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反出生主義の実現における2つの課題①

 タイトルの通りの話を少しだけ。

 反出生主義の正しさの話は一旦おいておくとして、反出生主義を実現するための課題は大きく分けると2つあるだろう。すなわち、

①子供を新たに生まれさせない
②子供が生まれない状態で社会を維持する

である。①を達成することが反出生主義の実現のためには不可欠であるが、しかしその状態で社会を維持することができなければ、反出生主義がイニシアティブを得たところでいずれそれを失ってしまうだろう。

 このテキストでは①について取り上げる。

 そもそもの前提として、現在日本は少子化傾向にあり、最近はその傾向が加速している。つまり、今の少子化社会に出生数を減らすヒントがある

 日本でもよく福祉国家の優等生として取り上げられるフィンランドであるが、2019年の合計出生率は統計開始以来最低の1.35になった。手厚い産児・育児支援で知られるシンガポールも2019年の合計出生率は1.14である。多くの先進国が出生率2を割っており、今も高い出生率をキープしているのは発展途上国、あるいは先進国の中でもアーミッシュやユダヤ教の超正統派などの伝統的な社会生活を営む集団である。先ほどのシンガポール(2019年)においてもイスラーム主体のマレー系の出生率が1.8なのに対し、中国系とインド系のそれは0.99である。

 このことは、少子化を解決するための解決策としてよく唱えられる「女性の社会進出と子育ての両立支援」は少子化対策としてあまり効果がないのではないかという疑問を提起する。それよりはむしろ旧来の、先進国の価値観からすれば「男尊女卑」とみなされるような社会構造のほうが子供の数は増えるのだろう。

 しかし少子化の原因が「先進的な価値観」そのものだったとして、果たして人々はそこから少子化阻止のためにその価値観を軌道修正できるだろうか?男女平等や女性の社会進出、自由恋愛や子供をつくるかどうかの選択に制約がかけられることになる。当然それらを前提として生活をしてきた人たちは反発するだろう。

 それなら反出生主義としては、今の価値観の方向性を変える必要はない。子供をつくることは人生の必須条件ではなく個人の選択であるし、女性の社会進出は重要だし、子供の成長のためにコストを投じるのは当然のことである、という社会の認識のままでいい。反出生主義は我々が普段生活の中で従っている諸原則から導き出されるものである。普通の人が程々にしか考えていないことを突き詰めていくと反出生主義にたどり着く。

 反出生主義を実現するために全ての人が反出生主義を理解しそれに賛同する必要はない。もちろんそうなれば反出生主義者にとっては理想的だが、反出生主義の目的は新たな出生を回避することで、全ての人が反出生主義を理解することではない。どういう理由だろうと子供はつくらないという選択をするのであれば、その理由を問う必要はないであろう。

  大きな問題は反出生主義に賛同しない人たちの生殖をどうするかである。反出生主義では既に生まれた人間が子供をつくる自由よりもまだ生まれていない人間の生まれない権利が優先される。すなわち反出生主義の実現のためには反出生主義に賛同しない人間の生殖の阻止をせざるをえない可能性が高い。

 もっとも現状ではそれは事実上不可能である。反出生主義者にできるのは言論による普及活動くらいであり、人々の生殖の現場に踏み込んだり生殖した人にペナルティを与えたりすることはできない。そもそも反出生主義者はまだマイノリティであり、その言論が影響力を得る段階にすら至っていない。

 この問題を解決するためには、反出生主義実現を目標とする政権の誕生を待たなければならない。ただ仮にそれが現実のものとなり、妊娠が違法となったところで、それだけで生殖が皆無になるはずがない。

 そうなると、既に妊娠してしまった場合をどうするかという問題が起こる。中絶に対する考え方が反出生主義者の間で統一されているか、私には確かなことは言えない。ベネターは中絶を「勧告」する立場らしいが、行政の一環としての中絶政策に賛同するかはわからない。中絶を「殺人」と考えて、他人の命を勝手に奪うのはよくないので反対という立場もあるだろうし、一方では、まだ未発達な胎児のうちに生命を終わらせることで、その後の人生における苦痛を経験せずに済むので中絶すべきだという考えもあるであろう。

 反出生主義は他人に苦痛を与えることを原則として悪とする前提に成り立つものなので、胎児が中絶により苦痛を覚えるのであれば反対する反出生主義者もいるだろう。しかし、もし胎児が苦痛を全く知覚できない中絶の方法が開発されたら?胎児本人は何もわからないまま死ぬので、それなら生まれるよりはよいと中絶反対派の反出生主義者も考えを変えるかもしれない。

 そうすると、生まれた後の乳幼児をも対象とすべきではないかという議論が出てくるだろう。本人が知覚できないなら中絶してよいのだとするならば、乳幼児、あるいはそれ以上の年齢の人間の「殺人」すら認められるのではないかという話になってくる。それは他人に危害を加える「殺人」だとして認めない人もいるだろうし、一方では知覚できないのなら危害も認識できないとして、既に生まれた乳幼児にも胎児と同じ原則を適用し人生を早期終了させるのが本人のためだとする人もいるだろう。ある程度以上の年齢の場合は、自分が殺されたことを知覚できなくても、そうやって自分の命が奪われる可能性があると認識すること自体が苦痛となるため、正当化は難しいだろうが。

 また、親になる可能性のある大人対象の政策としては、各種避妊手段や偶発的な妊娠の対処の廉価化・充実化などがなされることになるだろう。性交渉事態を禁止することは不可能であろうし、その前提でいかに妊娠・出生を防ぐかが課題となる。そして、それでも妊娠を繰り返す人々はいるだろうが、彼らの生殖能力を奪う、あるいは異性から隔離するといった措置が許されるのかは問題となりそうだ。

 いずれにせよ、反出生主義を言論で普及させることには限界があるだろう。反出生主義の実現のため全ての出生を阻止するためには、「権力」に基づいたシステムの構築は不可避であると思われる

 ここまで新たな出生をどう防ぐか、その道筋や課題についてざっと検討したが、実現可能性という面はとりあえず無視していることを忘れてはならない。特に後半は反出生主義政権の誕生を前提とした話であるが、今の日本に、あるいはどこの国にも全くそのような気配はなく、夢物語と言われても仕方がない。

 ただ、反出生主義を実現するとなるとどういう課題や論点が出てくるのかを考えないことには、反出生主義の実現は夢のまた夢である。いくら机上で正しさを証明したところで、実現できなければ意味がない。反出生主義の達成への道筋というテーマは、その論理を支持するのであれば、もっと議論されてもいいはずである。

 そのうち②子供が生まれない状態で社会を維持するについても今回と同様の検討をしたい。

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