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卒業に想いを馳せる

◼️プロローグ

3月は別れと出会いの季節ですね。
いよいよ、それぞれの卒業を迎えた皆様へ。

おめでとうございます。

コロナ禍で通常とは異なる生活に、悩み苦しみ、もがきながら、「今」に至っていることでしょう。新天地へ向かって、強く大きく羽ばたいていってください。未来に幸あれと、ただただ願うばかりです。

さて、今回の記事は、いつものFOOTBALL記事から離れた内容になります。少しだけ長い構成になっていますが、最後までお付き合いください。

よろしくお願いします。

◼️卒業

このフレーズを聞くと、それぞれの年代に流行った「卒業ソング」で小一時間は盛り上がることができますね。第2ボタンの物語、好きだった人との物語、担任の先生や学級の物語・・・・。キラキラ輝いていたり、少しだけ寂しかったり、それぞれの「想い」があってステキだなぁと思います。

私にもありました。
あの日あのときが、今でも一瞬にして甦ります。ただ、思い出せないことも山ほどあります。記憶は曖昧でありながら繊細。繊細でありながら曖昧。

今回はずいぶん昔に戻ってみようと思います。
小学校時代
一緒に卒業式を迎えたかったなぁ~というお話。

ぜひハンカチのご準備を。
ラスト 涙無しには読めない感動超大作です(笑)

◼️ちょっとだけ自分の話

私には人生のなかで、2回だけ母親に対して猛烈な怒りと、憤りと、悔しさをぶつけたことがあります。その1回目、小学校6年生の出来事が今回のメインストーリーになります。

ただ、誤解の無いように先に述べますが、今となっては当時の母の年齢をこえて、自身が親となってその出来事を理解し、噛み砕きながら消化することができています。

さて、私の生い立ちはnote記事10回分ぐらいの濃いネタになるので、ほぼ割愛させていただきます。もし、講演の御依頼があればコロナが落ち着いたら駆けつけますので、TwitterまたはInstagramにご連絡を(笑)

おふざけはほどほどにして。
本題へ。

私は小学校2年生で自ら親元を離れ、歩いて15分、自転車で10分もかからない祖父母宅へ身を寄せました。近いですね(笑)。1軒家に母方の祖父母が二人だけで暮らしていたので、部屋は広々と使えてとても快適でした。

では一気に小学校6年生へと成長します(笑)

◼️小学校最後の運動会

さて、小学校6年生頃になると、自宅へ帰る回数はめっきり減っていました。とは言っても、学校からの帰り道に一度自宅を経由していた記憶はあります。少しだけ過ごすと、すぐにサッカーの練習に行くために、祖父母宅へ戻って準備して練習に行っていました。

自分にとっては慣れっこになり、不自由もあまり感じなくなってきた時期でもありました。ここ一番重要な何かがあるときは、しっかりと母に伝えるために帰宅していました。

そして、1枚のプリントが配布されたのです。

そのプリントには、6年生最後の運動会で親子ダンスをするという内容で、運動会当日、保護者は白い上着を着用して欲しいというお願いが書かれていました。

その年の夏、自身の不注意で手術をしなくてはならないほどの大怪我をしてしまいました。そのため、6年生の見せ場の種目に位置付けられていた「組体操」にほぼ参加することができなくなったのです。自身の不注意が原因だった訳だから、親子ダンスぐらいはしっかりやって想い出を作らなきゃと思い、母と打ち合わせをしました。

「プリントちゃんと、目を通しといてね。白い上着を着用してって書いてあるから!!」

何度も伝えました。

親子ダンスは午後の種目。お昼ごはんを挟んだあとに設定してありました。数名の生徒は、既に保護者の参加が厳しいということで、代わりに先生が一緒に踊ってくれるという段取りになっていることを、友人が話していたのを聞いていました。

母は私のサッカーの試合を1度も観戦しに来てくれたことはありませんでしたが、運動会は得意の料理で豪華なお弁当を作ってくれて必ず来てくれていました。母なりの使命感もあったようです。二人の兄も同じだったように、運動会は我が家にとって年に1度のビッグイベントというべきものだったのです。

しかし、そのビッグイベントに暗雲がたちこめたのは、お昼ごはんのときでした・・・・。

◼️待てども待てども

午前中のプログラムが終わり、お昼ごはんを準備し、場所取りをしてくれている母の元へ。午後の出番は、残すところ親子ダンスだけ。しかし、目に飛び込んできたのは、紺色(または黒だったと記憶している)の上着を着た母の姿でした。

「白を着て来てって言ったのに・・・。でも、そのままでいいから、放送席からアナウンスがあったらグラウンドの俺の場所まで来てね」

「わかった、わかった。またあとでね。」

そんなやり取りをしました。
まぁ白い上着じゃなくてもいいや。一緒にダンスを踊ってくれればそれで十分。そんな思いを持ちました。

そしてアナウンスが流れました。
“次は6年生による親子ダンスです”
各クラス、生徒が作った大きな円に、外側からそれぞれの保護者たちが自分の子どものところへ移動してやってくるのです。

1分ぐらい経過すると、半分ぐらいの保護者とその子どもがペアとなり準備万端の体制をつくっていきます。さらにアナウンスが入ると残りの半分が駆け足で我が子のところへ急ぎます。

2分ぐらいが経過すると、保護者が参加できない子どもたちのところへ、担任の先生や他学年の先生がささっとペアになっていきました。前もって都合がつかない家庭は連絡することになっていたので、先生方もしっかりと打ち合わせて、自然とペアが完成していました。

ところが、ところがです。私の母がなかなか姿を見せてくれません。キョロキョロと辺りを見回すけど、来る気配も感じないし、何となくダンスの円は完成してきてるし、とにかく不安がどんどん襲ってくるし・・・。

「何で、何で来てくれないんだ・・・」

今でもその場面は忘れもしません。はっきりと記憶しています。明らかに正面の本部テント周辺が少しざわつき始め、先生方が慌て始めていました。

そりゃあそうです。一切事前の連絡を受けていないはずの私のところに、ペアになるはずの母がその場に来ていないのですから。

そして、次の瞬間でした。
本部テントの脇から、白いシャツを着た先生が、私の元に大急ぎで走って来てくれたのです。

その先生は、産休代替として勤務されていた、音楽専科の若いお姉さん先生でした。

「よし!!一緒に踊ろう!!」

満面の笑みで声をかけてくれました。めちゃくちゃ安心して、今にも泣きそうになったのですが、必死に堪えました。泣くのを必死に堪えたところまでは記憶していますが、ダンスは全く覚えていません。

「ありがとうございました」

ダンスが終わってお礼を伝えると、お姉さん先生はこう返してくれたのです。

「な~に言ってるの!こちらこそ、ありがとう。楽しかったよ!!」

ダンスの最後も満面の笑みでした。

◼️子どもの心

運動会が終わり、友人と談笑しながら帰宅しました。しかし、徐々に母に対する怒りがこみ上げてくるのがよくわかりました。行事の日の夜は、みんなで食卓を囲むという暗黙の了解があったので、祖父母宅に戻らず、自宅へ食事をするために向かいました。

帰宅するやいなや、母の姿が目に入った瞬間、私は怒りをおもいっきりぶつけました。止まらない涙と一緒に。

「何できてくれなかったの!そのままの服装でいいって言ったのに!何で!」

「ごめん、ごめん」
母は苦笑いしながら、その場を何となくやり過ごそうとしたので、さらに火がついた私は、一言二言、罵声を浴びせました。

そのときでした。側にいた高校3年生の兄が私に向かって、淡々と語りかけてきたのです。
「おい。もうそのへんで我慢しておけ。今さら文句をぶつけて何が変わる?お母さんには、お母さんの都合が何かあったんだ。だから、こんな時もあるって思え。だから泣くな。」

幼かった頃から、長兄の言葉には、不思議と納得させてくれる力が備わっていて、その時も怒りの感情がすぅっと落ち着いていったのです。

ただ、成長を重ねるごとに、あの時のことを思い出しますが、兄の言葉はめちゃくちゃ理不尽だなって、笑えるようになりました。

そして、兄の言葉には強いメッセージが隠されていたことに、当時、すぐに気づいたのです。

「泣くな。甘えるな。求めるな。現実から目を背けるな。これが我が家で、我が家族なんだ」と。

子どもの心には、人それぞれに、人生のターニングポイントとなるきっかけがあるのではないでしょうか。子どものときにしか得られなかった感情があり、その時の感情を何らかのきっかけで理解できたり、誰かに話せるようになったり。

兄の言葉が背中を押してくれて、親に対する甘えと決別した小学校6年生の秋となりました。

◼️師は別れて師と知る

6年生の2学期も終わりに近づいてきたある日のこと。私と仲間たちに飛び込んできたニュースは衝撃的で信じがたいものでした。産休でお休みされていた音楽の先生が3学期から復帰され、お姉さん先生がいなくなる・・・・。

そのニュースが飛び込んで以降の授業は、全く身に入らずの態度悪しで、散々なものだったように記憶しています。
お姉さん先生は、男女関係なく接してくれて厳しくも優しく温かく、ユーモアもあり、男子生徒からも女子生徒からも、みんなに慕われていました。

私は運動会の親子ダンス以来、さらにお姉さん先生の信者となり(笑)、お若い先生だったので親のようにとまではいきませんが、よく話すようになりました。

友人たち、特にサッカーのチームメイトとは、親子ダンスは気恥ずかしいねと、しょっちゅう話題にしていたぐらいなので、ふたを開けたらお姉さん先生と私が踊る姿を見て、何かあったんだなと察してくれた分、改めてお姉さん先生の温かさと優しさ感じていたようでした。

私たちが卒業するまでは普通にいるんだろうと、当たり前の日々が過ぎていっていただけに、学校からいなくなると聞いたときはみんなで残念がったことを思い出します。

みんな、お姉さん先生と一緒に卒業式を迎えたいと思っていました。まさか、途中でどこかにいなくなるなんて想像もしていなかったから、小学校6年生の甘ったれボーイズたちには、なかなか辛い出来事でしたよ(笑)。
事件ですね、事件(笑)。今でも、たまに当時の仲間と酒を酌み交わすと、必ずお姉さん先生の話題が出てきます。

カッコつけて言えば、小学校6年生の甘酸っぱい、甘酸っぱい、想い出になりました。

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◼️エピローグ

中学校入学直前の春休み。いつもの仲間と地元の繁華街を歩いていると、反対方向から見たことのある女性が私たちの方へ歩いて来ました。

みんな一斉に「先生!!」
一目でわかりました。

新しい学校でも音楽の先生を続けていること。卒業式はしっかりとできたかと気にかけてくれていたこと、中学校でも勉強や部活動や恋愛に頑張れと言ってくれたこと。

ひとしきり色んな話で盛り上がったあと、反対方向へと歩くお姉さん先生の背中が見えなくなるまで、みんなと一緒に見送りました。


お姉さん先生へ

時間がずいぶん経ちましたが、改めてお礼を言わせていただきます。一緒に卒業式を迎えることはできなかったけど、親子ダンスを踊ってくれてありがとうございました。

ずいぶん、おじさんになりましたが、今でもあの時のことはハッキリと覚えています。当時のあいつらも、それぞれ家庭を築いたりで元気にやっています。

2021年現在、コロナ禍でたいへんな時期ではありますが、お姉さん先生が元気に過ごしていることを心より願っています。












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