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「公理」と妥協点

 先日見かけた記事についての雑感を少々。

 これはお悩み相談に寄せられた「反出生主義は正しいのか?」という問いへの回答記事である。ざっくりまとめてしまうと、反出生主義は「不幸な人を減らす」という目的のもとならば間違いではないだろうが、そもそもその目的が共有されたものではない、というところだろうか。

 回答者は物事の真偽を決めるには基準が必要だとし、そのうえで「人類を存続させる」という「公理」に基づけば、反出生主義は人類の存続に反するため正しいとはできないとする。この「公理」とはこの場合「絶対的な目的」という意味だとあり、回答者が「人類を存続させねばならない」と考えているため、「人類の存続にとって有益か不利益か」が真偽の基準となるのだ。

 詳しいところは記事を読んでいただきたいが、この公理には「人類を存続させる」「幸せな人を増やす」「不幸せな人を減らす」などが考えられるとのことで、反出生主義を手段として見たときに、前者2つに対しては間違ったアプローチとなる一方で、後者に対しては有効な手段であろうとされている。

 結局、回答者は反出生主義は正しくないとはするのだが、それは反出生主義が人類の存続という回答者の公理に反するものだからであり、質問者の公理次第では正しくもなるとしている。そして、最終目的地たる公理が異なる場合、理解はできても共に歩んでいくのはほぼ不可能だとも述べている。


 丁寧な回答だとは思ったが、反出生主義者ならばすぐにツッコミは入れたくなるだろう。「その公理、正しいんですか?」と。

 公理と言うのは最も基本的な前提である。例えば数学なら、2つの点があればその2点を通る直線が引ける、など、それを前提としないと他の定理が導き出せないレベルのものである。

 それで今回の場合、回答者は「人類を存続させなければならない」ということを回答者自身の「公理」として論を立てていくのであるが、それは逆に言えば「人類を存続させなければならない」という前提自体は疑わずに話を進めますよということである。これは反出生主義者にとっては論の進め方として不満であろう。なぜなら、反出生主義者は反出生主義が達成されればそれは人類の絶滅を意味することなど分かったうえで、今回「公理」とされたものは自明ではないと考えて反出生主義を支持しているからである。

 この記事ではこの点に関し、「この公理は私が『これにする』と決めたもので御座いますので、どうしてそれが公理なのかと聞かれても『そう決めたから』としか答えようが御座いません。」とあり、それ以上の理由が深く述べられていなかったのであるが、質問者もこの点についてはもっと深く知りたかったのでは?と思う。不幸な人が生み出されるとしても人類が存続しなければならない理由があるとすれば、それをもとに反出生主義は間違いだと言えばいいのだから。

 一方反出生主義は「不幸な人を減らす」を「公理」とすると言っていいだろうが、それに対しては例えば「不快の存在は問題だが、快の不在は問題にはならない」などの説明を試みることができる(もちろんそこから更に議論があるだろうが)。どうしてそれを「公理」とするのか?という問いに対しては今回登場した三者のうちでは一番、しっかりした議論ができそうではある。私が今まで見た限りでは、「人類を存続させるべき」という主張で納得できる根拠があるものはなかった。


 とはいえ、どこまで自覚的かはさておき「人類を存続させる」「幸福な人を増やす」という「公理」を採用している人が世間では大多数と思われる。それで、彼らと反出生主義者はそもそものゴールが違うのだから、反出生主義者がその主張を通そうとすれば当然問題が起きる。反出生主義では「全ての」出生が否定されるので、自分たちだけ子供をつくらなければいいとはならないからだ。

 公理の違う人々が同じ世界にいれば、結末は二つ。衝突か妥協かである。ここではどちらが正しいか?はとりあえず保留して、異なる公理の共存が可能なのか少し検討したい。

 まず「人類の存続」と「幸福な人を増やす」だが、これはそんなに問題ないだろう。人類の存続のためには幸福な人を増やしたほうがいいだろうし、幸福な人を増やすために子供を生めばそれば人類の存続につながる。万が一、これから子供を生んだところでどうやっても幸福にはなりませんよ、という事態にでもなればこの両者は対立するだろうが、現状ではこの両者は問題なく共存できそうだ。

 次に「人類の存続」と「不幸な人を減らす」、これは後者が反出生主義をとる場合には真正面からぶつかるのだが、公理それ自体がそうとは限らない。例えば、何らかのテクノロジーによりそもそも人間から「不幸」というものを消し去ってしまえば、不幸な人はいなくなるので反出生主義の存在意義もなくなり、人類は無事存続できる。ただ、問題は今のところそういう技術がないことだ。人類が存続するためには、子供が不幸になるリスクを冒してでも人口の再生産をするしかない。反対に、これから生まれる子供の誰にも不幸になってほしくないなら、反出生主義をとって人類の存続は諦めざるをえない。

 最後に「幸福な人を増やす」と「不幸な人を減らす」、これは単なる言い換えのように見えてそうではない。この記事にも書かれていたが、この二者は「勝ちたい」と「負けたくない」の関係のようなものである。「勝ちたい」人は「負けたくない」とも思っているがそれは勝負をしない理由にはならないが、「負けたくない」という目的の達成のためなら勝負を回避するのが最も合理的になる。同じ5戦3勝2敗でも、前者がよしとするかもしれない一方で、後者は0戦0勝0敗のほうがよかったとするであろう。絶対幸福になることは今のところ不可能であり、不幸のリスクを受け入れるか、勝負をしないかのどちらかになる。

 それで、この三者が共存するとなると、考えられるのは「人口の再生産はするし、幸福になれるチャンスも与えるが、不幸は最小限に抑える」ということになるだろう(先ほども述べた、不幸を感じなくするという方法もあるが、今は無理なので割愛)。

 その実現のためには2つの方法がある、一つは「幸福になる人だけ誕生させる」というもの、そしてもう一つは「不幸になった人が人生を終わりにできるようにする」というものである。

 一つめに関しては、これも今のところ無理というほかないだろう。生まれる前にその人がどう育つかなどわかりようがないし、同じ遺伝子を持つ人間でも、生まれ育って暮らしていく環境次第で幸不幸は大きく左右される。なるべく幸福になりやすい子供が生まれるようにする、あるいは不幸になりそうな子供は生まれさせないということは研究次第である程度可能かもしれないが、それは例えば、貧困層・障碍者は、あるいは迫害されている民族や紛争地域の住民は子供をつくってはいけないという話になる可能性もあり、どういう基準で線引きするのか決められそうもない。

 二つめは一つめに比べればまだ実現可能性がありそうに思える。望む人に安楽死を提供すれば、社会における幸福な人の割合は増えるだろう。とはいえ、不幸になったら死んでくださいねという社会が「幸福な社会」かと言われれば、そうですねと素直に首肯しがたいようにも思う。個人的には安楽死が可能になって、生存を希望しない人はその望みが叶えられるようになってほしいのだが、一方で勝手に生まれさせられて、自分ではどうにもならないことも多い中で、不幸なら死んでくださいと言われても納得はできないだろう。それならわざわざそういう人を生み出すリスクを冒してまで生殖しなくていいのでは?という問いは当然発生する。もっともそれ以前に、安楽死の社会的実装に他の課題もあるのは言うまでもない。

 この三者の公理を共存させるとなると、一番妥協を求められるのは現状反出生主義にならざるをえない「不幸な人を減らす」側である。反出生主義は「誰も生まれなければ誰も不幸にならない」というシンプルなものであるが、そのシンプルさゆえに妥協が難しい。


 最後に少し感想になる、なぜ反出生主義にたどり着いた人たちが「不幸な人を減らす」という「公理」を採用するようになったのかと考えたときに、先ほどの勝負の話での「負けたくない」という気持ちが強くなるとそうなるのかなと思ってしまった。

 勝手に人生という勝負を始めさせられ、負けが込んでしまうと、「そもそも勝負をさせられる構造自体がよくないでしょ」という気づきは得られやすいように思う。もちろん反出生主義者は負け組などというつもりはないのだが、傾向としては勝機の薄い試合をさせられてしまったなという認識の人が多いのではとは思う。だから子供にも「勝つチャンスを与えたい」よりも「負けのリスクにさらしたくない」が先に来るのだと思う。

 もっとも、まだ生まれていない子供にとっては、勝負に参加しなかったところで何の問題もないはずなのだ。「人類の存続」や「幸福な人を増やす」といった公理の採用者、さらには彼らがマジョリティを占める世間一般からすれば、反出生主義は負け組的な態度なのかもしれない。しかし、「不幸な人を減らす」という公理に基づけば、生殖しないことは苦痛の連鎖を断ち切る勝利なのである。


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