記事紹介「反出生主義者についての小研究観察報告」

 この記事は反出生主義というよりは「反出生主義者」に関する考察である。こういう考察と言うのは、「反出生主義者は〇〇だ!」という人格攻撃的なものになってしまう可能性もあり、反出生主義者からすればいい顔はされないものである。ただこの記事に関しては私も「そうだなあ…」と思ってしまうところもあったので、紹介記事を書くことにした。別にこの記事を論破するような内容ではないので、読みたくないと思った方はブラウザバックを推奨する。

 この記事ではTwitterで反出生主義者を名乗る人々、特に反出生主義をアイデンティティとするごとく語るように見える人々について書かれている。彼らは反出生主義反対派に対して攻撃的なツイートを繰り返し、反出生主義の平和的な達成をする気があるのか疑問に思わせるとされる。確かに「ナタカス」(出生主義者=ナタリストに対する蔑称)なんて呼ぶことが反出生主義の実現に寄与するかと言われれば全くそんなことはないだろうし、むしろ逆であろう。

 Twitterで反出生主義を主張する人々がどれほど反出生主義の実現を目指しているのかというのは私も疑問に思っているところではある。彼らは反出生主義の正しさを疑ってはいないはずなのだが、それにしてはその実現に向けての具体的な話というのはあまりされていない気がする(まあ私が人のことを言えるかというと怪しいのだが)。この記事の筆者は、彼らは反出生主義の達成というよりは、反出生主義の側に立つことで自らを正しい側に置くことに関心があるのではないかという批判をしている。

 これは前から私がしていたり、他所でも指摘されていたりする、反出生主義の受容の2つのパターン、すなわち哲学的な問題としてその論理を検証するのか、あるいは自己の実存の問題に引き寄せるのかという話にも通じるであろう。Twitterにおける反出生主義の受容には反出生主義の「需要」というものが大きかったのだろう。自らの生きづらさは出生そのものという自己責任の範囲外のところに端を発するものだという説明は、自責の念を緩和させるには非常に効果的であった。もっともこれ自体は悪いことではないと思う。

 さらに筆者が指摘するのは、彼らは反出生主義に拠って子供をつくらないというより、そもそも子供をつくる素養、さらには他人との関係を築くための素養に欠けているのではないかということである。ここまで言ってしまうと人によっては人格攻撃ではないかと思うかもしれないが、全く的外れと言うのも個人的には躊躇う話ではある。以前別の人が「反出生主義は性嫌悪の発露」という意見を言っており、筆者も「自己や性愛に対する強い不信や嫌悪」が反出生主義者の言動に見られると書いている。もちろん反出生主義者すべてがそうであるとは私は思わないが、自己や性愛をよく思わないことは反出生主義と親和的であろう。

 生物として見れば、子孫を残せない、自己の複製に失敗するというのは敗北である。もちろんどれほど子孫を残すことに執着するかは個体差があり、そういう欲求が全くあるいはほとんどないと自任する人もいるだろうが、傾向としては子孫を残せたほうが生物的にも社会的にも「よい」とされる。自分の人生を上手く進めることも、子孫をつなぐこともできないというのは、十分に劣等感の原因になりうる。

 そこで反出生主義の出番である。反出生主義というのは世間の価値観を180度ひっくり返すものだ。すなわち出生は悪いし自分はその被害者である、そして子供をつくることはよくない。どちらが正しいかはさておき、これは世間への適応に難があった人たちにとっては救いであった。すなわち自分の生きづらさに説明を与えてくれるのみならず、子孫を残せないという生物的には最大の失態を、子孫を出生から救済したという「正しさ」に変えてくれるのである。

 そして筆者は続ける。「反出生主義は、基本的には何もしないし、何もできない思想だ。それ故に、絶対に間違うことはない。そのことは、『正しさ』の根拠の一端でもあるだろう。しかし、何もしない、何もできないのだから、何の実績も残らない。その『正しさ』は、外部に届くことがない。」と。

 反出生主義は現状無力である。反出生主義についての言論で、その賛同者は増えてはいるだろうが、それが出生数減につながったとしても全体からすれば微々たるものであろう。反出生主義が受容される場合は、もうその人の中にある考えに名前がつくだけということも多いのではなかろうか。反出生主義者がインターネットでその正しさを論じようがあるいは「ナタカス」を罵ろうが、市井の人々がそれで生殖を止めるとは思えない。もっとも日本の出生数自体は勝手に減っているのだが。

 ただ筆者曰く、その無力さこそが反出生主義者にとっては心地いいのだ。どれだけ暴れようが、現実には何の影響もないのだから。逆転した「正しさ」を手に入れた彼らは、その武器が誰にも届かないからこそ安心して振り回すことができる。反出生主義が世間でのプレゼンスを高めれば、今までのようにはいかないであろう。

 筆者は最後に、反出生主義を語ることで自己を確立させるのはいつまでも続かないだろうとする。いずれそれができなくなった時に彼らはどうするのか。

 全ての反出生主義者がこのような類型に当てはまるわけではないだろう。おそらくこの記事の筆者もその認識はもっているし、反出生主義否定や人格攻撃のために書かれたものでもないと思われる(快く思わない人もいるだろうが)。ただ、何らかの事情で反出生主義者を「必要としている」人はいて、彼らにとって反出生主義に「帰依」してしまうことが本当の救済となるのか、この記事では疑問視されていたし、私としてもそれと同様の心情はある。

 反出生主義というのは、人生を、社会を、その一般的な価値観に沿っては上手くやれなかった人にとって、確かに「正しさ」を与えてくれる。自分が生まれてきたのは全く他人のせいであること、子供をつくらないことで自らを責める必要がないこと、それらは心の安寧を与えてくれるであろう。しかしそれは「底」であり、無限に落ちていくことはないが、それより上へ行くには別の手段が必要になるだろう。別にそこに留まっていてもいいが、反出生主義による救済にはどうしても限界がある。それ自体が「生まれないほうがよかった」ことの証拠にもなりうるのだが。

 どう人生を続けるか、あるいはいっそやめてしまうかは本人次第だと思うので口出しはしないが、今のTwitterなどで見られる反出生主義の受容のされ方は、反出生主義の実現に向かっているかといえばかなり微妙である。ただ、じゃあ反出生主義の代わりになる拠り所をくれと言われても困ってしまう。反出生主義以上に「できない」ことを肯定してくれる思想はないし、そもそもそういう思想があっても根本的な解決にはならないであろう。

 反出生主義の実現を目指すならば、他人と関係を築いて協力することも必要になるだろうし、分断をあおるような言動は批判せねばならないだろう。ただそれが上手くできる人は反出生主義になかなかたどり着かないんじゃないかとも思ってしまう。かく言う私も、どうすれば反出生主義を実現させられるか考えても机上の空論になりそうだし、もし効果的な手段を考えついてもその実行に貢献できるか全く自信がない。

 最後に以前私が書いた、関係ありそうな記事のリンクを2つ。


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