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「香山リカ×森岡正博『反出生主義』対談」についての雑感

 先月末に出た香山リカ、森岡正博両氏による「反出生主義」についての対談についてつらつらと。前後編があって全編4ページ、後編3ページに分かれているので、ページを追いながら感想など書きます。

前編①

 まず反出生主義とは何か、という話です。「反出生主義の定義はまだ世界的にも定まってないのですが」という前置きがありつつ、森岡氏が著書でも書かれていたように、反出生主義=出生否定+出産否定として紹介されます。ここのところは人によって意見が分かれるところでしょうね。先日設立された「無生殖協会」はここで言う出産否定のほうのみを反出生主義とすることを主張しているようですし。

「そもそも人が生まれてくること自体が良くないものである」というのも人によって考えが分かれるかもしれません。確かにベネターの理論に基づくとそうなるのですが、反出生主義者にも、全ての出生が良くない(本人の評価にかかわらず)とする人と、良いか悪いかは本人の評価次第だが、悪いものになる可能性が十分ある、とするに留める人がいるように思います(私は後者です)。

 先日YouTubeで行われた森岡氏参加の読書会では、「反出生主義」という言葉が日本語に訳された頃には誕生否定がそのメインだったという話があったように思いますが、この辺り、森岡氏の言う通り、「定義がまだ定まっていない」んでしょうね。

 個人的には反出生主義は生殖否定のほうに重心があると思う派なんですが、ベネターの本のタイトルも「生まれてこないほうが良かった」ですし、そもそも「生まれて悪かった」ということが普遍的にではないにしろ言えないと生殖否定もできないような気がするので、誕生否定が反出生主義に全く含まれないとまでは言えないかなと。無生殖協会さんのほうはベネターの議論についてはどういう立場なんでしょうか。

前編②

 ここで取り上げられている「生ましめんかな」という詩は初めて知りました。今はもう反出生主義を知っているので、あー…という感じになってしまうのですが、もっと幼い頃に読んでいたら感動したのでしょうかね。確かに感動的にも語られることの多い「生むこと、産まれること」を否定しに行ったというのはインパクトがあったでしょう。

リプロダクティブライツと反出生主義が衝突するというのはその通りだと思います。Twitterでの「子持ちフェミと反出生フェミの争い」って本当にあるんですかね。

前編③

 ②からの「誰が産めと頼んだ」と「生まれないほうが良かった」の話ですが、そういう考えもあるのかーという感じでした。「誰が産めと頼んだ」というのを「愛されの確認欲求」と捉えられるの、反出生主義者は割と嫌がりそうなイメージがありますが、あくまで勝手な想像。

 それでその後の、「なぜ私を産んだんだ」と親に問えるのかという話。確かに親は根本的には受精をさせただけなので、私の実存が全て親によるものではないというの、わからないはないのですが、一方で親が生まれさせなければ「私」が存在しなかったというのもまた事実ですよね。これは「なぜ産んだのか」という質問の捉え方の問題で、自分の苦しみが全て親によるものではないにせよ、その原因となる行為をなぜしたのかという問いは親にするしかないのではないかなと思いました。

 それを受ければ、「本来はこうした「なぜ私は生まれたのか」といった話は、人間を超えた、宗教が扱ってきた次元を取り込まなくては本質的な議論ができない」というのも反出生主義者はあまり賛同しないように思います。神のような存在を認めなければ、むしろ宗教的なものを抜きにして初めて「本質的な議論」になると言うでしょう。この辺りはもう少し詳しく知りたいところです。

「人が誰もいなくなった後の地球」の話は、どういう意味だったのかいまいちわからなかったです。自分が人類後の地球とかあまり興味ないからかな。未来生物みたいな思弁進化ものは割と好きですが。

前編④

「無痛文明」が反出生主義やそれを取り巻く周辺と相性がいいというのは確かになと思いました。痛みをなくす方向が良いとされて現代文明自体がそちらに向かっている、それなら反出生主義に(コアなところでなくても)賛同する人は増えるでしょうね。

 人生の針のひと突きの痛みも許せないという「針のひと突き論」、個人的にはごく僅かな痛みで人生が無意味だと思うという実感は別にないのですが、とはいえ痛みというものの相対性を考えれば、針のひと突きしか痛みがなかったとして、それが果たして「針のひと突き」のような些細なものと感じられるのかな?という疑問はあります。

 例えば、日本で外食するときに異物が入っていたら大抵の人は不快だと思うんですが、綺麗な水も手に入らない貧しい地域の人たちからすれば十分ごちそうだと思います。ただそれでも我々は、些細な異物でも結構不快なわけで、同じことが針のひと突き論にも言えるのかなと。もっともこれこそが「無痛文明」なんでしょうが。苦痛をなくそうとする限り潔癖ラディカリズム的にならざるを得ないという。

後編①

 森岡氏自身も含めての誕生否定の話で「人の役に立てないのなら生きていても意味がない」という人がこのご時世多いという話を香山氏がされてます。ちょっと話が違うかもしれませんが、反出生主義は生まれてきた原因や責任をある意味親に丸投げするようなものなので「役に立てないなら…」的な誕生否定からはむしろ遠ざかるような気がします。出生被害者なんだから生きてて悪いなんてことはないだろう、と言うような。

後編②

 後編は自死に向き合う話が多めですね。「自分の人生の意味付けや生きる支えのために子供作るんじゃねーよ」という反出生主義者からの突っ込みが入りそうな箇所もありますが。

 前編で「産むこと・生まれること」の聖域と反出生主義という話がありましたが、文中にあるように「死んではいけない」というのも確かに聖域とされています。香山氏は精神科医としては患者さんが死なないようにしないといけないわけで、難しい立場だとは思いますが。

 日本の医療(さらには社会)が基本的に自死を認めていないので、「死にたい」というのもしばしば「生きたいの裏返し」として扱われがちなんですよね。森岡氏の言う通り、哲学的に「死んでもいい」というのを否定する論理なんてないんですから。まあ「じゃあ死んでもいいですよ」と言われる社会が良いかは微妙なところですが、苦しくて「死にたい」人が死ぬために相談できるところがないのはどうなのかなと思います。

 医療やその他の支援でも死ぬことを認めてくれないのなら、自分でどうにかするしかないのでしょう。心療内科にかかる人の「死にたい」は「助けてほしい」の可能性も十分あるとは思いますが、もう諦めて口をつぐんでしまった「死にたい」人も多いと思いますし、突然死んでしまった人もそうだったのかもしれません。

後編③

「生きていくというのは、凍った湖の上を歩いていくようなもの。」のくだりで、確かに自死の話なら、既にそういう状況にある人たちが共に生きようとするひとつの姿勢なのかなと思いましたが、それでも、もうやめたいと思った時に楽に歩みを終えられるようにすべきという話も導けそうだと思いました。

 そしてもうひとつ、生きることをそのように認識するのであれば、他人をそういう状況下に勝手に連れてくるのはOKなのかという反出生主義からの指摘は当然にあるでしょう。もっとも森岡氏は先の著書を見る限り、「出産否定」を否定はしていないようなのですが、この例えから生殖を肯定しようとすると、どういう論になるのでしょうか。この話、せっかく本題の反出生主義の方向に展開できる箇所だったので、自死の文脈に留まってしまったのが惜しかった気がします。

 その後は「生まれてきて良かった」と思えるためには、という誕生肯定の話でまとめに入るようです。ただ最後に出産肯定の話も少しありました。「この世に新しい命を生み出していくという選択をするのであれば、そのときにはその命を、危ないときには支え合えるような社会的な絆の中に産み落としていく責任がある」というのが、薄氷の例えへの森岡氏のアンサーなのでしょうか。

 香山氏の「一点の曇りも、一つの痛みもない人生でなくてはいけないというのは、自分に対してものすごく理想が高いともいえますよね」との発言もありますが、これを肯定するかは反出生主義者でも人によって分かれる、むしろ否定する人のほうが多いように思います。否定する人は、自分の人生の痛みの許容量は人それぞれだが、子供という他者に人生を与えるという話になれば、そういう潔癖ラディカリズム的な立場を取らざるをえない、と言うかもしれません。

 それで、これは医療の話と似ているように思います。どちらも「命」を扱う領域だからです。医療でも、例えば50%の確率でよくなるけど20%の確率でもっと悪い状況になる、みたいな治療法は基本的にとらないと思うし、リスクに関しては本人の意思を尊重しましょうという方針だと思うんですが、ある意味これも同様の「理想の高さ」があるのではないでしょうか。「助けられるだけ命を助けないといけない」みたいな。もちろん医療のほうが現実の患者と向き合う分、足がついているのかもしれませんが。誕生否定の話ならば自分の理想ですが、生殖に関しては痛みを背負うのは他者になります。この辺り、医療に携わる香山氏がどう考えるのか、気になるところです。


 とりあえず最後まで読んで、思ったことを書いてみました。個人的にはこういう形で、反出生主義者ではない人どうしが反出生主義について語るというのも興味深いなあと思いました。中には反出生主義者なら突っ込みが入るんじゃないかという箇所もあったので、この対談に反出生主義者が入ったらどういう議論になるのかなあとか想像してしまいますね。

 余談ですがこの記事、最初がペンギンのひな1羽で始まり、最後が輪になった大人のペンギン数羽の画像で終わります。「反出生主義者はひよっこってことかよ!」と邪推する気持ちもゼロではないですが、文脈としては誕生否定と支えあいみたいな意味なんでしょうね。読み始めはなんでペンギンのひななのかなあと思いましたが、最後の画像につなげてくるあたりは結構好きでした。

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