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「傾斜配分の反出生主義」について

「傾斜配分の反出生主義」とは、全ての人は子供をもつべきではないとしつつも、生まれる子供にとって悪影響となりうる何らかの要素・属性をもつ人は「より子供をもつべきでない」とする思想のことである。しばらく前にTwitterで少々話題になっていたこの思想、どなたが名前を付けたが知らないが、的確なネーミングのように思う。個人的にはこの語はどちらかというと批判的なニュアンスが込められているように感じるし、優生思想と関連付けて批判されることもあるようだ。

「傾斜配分の反出生主義」と呼ばれる考えでは、貧困、病気や障害に関係するかもしれない遺伝的特性など、生まれた子供がそれにより不利益を被ることが予想される要素がある場合、それらを継承する可能性のある生殖は、それらの危険性の薄い生殖に比べてより強く否定される。例えば、貧困家庭は十分な資産・収入のある家庭よりも子供をもつべきではないとされるし、親の遺伝的特性や年齢によって子供が何らかの障害とされる症状を抱える可能性が高いと推測される場合は、普通に比べてより強くその生殖をおこなうべきではないとされる。さらには、この考えに従えば、迫害を受けている属性(ex. 民族、宗教、他のマイノリティ)の場合は子供をもつべきではないより強い理由があることになるのではないか、という指摘も出てくるだろう。

 そもそもこれは「反出生主義」に含まれるのだろうか?まず、「より生まれるべきでない」という日本語自体に違和感がある。反出生主義は全ての生殖を否定する思想であるため、「より生まれるべきでない」「生まれることが比較的許される」というグラデーションはそこにはないはずである。すなわち、「傾斜配分の反出生主義」は反出生主義そのものではない

 ではこれは「優生思想」なのか?そうではないだろう。現代では忘れられがちだが、優生思想の本来の目的は人類の進歩発展である。「傾斜配分の反出生主義」を主張する(とされる)人々は別に「より生まれるべきでない子供たち」の出生を防ぐことで人類の進歩を促したいわけではない。彼らは人生に悪影響を及ぼしかねない要因の多い出生を重点的に批判することで、不幸せな人生を送らされる子供を減らしたいと思っていることだろう。

 このような考えを優生思想と対置して「幸生思想」とここでは呼ぶことにしよう。優生思想が(人類の進歩のために)優れた人間が多く生まれるようにしようとする思想なのに対し、幸生思想は幸せになれる人間が多く生まれるようにしよう、裏を返せば不幸になりかねない人間が生まれることは予め防いだほうがよいとする思想である。現代で優生思想と呼ばれるものは概ね幸生思想、あるいは親の希望を叶えるための選択であろうと思っている。優生思想は人類の進歩を目的とするため、子供の全体数を減らそうとはしない。

 そして反出生主義は幸生思想の極に位置付けることができるのではないだろうか。幸生思想の「どこまで幸せになれそうな人間なら生まれてもよいか、どこまでリスクを許容するか」のグラデーションを厳しくしていけば、最終的には「そもそも人生はすべて良くないものである」「どんな人生にも悪いものになるリスクは否定できない」として、全ての出生が阻止すべきものとなる。これが反出生主義である。

 なぜこれが優生思想と混同されてしまうかというと、多くの場合、優生思想と幸生思想で生まれることの良い、悪いが一致してしまうためである。人類の進歩に寄与するような社会適応度の高い人間のほうが、いろいろな豊かさを得られて幸福に近づきやすいだろう。一方で優生思想で敬遠されるような人間は、社会で生きづらさを抱え、幸せになれない確率も高いと思われる。優生思想の評価基準は客観であり幸生思想の評価基準は主観であるため、両者が必ずしも一致するわけではないが、これまでの淘汰の過程を考えれば両者の評価が同じような傾向になることは自然なことであろう。人間社会からの評価と自分の幸福度が共に上下するほうが、子孫を残すのに有利だったと考えられる。

 話を「傾斜配分の反出生主義」に戻すと、この思想は幸生思想の反出生主義一歩手前くらいに置くことができるのではないだろうか。突き詰めて考えれば全ての生殖は否定されるが、中でも生まれる子供に高いリスクを負わせる生殖は、幸生思想が反出生主義に至る前段階で批判すべきものとされる、と考えられる。子供にとってよりリスクの高い生殖は反出生主義を持ち出すまでもなくよろしくない、というわけである。

 しかし「傾斜配分の反出生主義」が反出生主義の一歩手前であったとしても、生殖の否定に「傾斜配分」をかけているうちは反出生主義そのものとは言えない。それではなぜ「傾斜配分の反出生主義」という「反出生主義」と名乗りつつも反出生主義そのものではない思想が存在することになったのだろうか。

 私は、それには反出生主義が「一律」であるが故の「実行力の弱さ」が関係しているのではないかと考える。すなわち全ての生殖を否定を理論的に否定したところで、その実現、全ての生殖の阻止が現段階では遠い目標にしかなりえないということである。それで、生殖の中でも子供が高いリスクに晒されると思われるところから重点的にアプローチしようというのである。

 現時点で反出生主義は無力である。いくら理論的に生殖がよくないことを説明したところで、人々が子供をつくるのを止めることなど基本的にはできない。しかし、それでも影響力を及ぼす可能性があるとすれば、子供をつくることに不安を覚える人々、自分が子供をつくることは生まれる子供にとってはよくないことなのではないかと考える心当たりがある人々に対してであろう。

 おそらく反出生主義を一番受容しやすいのは、そもそも子供をもつつもりのない、あるいは薄い人たちであろう。反出生主義と関係ない別の理由からであっても、自分の人生に子供を想定していない、あるいは可能性のひとつ程度にしか捉えていないのであれば、生殖を否定されたところでダメージは大きくないし、むしろどちらかと言えば現在も少数派である自分の生き方に後ろ盾を加えることすらできるだろう。

 その次に反出生主義が広がりやすそうなのは、子供をもつことにある程度意欲があったり、あるいは子供をもつことを当然のことと見做したりしつつも、生まれる子供が幸せになれるかを懸念している人々、特に自分が子供に継承するかもしれない何らかのリスクの自覚がある人々ではなかろうか。これは言い換えれば幸生思想に親和性が高く、なおかつ反出生主義からもそう遠くないゾーンとも言える。

「傾斜配分の反出生主義」はここに重点をおくことにしたと言える。ここなら他にくらべ反出生主義への親和性も比較的高い。さらには現代社会において、この層には反出生主義に由来しない、生殖への否定的な風潮もあるようにも思える。今や子供をもつことはその普遍性を失いつつある。子供を育てるのにはお金がかかる、高等教育を受けさせて「いい仕事」に就けようと思えば尚のことだ。その一方で安定した収入を得ることは難しくなっているし、将来の景気の保証もない。それに子供を作る前に結婚することも難しくなっている。自分でパートナーを見つけられなければ独身のままである。自己責任論が見え隠れする世の中では、子育てに困ってもお前が子供をつくるからだろとすら言われかねない。

 それでは優生思想(のうちの生殖抑制の部分)と変わらないじゃないか、と思うかもしれないが、優生思想と決定的に違うのは、「傾斜配分の反出生主義」の生殖抑制には上限がないということである。優生思想では人類の進歩に寄与しないと思われる出生が抑制されると同時に、人類の進歩に寄与する出生は促進される。しかし「傾斜配分の反出生主義」では「より生まれるべきでない子供」の他には「生まれるべきでない子供」がいるだけである。

 これで何が起きるかと言うと、端的に表せば達磨落としである。すなわち、現時点で「最もリスクの高い出生」が回避されたとする。するとその時点では回避された出生よりはややリスクの低い出生が次の「最もリスクの高い出生」となるのだ。「傾斜配分の反出生主義」は重点を「より生まれるべきでない子供」に置いているだけで出生を肯定しているわけではない。そのため、その時相対的に「より生まれるべきでない子供」とされたところがアプローチ対象となり、達磨落としが進行していくことになる。

 この達磨落としがどこまで進むかはわからないが、ある程度まで出生が回避された場合には、親にならない人たちが多数派になっているだろう。果たしてその時、子供をもつことはどのように見られるだろうか。

 以上のことを踏まえると「傾斜配分の反出生主義」は「できるところからやっていく反出生主義」とも表現できるだろう(この表現は私が初出ではない)。では、この「傾斜配分の反出生主義」は反出生主義から見ればどのように評価されるだろうか。

 まず実効性に関してだが、これについては少なくとも短期的な目で見れば原理的な反出生主義よりも現実的であると言わざるを得ないだろう。全ての生殖を否定すると主張したところで、全ての生殖が止まるだろうか。それよりは反出生主義から少し離れてでも、リスクの高い出生の回避に重点を置くことのほうが現実に及ぼす効力は大きいように思う。

 一方で懸念されることとしては、「傾斜配分の反出生主義」が反出生主義そのものと誤解されること、さらには優生思想などと混同されやすくなることが挙げられる。先ほど述べた反出生主義が一律に出生・生殖を否定することゆえの「実行力の弱さ」は「その理論の強さ・独立性」と表裏一体であるようにも思える。何々な生殖はよくない、何々ならまだまし、そういう「傾斜配分」をかけずに全ての人は生まれるべきでないとする理論が、「傾斜配分の反出生主義」の実行力に呑まれてしまうことも考えられそうである。

 また「傾斜配分の反出生主義」で考慮される要素は、その要素を持つ人の差別にもつながりかねないものである。何らかの要素によって出生の回避に強弱をつけるということは、今ある差別や迫害を追認するものになる危険性がある。「○○障害/○○属性/○○人/〇〇民族を迫害することは許されないが、現状で迫害されている〇〇はより子供を残すべきではない」という話、「傾斜配分の反出生主義」ではアリになってしまうが、これには多くの人が反感を覚えるだろう。

 つまり「傾斜配分の反出生主義」は何らかの出生を認めているわけではないため反出生主義それ自体と矛盾するとは限らないが、しかし反出生主義そのものでもないと言える。そのため反出生主義からすれば、「できるところから反出生主義をすすめていく」という恩恵があるかもしれないが、逆に他の反出生主義ではない思想と反出生主義が混同されたり、反出生主義の一律性がかすんでしまったりする懸念もある

 とはいえ一律性を重視して反出生主義を実現しようとしたとして、結果「傾斜配分の反出生主義」のようになってしまうことも考えられる。なぜなら先ほども述べたように、反出生主義の受容のされやすさというのはその人の環境によって異なると考えられるし、反出生主義がその人にあるいは周囲に納得されやすいのは「傾斜配分の反出生主義」で「より回避されるべき」とされる出生のほうであろう。

 今でいう環境であったりジェンダーであったり、そういう社会問題に関心がある層が反出生主義にも関心を持つという可能性もなくはないだろうが、仮に反出生主義が広がった時に回避されるべきという認識が一般に共有されるのは、反出生主義を持ち出さなくても回避が正当化されるような出生であろう。一方で反出生主義でも考えない限りリスクがあると特段見なされないような家庭では、反出生主義が相当に広まるまでは今まで通り子供が生まれるであろう。

 繰り返しになるが「傾斜配分の反出生主義」は反出生主義そのものではないため、「傾斜配分の反出生主義」的な主張をする反出生主義者がいる一方でそれを批判する反出生主義者も出てくるだろう。「傾斜配分の反出生主義」のベースには大抵反出生主義があるだろうが、「何らかのリスクが高い場合はより生まれるべきでない」という主張を反出生主義そのもののように語るのは、混乱を招くため控えるべきだと私には思われる

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