誰かや何かの犠牲に成り立つ美しい世界を、果たして
「天気の子」を観に行ってきた。
自分の整理のために書く。
※ネタバレあり
誰かの犠牲の上に綺麗な風景や生活があるとしたら。
その犠牲になるものが自分の大切なモノや価値観だったら。
自分なら何を選ぶんだろう。
っていうのが、観終わって一番に浮かんだ感想だった。
帆高が、陽菜の犠牲で空が晴れたことに対し、警察官に怒りをあらわにするシーン。
大人に武器を向け、発砲し、本気であることを示すシーン。
泣けたぁー
「知らない」を良いことに、私達は苦しまず当たり前のように毎日を送ってるけど、
一方で、親が死に、必死に姉弟で生きてる子達がいるかもしれないし、そのせいで危ない仕事に巻き込まれてるかもしれない。児相に保護されれば、一緒に暮らせなくなる、自由な生活が奪われるかもしれない。
そういう人達が、この世界にはいるんだよ。
例えば国の支援が足りないことでの犠牲者達。
守ってくれる大人や上司がいないことでの犠牲者達。
安心安全な国の裏側で汚いことを引き受けてくれている犠牲者達。
そういう人達がいる社会で、私達は生きてる。
帆高はその犠牲になっているのが誰だか知っている。しかもその人が自分にとって大切な人だってことも。
だからわかってもらえない相手、大人に本気で立ち向かう。自分が弱い存在なのがわかってるから武器を持つ。だって弱い存在に耳を傾けてくれない社会だってことも知ってるから。
何も知らずに生きてる人は、帆高のように全てを知った上で選択をした人を、責める権利があるのだろうか。
作中で言えば、彼らの選択によって東京は雨の降り続く街になってしまったけど、
それを誰が責められるんだろうか。
誰かや何かの犠牲に成り立つ美しい世界を、果たして知らぬ側は「美しい」と歓喜していいんだろうか。
作中、語られないことがたくさんあります。
たとえばなぜ帆高は家出したのか。
東京に向かう船の中、顔に絆創膏を貼っていた帆高は、本当は犠牲者だったのではないか。
余白と余韻をたくさん残してくれる映画だったな。あえて語らぬ事もある。
ちょっと話逸れますが、曲の入りがズルいんですよ。帆高がお空の上から陽菜を助け出したとこ、あそこでの盛り上がり方、なんなの。
観ながら「ずるいわぁ…」と泣いてました。
愛にできることはまだあるかい?
僕にできることはまだあるかい?
愛にできることはまだあるよ
僕にできることはまだあるよ
この映画を観た私には、何ができるかなー。
もう一回観に行こうと思います。