持に協力させられている状況であり、人間が暮らすためにあるはずの社会に苦しめられていると言っていいでしょう。

 このような世界に子供を生みだすのは、例えるなら寝ている間に拉致されて、起きたらどこかの労働施設に連れてこられており、そこで生産のために労働を強制させられるのと同じようなことなのではないでしょうか。全く無関係のシステムの維持に勝手に巻き込まれて苦痛の伴う生活を強制されるわけですから。もちろん今の仕事や生活にやりがいや生きがいを持っている人の存在は承知していますが、たまたま連れていかれた先で適性のある仕事をできる可能性があったとしても、拉致のうえ労働を強いられるような事態には陥りたくないと思う人が大多数だと思います。

 最後に、ここまで長々と理屈をつけてはみましたが、もう少し感覚的な話をすると、「自分のされたくないことは人にもしないようにする」というのが根本にあるのかもしれません。生まれてこないほうがよかったとまでは思わないにしても、生まれてこなければせずに済んだ苦労のことを考えると、少なくとも生まれなくてもよかったなという感想はあります。客観的に見ればそう大した苦労はしていないのでしょうが、逆に言えば比較的恵まれててもこうなのかと思ってしまいます。生まれる子供の立場に立って想像した場合、私には生まれるほうがよいとは思えませんでした。


 ここまで、私が反出生主義について考えていることの基本の部分を説明してきました。私は哲学について専門的教育を受けたわけでもない素人なので、わかりにくいところや論旨のおかしなところもあったかと思います。とはいえ、こうやってまとめることで、自分の考えも整理できたかなとも思っています。

 もちろん、今回の文章では「子供を生まれさせるべきではないのはなぜか」という点をメインに取り扱いましたので、まだ語るべき点や想定される反論・指摘にどう答えるかについては書ききれませんでした。もう5000字も超えてしまいましたので、それらについてはまた別の機会に書きたいと思います。

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