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雑記

 随分前回の投稿から経つのに、特に書きたいこともないので雑記のようなものを。

 このnoteでは主に反出生主義と呼ばれる思想関連のことをメインに取り扱ってきたが、ひととおりのことは書いてしまったような気分に勝手になってしまっている。今は題材も思いつかないし、他にすることもあるので、まあ、また気が向いたときに書けばいいかと思っている。(比較的)最近の投稿は何らかの外部刺激があったときに出力されているので、何か言及したいトピックが発生すれば書く気になるのだろう。

 更新も途絶え途絶えの弊noteも、ダッシュボードを見ると過去記事を読んでくださっている方もいるようで、ありがたく思う。時々Twitterに、過去の投稿の引用ツイートの通知が届くので、自分でも見に行っているのだが、読み返しながらああこんなこと書いてたのかと思っている。少し前の自分が何を考えていたのかわかるのも、貴重な記録だろう。Twitterでは断片的な出力にしかならないので、ある程度まとまった形で思考を残しておくのはいいのかもしれない。もっともそのTwitterも、最近は言及したいこともあまりなく、見てるだけになりがちなのだが。

 コロナ禍が始まってもう2年経つが、一向に終わる気配は見えない。あるいは我々が強い意志で「終わり」だと宣言しなければ、終わらない類の現象にも思える。多分感染したところで苦しい思いはすれど死にはしないだろうと思うので、そこまで不安かと言われると微妙なところではあるが、後遺症があるという話は結局どうなったんだろうか。

 それでも政府としては(高齢化国家であるわが国では特に)感染拡大を見過ごすわけにもいかず、その結果学生はあると思っていたイベントや行事の「自粛」を余儀なくされる場合も多いらしく、たいへん不憫に思う。この国はもともと「長期的によくなる」みたいな希望はあまりなかったように思うが、「数か月先の予定もどうなるかわからない」というのはまた別の閉塞感がある。このことが若い世代の「未来への信頼感」を損ないかねないのではないかとも思っている。すなわち、計画を立ててその実行のためにいろいろしても、自分たちにはどうしようもない理由で計画断念を強いられることが続いた場合、何か計画を立てることが馬鹿らしくなりはしないかということである。

 出生によって子供が背負わされるリスクに比べれば、コロナのリスクもそこまで大きくはないだろう(というか生まれなければ病気の心配も何もない)と思うので、そういう自粛の風潮もちょっとどうなんですかという気もするのだが、感染したくないと思うのが普通だろうし、今後それがいつか変わるのかなあと思っている。そういえば出生数とかどうなってるんですかね。

 まとまりのない文章になったが、今日はこれくらいで。それでは、また。

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