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二毛作

 二毛作と言っても農業の話ではない。

 若いころ、女性的な魅力を売りにして利益を得ていた人が、ある程度年齢を重ねて若さが減衰し始めると一転して、過去に自分もその中にいた世間と女性とのかかわりをフェミニズム的な文脈から論じることを、二毛作に例えて批判する人たちがいる(ツイートも検索したのだが、いまいち引用に適したものがなかった)。自分が過去に美しさや性的価値(所謂エロティック・キャピタル)を用いて社会で厚遇されていたのに、それらのバリューが年齢とともに下の世代に劣るようになると、手のひらを返したように、ルッキズムだ、性的搾取だと被害者ポジションをとるようになるとは何事だ、ということらしい。

 まあ確かにTwitterを見ていると、少し前までは若い女性としてちやほやされていたであろう人が、社会に対してフェミニズム的視点からもの申すようになるというのは、割とお馴染みの光景のような気もする。若さでは年下にもう勝てないのだから、彼女たちはそちらで勝負し続けるよりは土俵を変えて自分の利益を追求しようとしているようにも見える。女性的魅力の産物を形を変えて二回利用するわけだから、二毛作。

 ただ、先日、こちらもTwitterで見たのだが(当該ツイートを探したのだが見つけられなかった)、「二毛作と批判されていることは、若いころに社会の言いなりになっていた女性たちが、時間がたってそれらのおかしさを言語化できるようになって声を上げているだけなんだ」という趣旨のツイートが流れてきた。

 こちらも一理あるなあと思った。個人的な経験としても、小中高でそのときはこれはおかしいんじゃないのかと思いつつも上手く言い表せなかったことが、今なら言語化できるのではないかという思いもある。当然時間がたてば若いころより経験も増えるだろうし、当時の状況を客観的に批判することもできるようになるというのはおかしな話ではない。それに、さっきは若い女性として利益を得ると書いたが、全ての人が社会とウィンウィンの関係ではなかっただろうし。

 ただ、時間が経って言語化できるようになるというのは、上手く理屈をつけられるようになるというだけの話でもあり、それが正しいとは限らない。本人の認知の中で、あの頃私は嫌だったんだ、こんな被害を受けたんだという思いが、若さブーストが弱まりちやほやが薄れていく喪失感の中で強化されて、フェミニズム的な言説に乗っかって「言語化」されたのだ、とアンチフェミのほうからは突っ込みが入りそうである。

 ここでどちらが正しいというつもりはない。「二毛作」をやっている本人としては、自分の経験や思いを言語化できるようになり、一歩引いたところから批判することで、今「苦しんでいる」若い女性を助けることができると信じているのだろう。ただそれは傍からは、若さ資本のなくなった女性が、過去の収穫物をリサイクルするかのようにも見えてしまう。

 これだけ自他で認識が異なれば、議論、というかコミュニケーションから難しそうだなあと思った。


 余談、いくつかのツイートを見てこれを書こうと思ったのだが、今月に入ってからのものだったはずが、もとのツイートを探しても見つからなかった。後で引用したいと思ったツイートはリツイートなりコピペなりして記録しておいたほうがよさそう。

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