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反出生主義は「無責任」?

 反出生主義に対する批判の中で、「反出生主義は無責任である」というものを目にすることがある。社会の維持には人口の再生産が必要であり、それに貢献するのは社会の一員としては当然の行いである、という考えから発生したもののようだ。

 確かに、現在の社会では機械の発達も進んでいるとはいえ、人間の労働力は不可欠であり、人口の再生産が行われなければ近い将来に労働力が不足する可能性は高い。また人口が減ることで社会の規模、ひいては国全体の規模が縮小することになり、それに伴うデメリットもあるだろう。自分が子供をつくらないだけでなく、他人の生殖をも否定しようとする反出生主義は、社会の将来的な維持に貢献しないだけでなくむしろそれを阻害するものに見える。

 しかし、そもそもその「社会的責任」はどこで負ったものなのだろうか。

 私たちはみな勝手にこの世界に連れてこられた身である。同意もなく誕生させられて、教育を受け労働し、次世代の再生産まで求められる。社会に適応できた人ならともかく、そうではない人にとってはたまったものではない。社会的責任の前に、こちらが人生を始めさせられた責任は誰がとるんだという話である。生殖は無責任なものだ。親はどうやっても子供の人生の責任はとれない。

 そう考えると、この社会的責任というのは社会の維持のために我が子を差し出せという話に思えてくる。確かに社会の維持のために「責任」は果たしているかもしれないが、自分の子供に対しては全く「無責任」な行いである。

 反出生主義とて現実に子供が生まれなくなればそのうち社会の維持が難しくなることは分かっている。それにもかかわらず反出生主義が存在するのは、社会を維持するより重要な責任を自分の子孫に対して負っていると考えるからであろう。自分の子孫が人生を押し付けられることにより、苦痛や不安を経験することがないようにするという責任である。

 つまり、反出生主義は社会の消滅を含む思想であるため、当然社会の維持に対して無責任に見えるかもしれないが、それは別の責任を優先した結果であり、「反出生主義は無責任」というわけではない。むしろ生殖は自分の子供に対して甚だ無責任な行いであり、「反出生主義は無責任」論者はそれに関してはどう考えているのだろうか。「反出生主義は無責任」という批判をクリティカルなものにするには、子供という他人を勝手に社会に巻き込むというリスキーな行為を行ってまで人口の再生産に頼って社会を維持すべき根拠を示す必要がある。

 もちろん、反出生主義を実現するにあたって、人口の再生産なしにどうやって社会を維持するかは解決しなければならない問題である。既に生きている人に過大な負担をかけることは反出生主義は望まないし、そもそも彼らが不満を抱けば反出生主義の実現は難しくなる。社会を「責任をもって」軟着陸させることが反出生主義には求められている。

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