百千鳥のスタンス

今回の兼題は百千鳥。手持ちの歳時記を見る限り傍題はありませんが、大漢和辞典には「百鳥(ひゃくちょう)」、大国語辞典には「百鳥(ももとり)」という言葉があります。それぞれ、数多くの小鳥、色々な種類の鳥を指すとされていました。昔の誰かが「百じゃ済まないかもしれない、もっと多くいるぞ、『百千の鳥』だぞ」と思ったのでしょうか。万葉集には「吾が門の榎の實もり喫む百千鳥千鳥は来れど君はきまさぬ」とあり、1400年前にはあった言葉で歴史が深い言葉です。

歴史はともかく、五音の季語。十二音を作って上の句か下の句に置くのが無難だろうと思いました。しかし、ここで疑問が。十二音を作るとして、「百千鳥」と組み合わせるのに相応しい十二音はどんなものなのだろうか、と。

歳時記によれば百千鳥は「様々な鳥が競うように鳴く」様子だそうです。何を競っているか。百千鳥の次の項、「囀」の項によると、オスからメスへの呼びかけであり、縄張りの主張をしているとのこと。これらの集合体が百千鳥でしょうか。ともあれ、「囀」と「百千鳥」の例句を比べてみることとしました。

まずは比較対象の囀から。

囀や二羽ゐるらしき枝移り(水原秋櫻子)
囀が聞こえる。枝から枝へ移る鳥は二羽いるようだ。

この二羽、求愛をしている雄と、焦らすかそれとも雄を値踏みしている雌なのでしょうか。もしかすると縄張り争いの雄同士?枝から枝へ移る鳥がいると、詠み手は知覚しました。それが二羽がいる「らしい」。実際に鳥の姿を見てはいなく、聴覚だろうか、何らかの視覚以外の感覚で察知。そして、囀だけでなく、枝移りの音や気配を察したのでしょう。何らかの駆け引きが行われていると、感じられるくらいに。

囀やピアノの上の薄埃(島村元)
囀が聞こえる。ピアノの上にはうっすら埃がかかっている。

囀の例句では一番好き。外では鳥が囀っている状況があり、うちの中ではピアノにうっすら埃がかかっています。鳥が囀る季節、なのに、ピアノはしばらく弾かれていないことが分かります。ピアノを弾いていた人は何者なのでしょうか。春の憂鬱さでピアノを弾く気にもなれないのか、それとも、春を迎えてピアノを弾いていた人が家を出ていったのか、などと。
囀と無音のピアノの対比の中、春の憂鬱さや春ならではの人の移動などを感じた句です。

囀をこぼさじと抱く大樹かな(星野立子)
鳥の囀りをこぼさないぞ、と抱く大樹であることよ。

大樹が擬人化されていますね。鳥にとっては、大樹の枝は逞しく、囀をこぼさないように抱いてくれているように感じるのかもしれません。一方で大樹の方は春を迎えた鳥の声をこぼさないぞ、という決意。
囀という季語に、春を迎えた子供の声が投影されていたら?そして、子の言葉をこぼさないように聞き取ろうとしている大樹、すなわち大人がいるのでしょうか。こんな親になりたいですね。

次に百千鳥。

入り乱れ入り乱れつつ百千鳥(正岡子規)
色んなものが混ざり合い混乱し、混ざり合い混乱しつつ百千鳥。

色んな鳥が沢山いて、混ざり合って混ざり合って混乱した状況。囀り、飛び交い、枝から枝へ移る数多の鳥。入り乱れが繰り返されることでその数や小鳥たちの生命力を感じます。百千鳥とはどのようなものかの定義が見出だせる句。正岡子規はやはり凄い。

百千鳥雌蕊雄蕊を囃すなり(飯田龍太)
1 百千鳥(が)雌蕊(と)雄蕊を囃す(のが)聞こえる
2 多くの鳥が囀って飛び交っている。雌蕊(は)雄蕊を囃す(のが)聞こえる

助詞をどこに付けていくかで少し解釈の仕方が変わるかもしれない句。むろん、句の中で音声を立てうるのは「百千鳥」。しかし、「囃す」には音楽の拍子をとるという意味もある一方、「その気を起こさせる」という意味もあります。多くの鳥が盛んに鳴き、飛び交って、繁殖や縄張り争いのために囀っていて、それらの声が雌蕊と雄蕊に対して、受粉を促す囃子となっているのでしょうか。あるいは、数多の鳥が囀り飛び交うのを雌蕊が察知して雄蕊に受粉を促しているのか(この読み方は、中七が雌蕊→雄蕊の順に並んでいるのを見て、はてな、と思ったことによります。雄蕊→雌蕊だと上五の「も」音と中七の「お」で母音が一緒になり、韻が生じる筈だけど、と考えました)。どちらにしても数多の小鳥が囀り飛び交ってるのだから、雌蕊と雄蕊は単体ではないことでしょう。多くの草木の花々に受粉が促されている。小鳥たちの囀り、その動きも相俟って、春の命の営みを詠み手は感知して、喜んでいるように見えます。

おのづから膨るる大地百千鳥(村越化石)
自然のままに、内から外へ張り出していく大地。百千鳥。

何て雄大な句でしょうか。大地には広大な土地という意味もありますが、天に対しての地、地面そのものの意味もありますね。自然のまま大地が内から外へ張り出して行く、「何事!?」と思ったら、春になって多くの種類の鳥が囀りながら飛び交う光景が出てくる。そしてもう一度読み直すと、大地が膨れるというのは、春が来て草木がしげりだし、膨らんだのだ感じます。そして空や樹木には、様々な鳥が数多、囀りながら存在するのだと。

ここまで、角川ソフィア文庫の俳句歳時記に挙げられている例句を、三句ずつ鑑賞してきました。囀と百千鳥を比べると、百千鳥の方がスケールが大きい季語なのは一目瞭然でした。

さて、実際に句を作っていきます。

(沈黙との比較はどうなのか)
囀りにしろ百千鳥にしろ、聴覚に刺激を受ける季語です。また、数に差はあれ、囀ずる鳥の動きも視覚的に感じられますね。
「本来音がするところなのに、沈黙があったり、無人の状況がある」と、考えていくのもありえるかもしれません。しかし、この方向で句を作る場合でも危険な部分はあると考えます。
たとえば、「囀やピアノの上の薄埃」(島村元)という句を「百千鳥ピアノの上の薄埃」としてみます。何か違和感を覚えます。音域の広いピアノとはいえ、一つの楽器です。百千鳥の中にあっては一台のピアノの音が負けそうな気もします。百千鳥がいろんな種の鳥が入り乱れ飛んでいるなら、色んな楽器が活躍する、交響楽団、吹奏楽部、等と比較するべきとなるでしょうか。
音楽関係とは違くとも、いつもはお喋りな人が黙っているというレベルでなく、普段は人でごった返しているスクランブル交差点とか、商店街などが何故か静か、という広い光景と比較した方が良いかもしれません。

(どこに視座を置くか)
百千鳥雌蕊雄蕊を囃すなり
この句は「囃す」+「なり」で、詠み手が「囃すように聞こえた」と言っています。句の視座は詠み手であり読み手。地上からの光景。

おのづから膨るる大地百千鳥
こちらは、詠み手の主観的視座だけでなく、「おのづから膨るる大地」を観察できる俯瞰的視座も感じられます。というのも、鑑賞をするにあたり、大地が膨れる→季語百千鳥と出会う→再び上五から読み直すと百千鳥の高さから大地を見下ろす、というカメラワークで読んだからです。旅番組でドローンで近景から飛び上がり、風景を見下ろす映像があったりしますが、あんな感じを受けました。また、地上から、空中からと視座を固定するだけでなく、動かしてみるのも可能かもしれません。

(どこなのか、いつなのか)
どこで数多の小鳥の動きを見て聞いているのでしょうか。

山、丘、森林、野原、湖、川辺、庭、町中、公園、田圃、畑、建物の中などなど、どこを選んでも類想になりそう。ならばそれらの場所にある、限定的な場所なら?
ただ、森の入り口だとか湖畔で百千鳥を感知したけど、双眼鏡を覗いたら眩しくて姿が見えなかったとか、森を歩いてるだけとか、無人駅とか廃校だとか静かな場所を取り出してもベタ、となりそう。たぶん頭の中で句を作るとそういうものの網にかかってしまうことでしょう。
やはり、実際に季語を感じに行った方が得策でしょうか。その時がいつか。誰と。季語以外の何を感じながら季語を実感したか(百千鳥が聴覚、視覚的に強い。また多くの鳥の恋の囀りや縄張り争いをしてるのならば、連想力も持ってそう。ならば、案外触覚や味覚、嗅覚と組み合わせてみるのも一つかも)。例句のようなダイナミックさは詠めなくても、オリジナリティが出せるかもしれません。

というわけで、今回は2句投句します。

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