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反出生主義と親自殺主義

 時々Twitterなどで反出生主義者に対し「反出生主義なんぞ主張するなら早く○ね」などという言説が流れることがあり、それに対し「反出生主義は出生に関する思想で人生を続けるかは別」という反論がつく。私もそれとこれとは別だろうと思うし、「○ね」なんて怖いなあと思うが、果たして本当に別の話なのだろうか、というのがこの論文である。

 デイヴィッド・ベネターという南アフリカの哲学者がいて、彼の書いた『生まれてこなければよかった――存在することの害悪』(Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence)という本は反出生主義についての本ということで有名なのだが(邦題がついている=日本語版も出ているが私はまだ読んだことがない)、その内容に従えば、反出生主義のみならず「親自殺主義」すなわち生き続けるより自死するほうがよいという理論も成り立ってしまうのではないか、という話である。

 ベネター自身は「親自殺主義」の立場ではない。彼曰く「存在すること」ではなく「存在し始めること」すなわち出生が害であり、生命が存在し続けること自体は利益になりうるとのことだ(ただ先に挙げた本の副題が「存在することの害悪」なのだから「存在すること」は害悪なんじゃないのと思ってしまう、この点に関してはリンク先でも指摘されており「存在すること」自体を害と考えたほうが整合性があるとされている)。彼は死そのものは生体にとって害であるという立場のため、生きている存在は(どんな場合でも)死んだほうがよいということにはならないとする。

 詳細はリンクの先で読んでいただくとして、まあそうだよなという感想を抱いた。存在自体を常に害悪としてしまった場合、そこから早いうちに抜け出すことで被害を最小化できる。それに、死自体を内在的に悪いとするベネターの主張はエピクロス説(死の無害説、死それ自体は害ではないとする)によって無効化されてしまうようで、存在が害で死が害でないならば、親自殺主義が導かれてしまうということだった。

 それならば「反出生主義者は早く○ね」というのは正しかった?

 存在自体が常に害悪としてしまった場合、死が害でないならば親自殺主義が導かれてしまう。私は死自体が内在的に悪いとは考えていないので、疑うなら「存在自体が常に害悪」のほうだろう。

 存在することが常に悪いというのはちょっと言いすぎではないかと思える。幸福な人生、満足な人生というのはあくまで主観であり、あなたの人生は実はこんなに悪かったんですよ!と他人から評されても意味がない。それで、出生がよい結果をもたらす場合が存在する可能性は否定できない。

 ただそれでも人生に苦痛が伴うというのは事実であるし、不幸な人生が存在することも事実である。生殖というのはギャンブルみたいなもので、他人から勝手に賭けを始めさせられるという面がある。もちろん勝つこともあるだろうが、当然負ける場面もある(そちらのほうが多い人も大勢いる)し、長くやっているといつかは必ず終わりが来る(誰もがいい終わり方をできるわけではない)。しかも最初に分配される手持ちの札は不平等だし、選べない。

 そう考えれば存在することが常に、全ての人にとって害悪、というよりは、そうなる場合も十分ある(しかもそれは現状結構な確率である)というほうから反出生主義を組み立てたほうがいいのではないか。ギャンブルで勝つ人もいるが、当然負ける人もいるし長い勝負では苦しい場面も多い、それに最終的に勝ったままで終わらせられる人はなかなかいない、そういうギャンブルに勝手に参加させることはいいことなんですか?ということである。

 ベネターも快と苦の非対称性を挙げているが、この場合は「生まれて後悔する人はいるが生まれないで後悔する人はいない」という非対称性により、全員を出生させないのが望ましいという反出生主義が導ける。ギャンブルの例えなら、賭けで負けが込んで「こんな勝負したく(させられたく)なかった」というのはあるだろうが、そういうギャンブルがあることすら知らない人が「参加すれば勝てたかもしれないのに!」というのはありえない話であろう。脳が発達するより前の意識の存在が確認されでもしない限り、「生まれてこれず残念」などと思う存在はいないはずである。

 しかしそれは現在賭けをしている人々全てが賭けをやめてしまうのがよいという話ではない。今やっている人の中にはうまく勝っていてまだ続けたいという人もいるだろうし、もう少しチャレンジしたいという人もいるだろう。各人に自由意志が認められているのであれば、続行するかもうやめにするかは各々の判断に任せるのがよいと言えるだろう。そういうわけでこの場合、反出生主義に親自殺主義がくっついてくるのは避けられそうに思える。まあ、続けるという判断が苦痛を避けるうえで合理的かどうかは別として。

 出生と「存在し続けること」が違うのは、それが自分の意思によるか否かということである。出生は自分でタイミングも場所もスペックも何も選べず世界に強制参加させられることであり、それにより非存在の平穏は失われサバイバルを余儀なくされる。生まれる本人の意思は関係ない、というか関与することができない。赤ちゃんになる前に生まれたいと思っている存在がいるわけではない。

 一方で既に存在させられている人が自分の人生をどうするかは自分で考えられることであり、我々には自由意志がある(とされる)以上、それに反して何かを押し付けられること自体が苦痛になりうる。人間は生きたい、死にたくないと思うのが自然な状態であり、それに反して親自殺主義を押し付けるのはよいことではないだろう(生まれてくるはずだった子供に反出生主義を「押し付けて」誕生の機会を奪っても、その子供が[胎児の場合は中絶によるものはさておき]苦痛を感じるわけではないこととは対照的である)。反出生主義に賛同していることとその人のQOLは直接関係がない(QOLの低さが反出生主義賛同の理由になることはあるにしても)し、反出生主義の実現に貢献したいからあまり人生に満足してないけどまだ死にませんという人もいるかもしれない。

 さらに言えば、現状自死というのはそれなりにハードルが高いものである。勝手に人生を始めさせられた以上、自死という選択肢はあってしかるべきだろうが、今のところ「健康な」人の積極的安楽死が認められる気配もなく、人生もう嫌だ死のうと思ってもまた苦痛や恐怖にさらされる羽目になる。存在が害で死自体が害でないとしても、誰でも安楽死を選べるようにならないと死に至るその過程が大きな害となるわけで、少なくとも現在は普遍的に親自殺主義は成り立たないのではないだろうか。

 ベネターの著書『生まれてこなければよかった』は反出生主義にとって重要な本なのだろうが、(まだ本文を読んだことはなくてネット上の情報から判断する限りなのであれなのだが)疑問を抱くところもあり、反出生主義の理論はまだ整理・検討されるべき分野なのではないかと思う。

 でも、反出生主義者に「○ね」なんて言っちゃう人、もし自分の子供が反出生主義者になったらどうするんだろうか。論理的に説明してもわからないだろうしなあ。反出生主義抜きにしても、そういう人たちが勝手に子供作れるのはどうなんだろうと思ってしまう。

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