見出し画像

「『反出生主義』はなぜ哲学的に『ありえない』のか」について

 お久しぶりです。前回の投稿から2か月も開いてしまいました。この2か月、大変でしたね。今回は昨日配信されたこちらの記事についての感想文みたいなものです。

――――――――――

 この記事は哲学者の小川仁志氏が読者からの質問に答えるという形の短い記事である。小川氏の名前を存じ上げなかったのでググったところ、ヘーゲル哲学、公共哲学、政治哲学が専門でいらっしゃるようだ。Wikipediaによると、商社就職後、司法試験に挑むも断念、それから名古屋市役所に勤め、その後博士号をとったそうなので、哲学者としては異色の経歴と言ってよいだろう。この記事の最後の著者紹介には「20代後半の4年半のひきこもり生活がきっかけで、哲学を学び克服。この体験から、「疑い、自分の頭で考える」実践的哲学を勧めている。」とあるが、ひきこもりというのは司法試験挑戦中のことだろうか。

 この記事では最近リストラに遭ったという50代の男性から、世の中の暗い物事を見ていると悲観的になる、将来生まれてくる孫が幸せか心配だという相談が寄せられる。それに対し小川氏は「生まれてこないほうが良いと考えるより、生きることの価値を問い続ける」というアンサーを出す。そう長い記事ではないのでご自分で読まれることをお勧めするが、まとめると、

気持ちは理解できるが反出生主義には賛同しない、いくら苦痛が快楽を上回っても生きることに価値がないとは言えないだろう、人間は過ちを繰り返すとはいえ少しずつ改善する希望があるのだから、あなたもよりよい方向へと考え行動してはどうだろうか。

という回答になるだろうか。反出生主義は人類を「諦める」思想だが、小川氏はまだ人類にも、そしてあなたの人生やあなたの孫にも希望はあると言いたいのだろう。

 で、以下感想だが、短すぎて拍子抜けしたというのが正直なところである。この記事のタイトルは「『反出生主義』はなぜ哲学的に『ありえない』のか」なのだが、結局この問の答えはどこにあったのだろうか。小川氏が反出生主義に大して直接の見解を述べているのは、

ただ、個人的には反出生主義には賛成しません。それは単に感情的に反対するということではなくて、あくまで理屈の上からです。いくら苦痛が快楽を大きく上回ったとしても、生きるということに価値がないとは言えないでしょう。

というこの一段落だけなのである。小川氏が反出生主義に賛同しないのはわかった、苦痛が快楽を上回っても生きることに価値があると考えている、なぜ?小川氏は「理屈の上から」と書いているが、その重要な理屈を説明するには続く一文は弱すぎるように思う。なぜ、苦痛が快楽を上回ったとしても生きる価値があると言えるのか、そこが重要なはずである。

 もっともこの記事のタイトルが小川氏の手によるものでないことも十分考えられるので、これをもって小川氏を批判するつもりはない。紙幅の都合もあるだろう。ただ、感想としては小川氏がなぜ苦痛の多い人生にも価値があると考えるのか知りたかったというところだ。引用した段落の後に、「(本誌初出「戦争や貧困に満ちた現在に生まれてくる者たちは、幸せを感じられるのか/31」)」とあるので、そちらにはもっと詳しく書いてあるのかもしれないが、この記事はYahoo!ニュースに別のメディアの記事が載っているものなので、この記事から直接読むことはできない。

 そもそも「生きることの価値」は誰によって決められるのか。本人以外にそれを決められる人がいるのか、個人的には甚だ疑問である。誰か、あるいは世間のようなものが、「あなたの人生は83点です、はいあなたは29点、あなたは57点」みたいに決めるのだろうか。たとえそうだとしても、90点でもそんなに嬉しくない人もいるかもしれないし、逆に50点でまあまあ満足の人もいるかもしれない。他人からいくら「あなたの人生には価値がある/ない」とジャッジされても、結局最終的な評価(よそからの評価に対する評価含めて)は本人がするもののように思う。

 そうだとすれば、「苦痛が快楽を上回ったとしても生きることに価値がないとは言えない」というのはどこから来るのだろうか。タイトルを考えれば、これこそ小川氏が「反出生主義は哲学的にありえない」と言う根拠なのだが、これについて小川氏は記事中で説明していないので、推測するしかない。

 苦痛が快楽を上回った場合の生きる価値とはなんなのか。傍目から見れば苦痛ばかりの人生でも本人がそれに満足していることもあるかもしれないが、それは本人が満足したという点では快のほうが勝っているように思う。生きていることは無条件に尊い、価値があるということなら、本人に感じられない尊さや価値に何の意味があるのか。

 小川氏は先の引用ののち、「希望」として、人類は過ちを繰り返すけれど、全く同じ過ちではないことに微かな望みを託すと続けている。そうであるから悲観的になっても、自分で考え行動し、よりよい方向を目指してはどうか、という提案でこの記事は締めくくられている。なるほど、これが「実践的哲学」なのか。

「微かな望み」なんだね…。微かな望みに人生を賭けられる、これから生まれる人類は堪ったものではないと思ってしまう。別に人類が進歩発展していること自体は否定しないが、そうだとしても依然多くの人が苦しんでいることもまた事実である。これからも、人類がもっと発展しても、それは変わらないであろう。

 まだ生まれていない人間にとって、生まれるまでは人類の進歩などどうでもいいことである。だって生まれなければ関係がないのだから。全く関係のない他人を同意もなく巻き込んで、苦しいかもしれないけど頑張ってねなんて、生殖でない場合なら、日常感覚としてもそれはどうかと思う人が多数であろう。そうされる立場に立ってみるといい、いやもう生まれている皆さんはそのことを身をもって理解できるはずである。

 結論としては、小川氏は反出生主義が問題としていることをとらえきれているのかなと疑問に思ってしまった。自分みたいな哲学の素人が、博士まで出ている人に言うことではないと思うのだが、この記事を読む限り、そういう話じゃないんだ…という感じである。これなら反出生主義をわざわざ持ち出さなくても、質問には十分回答を提示できたのではないかと思う。

 とはいえ非常に短い記事なので、これだけでどうこう言えるものではないとも思う。小川氏がこの辺どう考えていらっしゃるのかは、また別の文章を読む必要がありそうだ。

 余談だが、この記事の質問者は将来生まれる孫のことを心配していた。孫か、難しいよね…。いやだって、直接の自分の子供じゃないということは、産むなとか口出ししにくいじゃないですか。仮に孫を産むな、反出生主義がどうのこうのなんて言ったら、あなたが私(質問者の子供、孫の親になる人)を誕生させたのはどうなるんだという話になるわけで。ただ、こういう質問をされる方なので優しいのだろうとは思うが。その点でいえば、小川氏の回答は「優しい」「ためになる」ものだったのかなと思う。人間的には高得点というか。

 逆に、こういう質問に「あなたも反出生主義にたどりつきましたか!いやーほんと、その通りなんです!人間を誕生させてはいけない!いざ絶滅!」なーんて回答したらどうなるんですかね。見たい。

――――――――――

 ちょっと前に大谷崇著『生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミスト・シオランの思想』を買っていたのですが、本棚で熟成させたままになっておりまして、ようやく読み始めました。こちらも読んだらまた何か書きたいなあ(←現代思想の感想も書く書く言ってまだ放置している顔)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?