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記事紹介「反出生主義思考実験 ー ただ一人の医師」

 反出生主義に関する思考実験について書いた記事があったので紹介させていただく。

 内容については上のリンクから読んでいただきたいが、手短にまとめると、「反出生主義でもある年長の医師ひとりと年少者たちからなる村がある。年少者たちは成長し妊娠や出産もするようになるが、医師が反出生主義者のためそれらに関しては不関与を貫き、無知な年少者だけでそれらを行った結果として多くの母子に死や後遺症が発生する。母子を見殺しにするこの医者の態度は反出生主義者として正しいのだろうか?」というものである。

 反出生主義者のこの医師は、年少者たちの性交渉や妊娠に強制的に介入し、それらを防ぐということはしない。しかし一方で、村で起こる妊娠や出産のサポートにも一切携わらない。なぜなら、たとえ母子の命が危ないから仕方なくサポートしたとしても、それは妊娠や出産を事実上助けてくれる存在の出現にほかならず、その後はその医師をあてにして妊娠するケースの発生が危惧されるからだ。だから医師は、彼/女が不関与を貫いた結果として母子の死や障害という結果を招いたとしても、妊娠出産には一切関わらない。

 これは記事中で筆者も書いているところだが、反出生主義者はまず、そういうリスクがあることを承知で子供を作ってしまう年少者が悪いと指摘するだろう。この医師は強制的に介入しないとはいえ、反出生主義の考えくらいは説明していてもおかしくないし、年少者たちが子供つくるのを止めれば何も問題は起こらないのである。

 とはいえ筆者がこの思考実験で問題にしているのはこの反出生主義の医師のほうの正しさだ。医師は反出生主義に基づき妊娠出産への不干渉の立場だが、その結果母子が危険に晒されている。反出生主義的には、妊娠出産への援助をすると消極的にではあるがそれらを促進してしまうため、一切援助をしないというのは間違いではないように思えるが、しかしそのせいで救えたのに見殺しにされた命が発生してしまう。

 元記事の最後は「さて、この反出生主義の医師は、反出生主義『者』として正しいのだろうか」と締めくくられるのだが、これには個人的には「反出生主義の前に人として正しいのか」というニュアンスも感じた。


 さてここからは私のコメントになるが、この医師が母子の命の危機にも妊娠出産に関わらないというのは反出生主義者として間違いとは言えないだろう。悪いのはリスクを承知で子供をつくるほうで、それを救うことでより多くの出生が発生してしまうという懸念は妥当だろう。

 その上で、この医師にはふたつの進む方向があるように思う。ひとつ、命の危険がある場合は、妊娠出産に関係する場合でもとりあえずは人命の救助を優先する。そしてもうひとつ、より強く反出生主義を推進するため、年少者たちの性交渉や妊娠に積極的に介入する。もっともこれらは必ずしも両立できないわけではないだろうが。

 ひとつめ、人命の危機では反出生主義をとりあえず棚上げする場合。そうすれば医師は母子の命を救ったり、後遺症を防いだりすることができる。母親はともかく、子供のほうはその村の状況や出産のリスクなどを全く知らないわけで、何ら責められるところはない。反出生主義では子供に害を与えないために産まないという選択をするのだが、現実に害を受ける可能性がある子供がいる状況でそれを見殺しにするというのは反出生主義の前にどうなんだという話になってしまう。死んでしまうならまだ苦しみも少ないが、出産時のトラブルで一生後遺症が残ってしまう場合などはどうだろう。

 しかしこの場合、医師が懸念するようにこの村では実質的に妊娠出産のサポートが得られる状況になり、リスクが大幅に下がってしまう。それにより子供をもつことへのハードルが下がり、医師の反出生主義という信念とは逆の方向へ進みかねない。全体として見れば、医師が何人かの母子を救ったことで、救わなかったより多くの出生が起きる可能性が出てくる。最終的に誰も子供をつくらないことを理想とするならば、命の危機でも妊娠出産の援助になるようなことをしないというのは合理的である。

 そしてふたつめ、そもそも妊娠出産の状況が発生するから命を救うか思想を優先するかのジレンマになってしまうのだから、そうならないように年少者たちの性交渉に積極的に介入し、妊娠を防ごうとする方法。さらには妊娠発覚時には中絶を積極的にすることも考えられる。この話でなぜ医師が反出生主義を積極的に広めようとしていないのかは不明だが、「反出生主義は、暴力的手段で世の妊娠出産を阻止することはしない、としている。」との記述があるので、要は平和的な方法での反出生主義の普及には限界があるという前提なのだろう。

 この村に反出生主義者はこの医師ひとりだけだとすれば、文字通りの暴力で村を支配し年少者たちの生殖を止めるというのは不可能だろう。とはいえ医師及び年長者としての立場を使えば、年少者たちを説得し自発的に反出生主義に転向してもらう以外の方法もあるかもしれない。例えば、何らかの手段で年少者たちを去勢状態にしてしまうとか、あるいは妊娠のリスクのある性交渉をすることに大きなディスインセンティブを課すとか。年少者たちの無知を利用して、だますような形ででも出生を防ぐことができる可能性はある。

 ただ、これは反出生主義者として許される反出生主義の実現方法なのかという問題は出てくるだろう。この医師が妊娠後のトラブル同様に妊娠すること自体にも不干渉なのは、反出生主義者として「暴力的な」――この場合はもう少し広義に、本人の思想とは関係なく強制的な方法で、くらいの意味で――妊娠出産の阻止は反出生主義に反するとしてのことなのかもしれない。加害を良しとしない反出生主義は、その加害回避の原則を厳格に守ってしまうと子供をもちたい人の生殖を止めることができないし、あるいは人口の再生産によって維持されている社会を破綻させるような少子化を起こすことができなくなってしまう。

 こちらのほうもひとつめと同じく、反出生主義の基盤を厳格に守って反出生主義の実現を遠ざけるか、あるいは何らかの「加害」を反出生主義の実現のためやむを得ないものとして許容するかの選択を迫られることになる。


 現実でこの村のように反出生主義が母子の命を守る障害になってしまう事態は、今のところ起こりえないだろう。反出生主義者は社会のごく一部にすぎず、妊娠出産を援助できるポジションを独占しているわけではない。むしろそういう分野には反出生主義者はいないであろう。

 とはいえ今後、反出生主義がよりメジャーな思想になればそういう状況も起こりうる。仮に反出生主義の政権が誕生した場合、妊娠出産への援助はどういう扱いになるだろうか。いきなり生殖を禁止したり中絶を強制したりということは少なくとも民主主義政権ではできないし、そもそもそういう強制力のある介入が反出生主義的に許されるのかという議論が発生するだろう。その間にも人間は生まれるし、命が危険に晒されるケースも発生するはずだ。そういうときに反出生主義政権にとっては、生殖の抑制のためにはそれらを見殺しにするインセンティブがある一方、思想のために国民を見殺しにするような国家の振る舞いが問題視されるのは避けられない。

 根本的には反出生主義を現実に接続するためにどれくらい「加害」――この医師のような「消極的な加害」も含め――が許容されるのかという話になってくる。反出生主義を実現しようとすると、例えばこの思考事件においての、危険な状態の母子を救えるのに見殺しにするといった、人間としてどうなんだ、さらには反出生主義の原則と矛盾しているのではないかというような問題に直面せざるをえない。早期の反出生主義完成のため加害を覚悟で積極的に他者の生殖に干渉していくのか、あるいは反出生主義の実現が遅くなろうとも平和的な説得にこだわるのか、反出生主義の実現を真剣に考えるのであればいずれ選択を迫られるはずである。

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