見出し画像

「笑うガーベラ」 上

1分小説
この物語は2章構成になっています!


第一章


里田瑠璃(さとだ るり)は、28歳。東京の片隅にある和菓子屋「花霞庵(はながすみあん)」で働いている。彼女の笑顔は、いつも店に来るお客さんたちを和ませ、朝の通勤ラッシュで疲れ切った表情さえもふっと緩ませる力を持っていた。


その日も、瑠璃は朝の開店準備をしながらショーケースに並べる和菓子の色彩バランスを整えていた。彼女は色彩検定の資格を持っていて、和菓子の淡い色合いを生かす並べ方に一際こだわりがある。桜色、抹茶の緑、柚子の黄色。隣り合う菓子同士の色の相性を考え、見ているだけで心が落ち着くようなグラデーションを作り出していた。


「おはよう、瑠璃ちゃん。いつも綺麗に並べてくれてありがとうね」


花霞庵の主人、徳田修二が声をかけてきた。60代の彼は、瑠璃の繊細な気遣いに感謝しているのだが、同時にどこか心配もしていた。瑠璃は人一倍、相手の気持ちを考えすぎる癖があり、自分のことは後回しにしてしまうからだ。何かを頼むときも、彼女は必ず相手の顔色をうかがい、誰かが嫌な思いをしないよう、絶えず気を配っている。


そんなある日、瑠璃は一人の男性客に出会った。彼は「ガーベラ」という名前の和菓子を買い求めていた。ガーベラは、瑠璃が初めて考案したオリジナルの和菓子で、彼女にとって特別な存在だ。丸い練り切りの中心に、花びらを模した繊細な飾りをあしらい、ほんのりと淡いピンク色をしている。


「これ、あなたが作ったんですか?」


その男性は30代半ばくらいの落ち着いた雰囲気を持っていた。背が高く、少し癖のある黒髪が優しく揺れている。瑠璃は少し戸惑いながらも頷いた。


「はい、私がデザインしました。ガーベラの花って、すごくポジティブな意味を持ってるんです。『希望』とか『笑顔』とか……だから、食べた人が自然と笑顔になれるようにと思って」


「へえ、いいですね。僕、ガーベラが好きなんです」


意外な答えに、瑠璃は驚いた。男性客は和菓子屋にしては珍しく、商品についての由来や背景を熱心に聞いてきた。そのやり取りが、瑠璃にとってはどこか特別なひとときに感じられた。


しかし、それから数日経っても彼は再び店を訪れることはなかった。どこか物足りない気持ちを抱えたまま、瑠璃は忙しい日々を過ごし続けた。気遣い屋の瑠璃は、いつも通りにお客さんのことを考え、周りの空気を読むことに集中していたが、その彼がふと頭をよぎるたび、胸の奥で小さな感情がじわりと疼くのだった。


ある日の閉店後、瑠璃は店の裏庭に咲く花壇を眺めていた。ふと見ると、そこに一輪のガーベラが咲いていることに気づいた。瑠璃はその花に目を奪われ、しばらくじっと見つめていた。


「おかしいな、ここにガーベラなんて植えた覚えないのに……」


そう呟いた瞬間、心に浮かんだのは、あの男性客のことだった。


「また来てくれるかな……」


瑠璃は自分でも信じられないような感覚に襲われた。それは、お客さんを気遣うのとは異なる、もっと個人的な期待感だった。胸の奥に芽生えた、その小さな花が誰に向けたものなのか、彼女にはまだ気づいていなかった。


つづく



Kindle unlimitedで無料で読めます


よろつよ



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?