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千代里〜芸者以前①〜

芸者をしていたというと、「女らしくていいですね。私は全然ダメなんです」というお言葉をいただくことがあります。

私からしてみれば、そうおっしゃる目の前の方は十分女性らしく、いつも申し訳ない気がしてしまいます。

そもそも私は、小さい頃はずっと男の子に間違われていました。髪は短く、夏は真っ黒に日焼けをして、「何回皮がめくれたか自慢」をしているような子供だったのです(当時の「田舎の子あるある」です)。

足が速く、運動神経も良かったけれど、あやとりはホウキくらいしか作れず、編み物もすぐに目を飛ばしてしまい、私が仕損じた編み物を直せる女子をいつも眩しく見ていました。そんなわけで、「窓辺で編み物を編みながら時折紅茶を飲む」というような古典的な女性像に未だに憧れを抱いています。

幼稚園のおままごとでは、ついに一度もお母さん役もお姉さん役もさせてもらえず、運良く仲間に入れてもらえても、与えられるのはおばあさん役かおじいさん役!。おじいさんはいくらなんでもかわいそうじゃないのよ。

そんな私が芸者になったそもそものきっかけは、祖母。

私は両親の遅いときの子供だったので、生まれた時には母方の祖母しかこの世にいなかったのですが、祖母は普段から着物を着ていて和裁が得意でした。

着物や浴衣を縫っては、男の子のような私にそれを着せてくれたのです。

色が真っ黒で、なぜか前髪はヘルメットのようにパツンと切られ、鼻がぺちゃんとして(結婚13年目に難産の末生まれた私の顔を見に来た父の兄から「こいつ、鼻あらへんぞ。洗濯バサミでつまんどけ」と言われたそうな・・・)、きわめつけは前歯が虫歯だらけの私に着物を着せてくれたのは、どういう意図だったのでしょう。

写真を見ると、我ながら「お気の毒・・・」という感じがしてしまいます。かわいそうに、親戚のおじさん、おばさんなどからははっきり「あ〜あ」という感じのことを言われていた記憶があるのですが、祖母や両親は案外「ばばバカ」「親バカ」で、可愛いと思ってくれていたのかもしれません。

そうであることを祈ります!

物心ついた時から、周りの子供たちが「女の子」と認めるなかに自分が入っていないことも感じていましたし、赤もピンクもリボンもフリフリも、女の子がおよそ憧れるものは全てに合わなかった私は、それでも、「着物っていいなぁ」という感覚を密かに持ちながら大きくなっていきました。そこが、花柳界に憧れる原点になっていると思います。

祖母は、一つ一つの動作が丁寧な女性でした。祖母がパッチンで止めるベルト付きの靴を履かせてくれるときには、自分が大切なものになったような気がしたものです。

腰の曲がっていた祖母は手押し車が必需品で、小さな段差でも、その都度止まって車輪を持ち上げ、ガタガタしないように綺麗に歩いていました。それを見ながら一緒に琵琶湖のほとりまで歩いて、鳩に餌をあげるのが私にとっては特別な時間でした。

今も憧れるのは、あのゆっくり動くおばあちゃんのシワシワの手。

花柳界に入ったら、そういうことも自然と身につくかと思ってたけれど、そうでもなかったなぁ。

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