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出生被害

 X(旧Twitter)で時々見かける単語に「出生被害」というものがある。これは反出生主義を支持する、もしくはそれに多少共感する人によって主に使われる言葉で、字の通り「出生によりもたらされた被害」である。すなわち、生まれたことで不可避になった苦痛すべてが含まれる。

 単に「出生被害」だけでググっても目ぼしい検索結果が得られないことからわかるように(完全一致にすれば多少は出てくる)、これは一般的に使われている言葉ではない。普通の人は何らかの苦痛を感じて「これは出生のせいだ!」とは思わないのだろう。しかしよく考えてみると、生まれなければおそらく我々は苦痛を感じずに済んだのだから、そう考えても全く間違いではないし、むしろ出生の危険性が軽視されているように思える。

 具体例を挙げるとするならば、

  • (生まれれば必ず死ぬ、死そのものは無害でもそこに至るまでに苦痛を感じる可能性は高い)

  • 病気・怪我(我々が与えられる物理的身体による問題、死を避けようと苦痛を感じるが、それを解消できるとは限らない)

  • 老化(死と同様避けられないし、どういう終わり方をするのかのコントロールも難しい)

  • 労働(今の社会では実質的に労働が生活の前提になっているが、苦痛を感じることは多い)

  • 学業(教育制度がある国で避けることは難しい/不利益があるが、適応度には個人差が大きい)

  • 対人関係(人間とかかわることが苦手な場合は社会生活に困難が生じる、友人やパートナーを得られないことによる問題もある)

  • 犯罪・事故・災害(日本は比較的安全だが、生命や財産、健康等へのリスクはある)

  • 戦争・迫害(居住地が直接戦場にならなくても、生活に影響が出るリスクもある)

  • 将来的不安(日本などの先進国では少子高齢化が著しい)

…といったところであろうか。細かく分ければもっとあると思うのだが、とにかく生まれればここには書ききれないくらいのリスクにさらされるし、実際に経験するのである。

 究極的には、我々が苦痛を感じる能力をもつことが原因なのだろう。生物としては苦痛を感じることで死を避け、繁殖までたどりつけるのだが、残念ながらそのプロセスで個体の幸福というのはあまり考慮されていない。ものすごく苦痛を感じやすくて繁殖の前に参ってしまうというのも問題だが、逆に死の可能性のある中で呑気にしていられる個体も、そのまま死んでしまいがちなのだ。

 つまり、出生被害は言い換えれば「苦痛が避けられないのに、苦痛を感じる能力を与えられること」である。

 もちろん我々が感じる感覚は苦痛だけではないので、生まれたことの悪い面のみを強調して被害と言っているだけだという反論もあるだろう。しかし、これは反出生主義の議論で以前から言われていることだが、生まれてきた結果悪いことを経験するのはその人にとって悪いことだが、生まれてこなかったことで良いことを経験できなくてもそれを残念に思う人はいないのである。出生被害はあっても、「不出生被害」は成立しないし、生まれてきて悪いことばかりではなかったとしても、それで出生被害を許せるとは限らない。

 さらには、出生(生殖)は生まれてくる人の同意なく行われる行為である。同意のとりようがないのでそうならざるをえないのだが、とはいえ同意がとれないなら何をしてもいいとはいかないのも常識であろう。出生では今のところ問題視されてないが、同じようなことを寝ている人にすればどうなるだろう?例えば比較的安全な日本で暮らしている人を、就寝中にどこかの紛争地域や未開の自然の中に勝手に連れてきて、「おはよう!今日から君はここで暮らしてね!サバイバルは大変だけど楽しんでね!」と置き去りにするのは加害行為ではないだろうか?


 このような「出生被害」の問題に対し、反出生主義は「子供は生むべきではない」という方法で解答を出した。これが正しいかどうか、正しいとしても実現は困難なのではないかなどに関してはここでは深入りしないが、少なくとも子供が生まれなければ出生被害は確実に防げる一方で、今の人類社会が人口の再生産に依存しているという問題を解決する必要は出てくる。

 個人的には、反出生主義を支持するかどうかはともかくとして、「出生被害」という概念はもう少し広く認識されてほしいと思っている。今は「生んであげた」「生んでくれてありがとう」的な意識が好ましいとされているのだが、本当にそれだけなのか?出生の恩恵だけでなく被害の側面も認識されるべきでは?という思いがある。

 人間が社会にどれだけ適応できるかには個人差があって、結果として豊かさや幸福度にも差が出てくる。それは個人の資質によるものもあれば、周りの環境や運に左右されるところもある。頑張れば報われるかもしれないが、それは「かもしれない」止まりでもある。社会運用上、いろいろなことを「自己責任」とせざるをえないのだろうが、「生まれたから巻き込まれてしまった」という認識をしておくほうが、生きていくうえで多少は楽なのかなと思っている。

 今のところ出生被害から完全に救済される方法は「死」しかないが、残念ながらその道も険しいものがある。もちろん死なないでどうにかできるならそのほうがよいという人も多いだろうが、同意なく出生させられたのだから、その救済の選択肢としての安楽死は用意されるべきではないだろうか。


 これは特に根拠のない憶測でしかないのだが、現在の少子化の背景には「生まれるってそんなにいいことじゃないよね?」という気づきがあるような気がしている。近現代の先進国では子供が「できる」ものから「つくる」ものになっていった結果、子供が生まれるかどうかには思考が介入するようになった。そして「この子は生まれて幸せになれるだろうか?」という問いを乗り越えることが子供を生むためのハードルになることが多くなったし、それに対して「幸せになれるとは限らない」という答えが出てしまうことも、それでも生むべき強い理由が見つからないことも十分ありえるものだった。

 やはり皆うっすらと気づいてはいるのだろう。生まれたせいで老いて死ぬことも、病気にかかることも、勉強や労働でつらい思いをすることも。でもそれは結局「他人事」「自己責任」と見なしても許されるし、みんな子供つくってるし、少子化が問題だって言うし。今のところ出生被害、言い換えれば生殖加害を責められる可能性は低いと言える。

 しかし子供だっていつかは気づく。幸運にも出生被害を許せるような人生ならいいのだが……。また、気づいたところでその補償を求められるかは別の話である。

 自分に人権があると信じるならば、子供を生まれさせることは生まれてくる人間にとってどういう意味をもつのか、考えてからでも子供をつくるのに遅くはないだろう。

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