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同意不在論、唐揚げとレモン

(2)【同意不在論】生まれることへの同意が取れていないのに子供に出生を強制するのは間違っている。
問題点→出生以前には同意主体が存在しない。同意主体が存在するときに同意を得ずに何かを強制するのは間違いになり得るが、その論理は同意主体が存在しないときには適用できない。この論理からは、子供への出生の強制が間違っているとは言えないことが導かれると同時に、子供への非出生の強制が間違っているとも言えないことが導かれる。要するに同意不在論は何の結論も導けない。
(森岡正博氏のツイート添付画像より引用
https://twitter.com/Sukuitohananika/status/1323115014966837248)

 先日反出生主義についての本を出版された森岡正博氏がツイートで「出生は普遍的に悪いとするタイプの反出生主義の問題点について」まとめていたが、今回はそのうちの(2)同意不在論について少し。

 同意不在論というのは、害をもたらす、あるいはそのリスクがある出生を本人の同意なく他人(生まれてくる子供)に強制するのは間違いであるという反出生主義の主張である。他人に害をもたらすこと、あるいはそのリスクがあることをするには、事前に被害を受ける可能性のある人の同意を採るべきであるというのが一般的な社会通念であろうが、しかし出生の場合、生まれてくる子供に出生させてもよいかという同意を取ることはできない。そのため、反出生主義者は出生の害悪・リスクを前提として、その点からも出生をすべきではないと主張するのだ。

 これに対し森岡氏は、「同意主体が存在しないので、同意を得ずに何かを強制することを間違いとする論理が成り立たない」としている。この指摘は出生が普遍的に悪いか、あるいはリスクがあるとするに留めるかに関係ないものだろう。

 ここで例え話をひとつ。あなたは友人と居酒屋に来ているとする。友人が電話で席を立っているときに頼んでいた唐揚げが来た。あなたはよかれと思って、唐揚げにレモンをかけた。ところが電話から帰ってきた友人は、唐揚げにレモンがかけられていたことにがっかりしてしまった。あなたは唐揚げにレモンをかけるべきだったか?

 ここでの同意主体は友人であり、強制する内容は「唐揚げにレモンをかける」ことである。友人は電話に出るために席を外しており、この世界には存在しているが、同意をとれる状況にはない。

 多くの人は、あなたは友人が電話から帰ってくるまで待つべきであった、あるいはレモンをかけるのは自分の取る分だけにすべきであったという答えになるのではないか。唐揚げにレモンをかけるかどうかは人によって好みの分かれるところであり、友人が「レモンかける派」ということが事前にわかっていれば別であるが、どちらかわからないならば友人に聞いてからにするほうがよかったであろう。そのうち電話からは帰ってくるのだから。

 この話と出生の共通点は
①相手に同意を取れる状況にない
②相手が行為をどう評価するかわからない、評価しない場合もある
③行為は不可逆である
④行為をしなかったとしても問題はない

が挙げられる。

 友人は今は電話中で同意をとれないが、そのうちに帰ってきて、勝手に唐揚げにレモンをかけられていたことに何らかの評価を下すであろう。出生も同様に、妊娠・出産する前には同意はとれないが、子供を産んだ場合、生まれた子供は産んだことに対し何らかの評価を下すことができる。評価が分かれるのは、重みは違えど出生も唐揚げのレモンも同じであろう。また、唐揚げにレモンをかけることと同様、出生もなかった状態に戻すことはできない。そして、唐揚げにレモンをかけなかった場合、友人が返ってきてからレモンをかけるか聞けばいいし(レモンかけといてよ!と怒るのは友人の我儘と言われるだろう)、出生の場合は生まれなかった子供が「生まれたかったのに!」と言うことはない(はず)ので、どちらも行為をしないことにより起こる問題はない。

 同意が取れないから同意を取らなくてよいというのは、程度の問題はあれ一般的にあまり通用する言い分ではないように思う。唐揚げのレモン程度であればがっかりくらいで済むだろうが、勝手に財産を投資しましたなどとなると事の次第では賠償問題になるだろう。出生の場合は同意がとれなくても、産んだことによりその人間は存在させられるのだから、産むか産まないかを産む側(両親)の好きに決めて良いとするのは、生まれる側のことを無視した主張ではないか、というのが反出生主義で同意の不在が問題とされる理由であろう

 とはいえ、これ(同意不在論)だけで反出生主義が成り立つわけではない。生まれる前の子供に人生を強制することの同意が取れないということを前提として、生まれる側にとって何がよいのか考えましょう、というのが反出生主義の考え方であるように思う。そのため、この話は森岡氏の「この論理からは、子供への出生の強制が間違っているとは言えないことが導かれると同時に、子供への非出生の強制が間違っているとも言えないことが導かれる」というのを完全に否定するものではない。ただ同意主体がその行為の始まる時点(出生であれば受精の段階)で存在しないことは、その行為によって同意主体が存在させられる以上、何をやってもいいというわけではないのではないか、というのが今回書きたかったことである。

 出生の場合、その行為自体が同意主体を発生させる行為なのがややこしいところである。唐揚げにレモンをかけなくても友人は電話から帰ってくるが、出生をしなかった場合、そもそも子供が生まれてこない。あのたとえ話と出生は、同意は取れないけど存在はしているのか、それとも同意もとれないし存在もしていないけど、行為の結果存在することになるかという点で大きく異なっている。

 森岡氏は「子供への非出生の強制」についても言及しているが、反出生主義では出生の強制と非出生の強制を非対称なものとしている。生まれる場合は強制された主体が存在するが、生まれなかった場合は強制される主体は存在しないからである。この話は出生の非対称性の話になるだろうし、ここでは深入りはしない。

 反論なのかなんなのか微妙な話になってしまったが、同意不在論それだけで反出生主義を導けないとしても、同意不在論は反出生主義の論理が成り立った場合はそれを補強するものになるのではないかというのが今のところの私の意見である。ただ同意不在論は反出生主義の本丸ではないので、反出生主義の論理の正当性については他の論点を検討する必要があるだろう。

 先ほども紹介したが、森岡氏の反出生主義に関する書籍『生まれてこないほうが良かったのか?』が発売中である。私は反出生主義についてnoteでいろいろ書いてはいるものの、哲学に関しては正直なところ素人なので、これ読んで勉強します(先ほど注文しました)。


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