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反出生主義と攻撃性

 Twitterをしていると、反出生主義賛同者と反対者の間で熱いリプライ合戦が行われている場面に出くわすことが時々あり、お互い冷静に議論できていればいいのだが、攻撃的になっているアカウントも散見される。

 反出生主義に対する感情的な「反論」も多いのだが、中には強い言葉で反出生主義の正しさを主張している人もおり、そういう言い方をしなくてもいいのではと思うこともある。そういう態度のせいで反出生主義は攻撃的な危険思想というイメージがつかないか、攻撃的に思えるアカウントは一部なのだが目立つだけに、懸念してしまう。

 Twitterで反出生主義の反対者や非賛同者に強めのリプライを送ったところで彼らが「反出生主義は正しい」と考えを改めるとは到底思えないし、むしろ逆効果に思える。何らかの反出生主義に関する疑問や反論に対し、冷静に説明するならともかく、一方的で相手の考えを尊重しないリプライを飛ばしても、得るものは何もないだろう。時として怒りの表出は必要でも、それがどのような手段でも効果的というわけではない。

 反出生主義に関係なくそういう怒れる人たちはTwitterから距離をとって平穏な生活を送ったほうがお互い幸せなのではないかと思うのだが、しかしなぜ攻撃的な反出生主義者がいるのかについても考えるべきであろう。

 個人的には、反出生主義のもとで攻撃性を帯びてしまう人は、反出生主義にたどり着くまで大変だったんだろうなと思う。おそらく反出生主義に至る大きな入り口のひとつは「生まれたくなかった」であり、そう思うほど彼らは世界からよい扱いを受けていなかったのであろう。その不運・不遇の全てが出生によって生じたというところに気づけば、「生まれたくなかった」となるし、それを一般化すれば、私と同じような目に遭う人を出してはいけないということで反出生主義に行き着く。「生まれたくなかった」≠反出生主義なのだが、「生まれたくなかった」という実感がある人のほうが反出生主義に親和的なのは想像に難くない。

 そういう人々にとって反出生主義は自分を虐げてきた世界に対してようやく見つけた逆襲の武器になりうる。自明に善とされてきた生殖の問題性を指摘し、自らを「出生被害者」として、親あるいは社会の加害性を問うことができるのだ。それまで理不尽に耐えてきた人々が反出生主義という正しさのもと、比較的相手と対等な立場に立てるインターネット空間において、剣を振るうことは、反動として自然な現象なのかなと思うところもある。

 もちろんTwitterにしろインターネットの他の場所にせよ、感情のままに攻撃的な言動をするのは、本人にもその主張自体にも悪影響を及ぼすものである。反出生主義が攻撃的な危険思想というレッテルを貼られることは避けなければならないし、いつまでも被害者ポジションを取り続けては反出生主義の実現も遠いだろう。では彼らをどう鎮めるかと言われると困ってしまうのだが。

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