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世俗のきわみとしての自称・反出生主義について

 興味深かったのでシェアするついでに少しコメントのようなものを。

 反出生主義はそもそも「生まれてこない方がよい」と主張するものなので、世俗の常識からは外れる、むしろそれを否定しにかかる思想である。しかし今回紹介する記事では、世俗の価値観を内面化した結果、「反出生主義」を名乗るようになる人々の存在が指摘されている。

 詳しくはリンクから読んでもらうとして、その中では「遺伝子を残したくないから子供をつくらない自分は反出生主義者」だと思っていた人が、自分の考えはむしろ「優生思想」なのでは?と気づいたというツイートが紹介されている。確かに、「自分の」遺伝子を残したくないということは、反対に遺伝子を残すべき人間がいるということと表裏一体であり、これは全ての出生を否定する反出生主義と一致しない。

 記事では、彼らは成果主義や能力主義、自己責任といった現代の世俗的なものをあまりに内面化しすぎた結果、このようなミクロな優生思想に行きついたのだと指摘されている。世俗の肯定/自身の否定の結果として「反出生主義」という世俗を否定する側の思想を名乗るようになるのは興味深い。

 ここから少し自分なりのコメントをさせていただく。まずそもそも「自分の遺伝子を残したくないから子供をつくらない」というのは「優生思想」なのだろうか?というのは、優生思想というのはそもそもは「人類の遺伝的改良による文明・社会の改良促進」のための思想である。そのため、例えば「自分と同じような才能・容姿・気質で生まれてきた子供は社会で生きづらい可能性が高く、生むのは可哀そうだ」という理由で子供をつくらない場合、それが「優生思想」かと言われると私としては違うんじゃないかと思うからである。

 記事の中で紹介されていたツイートの文言だけでは、発信者がどのような理由で「自分の遺伝子を残したくない」と考えているのかはわからない。しかし私がTwitterを見ている限りでは、「自分の遺伝子を受け継ぐ子供は社会のお荷物になってしまうから…」という理由よりも、「自分の生きづらさを再生産することになってしまいそう」という理由のほうが、子供をもちたがらない理由としては多いような印象がある。

 もっとも、子供が社会に貢献できるかと社会に適応できるかは一致する部分も多い。どのような理由であれ「自発的な断種」が結果として優生思想的であると言うことはできるかもしれない。

 また「自分の遺伝子を受け継ぐ子供が可哀そう」というのも世俗の価値観を内面化した結果だと考えることもできる。能力主義や成果主義・自己責任といったものを肯定はしていないものの、それらを変えることができないため、それなら子供はそういう社会に巻き込まないでおこうと考えた結果の「反出生主義」というわけだ。

 そもそも反出生主義自体がそういう諦観的な側面をもつように思う。生まれてきたら苦しむことは避けられないし、その運命自体は変えられないのだから、それなら産まないでおきましょうとなる。成果主義や能力主義、自己責任などはその苦しみの一部に過ぎない。

 反出生主義それ自体は世俗的価値観の対局にあるように見えるが、そこに至るまでのステップというのは、必ずしも我々の常識から外れたものではない。だから、「自分の遺伝子を残したくない」というのは本来の優生思想的なものかもしれないが、一方で「では誰なら遺伝子を残してよいのか?」という問いへとつながれば、反出生主義につながる道筋というのも見えてくるように思う。

 どんな理由であれ、自分の子供をつくらないという選択それ自体を反出生主義は否定しないであろう。とはいえ、反出生主義という思想に混ぜ物が入ってしまうことは歓迎されるわけではない。これから「反出生主義」という言葉の知名度が上がるにつれて、この前に私が記事で取り上げた「傾斜配分の反出生主義」のような、反出生主義そのものではない思想も増えてくるのではないかと思っている。それはある程度は仕方のないことなのだろう。

↑ これも世俗的価値観が反出生主義と混ざってしまった例と言えるのかもしれない。

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