打牌批判と阿呆

神域リーグを主催する、Vtuberの天開司さんが、神域リーグの出場を辞退した。
理由はしつこい打牌批判にモチベーションが下がったからである。
ついに打牌批判が実害を出してしまった。
打牌批判肯定派はこの事象に何を思うのだろう。
なぜだろう?私には理解不能である。天開司さんはハッキリと、『打牌批判は迷惑』と言っている。にも関わらず、わざわざ天開さんの配信に行き、打牌批判を繰り返す。迷惑がっている相手にその行動を繰り返すのは、
コロアキと大差がない。
阿呆なのか?日本語が読めないのか?
本当に理解出来ない。
しかし、理解出来ない、理解出来ないだけでは進歩がない。
ここは一つ理解する努力をしてみよう。
主に二つの事柄について考察してみた。
打牌批判をする人はどういう人物なのか?
どんな思考で打牌批判をするのか?
結論だけ先に言うが

やはり打牌批判をする人間の大半は阿呆である。

以下にその理由を書くが、私の持論として

批判するなら批判される覚悟を持つ

打牌に正解はない


この二つを念頭に置いて読み進めてもらえば幸いだ。

✭打牌批判をする人はどういう人物なのか?

①ネット弁慶阿呆


ある意味一番典型的な阿呆ではないだろうか。ネットという匿名だから批判する人間である。

そして自分が批判されたり、炎上したりすると秘技アカ消し隠遁の術使う。

私はいま打牌批判阿呆を批判している。批判される事も覚悟している。反論があったら反論するし、自分の考えが間違っていれば反省し、謝罪する。私は考えを変える事を恥ずかしい事とは思っていない。その覚悟もないからネット弁慶阿呆なのだ。

②天鳳中段者阿呆


私見ではあるがこの阿呆が一番多い印象だ。
Xで批判を繰り返している人間のヘッダーをみると、ま〜出るわ出るわ、天鳳四段、天鳳五段、天鳳六段の文字。そしてこの手に多いのは、神の目批判である。視聴者だからこそ分かる情報を持って批判してるのである。そして厄介な事にその事に気付いていない阿呆である。確かに天鳳は素晴らしいアプリだと思う。麻雀格闘倶楽部とは雲泥の差だ。
だが段が上がったきたからと言って、自分が特別な存在になったと思うのは大間違いだ。

③勘違い阿呆


②と通ずるものがあるが、要は自分の方が上手い、強いと勘違いしている阿呆である。一番救いようがないかもしれない。なぜなら恐らく本気で思っているからである。そしてこの手の特徴として、麻雀を理解していない支離滅裂な批判をする。
例として、自分の考えと違う打牌が上手くいくと、運が良いだけじゃん等の批判をする。
つまりは自分の方が上手いと勘違いしているから、批判したくてたまらない阿呆である。

④無自覚阿呆

厄介だ。厄介である。本人に批判している自覚がないのである。あまつさえ打牌批判を批判する。自分に特大ブーメランが突き刺さっているのに気付かない鈍感である。

⑤例外

しかし、打牌批判をしている人の中にも例外がいる。
ちゃんと話が通じるのだ。
昨日Xで打牌批判肯定派の方とやり取りしたが、キチンと自分の考えを説明されてる方だった。私の考えとは相容れなかったが、嫌な気持ち一つしなかった。


✭どんな思考で打牌批判をするのか?

①暇潰し 憂晴らし

ネット弁慶阿呆は、殆どこれに当てはまるのではないだろうか。大した覚悟もなく、暇潰し、憂晴らし程度の気持ちで批判する。そしてカウンターをくらったら隠遁の術である。

②俺の方が上手い

中段者阿呆、勘違い阿呆に多い。特に勘違い阿呆は、麻雀の本質を理解していない。
前項でも書いたが、運を否定したら麻雀というゲームは成り立たないのだ。
そして中段者阿呆は見えないものを見た気になって批判しがちだ。バンプか?天体観測か?
見えないものを見ようとする努力は必要だろう。

だが見えないものは見えないのだ。


③勘違い

そしてそもそも論として、打牌批判はマナー違反だ。
これを言うと、批判じゃない、意見だと返ってくる。
だが多くの人が批判と意見を勘違いしているのだ。
意見とは相手の話も聞き、自分の意見も聞いて貰い、そこに議論が生まれる。
これが意見である。
対し批判は、自分の考えを正解とし、相手を非難する。
これが批判である。

♦結論

私の持論は

打牌選択に正解はない


である。
例えば、ドラ3万、場に2筒が三枚見え、手牌は1、4筒ターツ、カン3万ターツ、5、8索ターツ抱える一向聴、ターツ選択の時だ。結構な人はカン3万ターツを整理するのではないか。私だってそうする。
特に1、4筒ターツは、山に1筒が残っている可能性が高く、テンパイした時の待ちとしても優秀だ。
だが、この選択が裏目を引くことなんてザラにある。
ならばこの選択は間違いだろうか?
私はそうは思わない。それは個々によって、目指す所が違うからだ。打点派の人なら、断么九を失う可能性を嫌い、1、4筒ターツを整理するかも知れない。バランスを取りたいなら、5、8索ターツを整理して、ドラと4筒引きに賭ける人もいるかも知れない。その結果裏目になろうとその人の責任。
逆にいえば、

上手くいった嬉しさも、裏目の悔しさも本人の物だ。


そこに外野がやいのやいの言うのは下品だろう。
長くなったが、打牌に正解がないなら、批判にならない。批判ではなく非難だ。
しかも酷いのになると、罵詈雑言、誹謗中傷のオマケ付きだ。
そして、今の今まで打牌批判によって、上手くなりました、という言葉を只の一度も聞いた事がない。

要するに時間の無駄である。


今回私は批判肯定派をかなり痛烈に批判した。批判も覚悟のうえである。

しかしこれが、打牌批判や誹謗中傷に対する議論の参考になれば幸いである。


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