「自己啓発」観(非学問的走り書き)

自己啓発、とは一体何なのか。その言葉の語感からして、本来的にその意味は「自己を啓蒙する」こと、「自らをより高い次元へと押し上げること」という意味に近接するのだろう。さて、その「高い次元」とはなんなのか。少なくとも全ての人にとってそれが、「出世」だとか「成功」に当てはまるものでもないのは当然のことだろう。大体の出世を求めない人、つまり私のような凡人にとって見れば、出世とは割に合わない給料と、食べられないくせに価値だけは高い名誉と、その名誉の分だけ過重な責任を押し付けられる不幸の始まりだ。ほとんどの、自分の力量を見極めている人(これは何も自分の力量を過小評価することではなく、自分の出来ることと出来ないことをそれなりには知っている人のことだ。)にとって、そして今自分がやっていることに対して満足している人にとって、出世とは幸運ではなく不運である。昇進制度によって、組織とは構造的に無能の集まりとなる、という話はもはや読者諸兄にとって周知の事実だろう。もちろん、自らをより高く、より高くへと上げようとする向上心を持つ人間を非難している訳では無い。現状に満足することは少なからず「滅び」へと繋がる可能性を有しているからだ。「墨守」や「鶏口牛後」という言葉を挙げればそれはもはや言うまでもない。「成功」という言葉にしてもそうだ。そもそも成功とは何をもって成功とするのか。ほとんどの方々はコンテンポラリーな社会的な名誉を獲得すること、であると考えているだろう。だが、コンテンポラリー、一時的な社会的な名誉よりも、永遠(そもそも宇宙は遥かなる(それでも人間にとっては永遠に近いような)年月の先に滅びる運命にあるのだが)、もしくはそこまではいかなくても自らの死んだ後に長くその名前を残すことになる、ということも、またひとつの成功では無いだろうか。これは極論でしかないが、成功において蓄財をしても、自らが死ねばその財産は、もし子供や親族が居るならば彼らの元へ相続される。もしかしたら遺産をめぐって彼らが不幸になるかもしれない。もしそのような人間がいなくなれば、大抵の場合公共の財産になるか、もしくは何かしらの手段で誰かの手に渡るだろう。人は死後の世界へ自分の財産を持っていくことが出来ない。もし死後の世界がなくとも、どっちにしろ人は財産を使うことが出来ない。もちろん、後世に残すため、という意味をもって財産を貯める人間もいるだろうが、そういったような目的による貯蓄は、成功というよりかはむしろ成功の先送りと言える。「死後の名誉」なんて成功では無い、という人もまた存在しうる。であるから、「死後の名誉」ということも唯一の成功では無い。
そうなってくると、「出世」だとか、「成功」だとかは、自己を高い次元にあげる、ということの唯一の方法あるいは目的でない、ということになろう。もちろんそれが間違っている、というわけではない。それらのこともまた一つの「自己啓発」の目的でしかない、ということでしかない。こうなってくると、あらゆる自己啓発本は、本によってその内容が異なることになる。人によっては感情を表に出すことがいいし、人によっては感情を表に出さず裏で吐き出すのが良いこともある。そうなると、自己啓発本を読んで「自己啓発したい」という人は啓発されているはずなのに逆に意味がわからなくなってくるはずだ。自己啓発本の著者は自分では少なくともない。自己啓発本によって成功した人と、また自分では無い。自己啓発本が流行るのは、恐らく「手っ取り早く自己を高い次元にあげたい」という欲求からだろうが、自己啓発本によってそういった目的を果たすためには、手っ取り早く、ではなく、根気強くそういった本を蒐集する必要がある。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?