余命の不思議
余りの命とかいて余命、あまりの言い草だなぁと常々思っておりました。が、なんだか重い話なので、ここにはそぐわないかなぁと記事にはしないできましたが、やっぱり書きたいので書いちゃいます。
重いお話が苦手な方はここで別のページへどうぞ〜🎶また軽いお話の時にお会いしましょう(*ˊᵕˋ*)੭ ੈ
ドラマなどで、病気になって、お医者さんに言われる「余命3ヶ月から半年ですね」とかっていうシーンを見ていて、なんか不思議な言葉だなぁと思っていました。
症状が出て、診断受けて、余命が云々カンヌン・・・
心の準備が必要だからとか、やり残したことの整理のためにとか、そういうのは少しわかる氣がするけれど、それにしても予言者じゃあるまいし「あと◯ヶ月で」なんて、ホンマにわかって言うてるん?と思ったり。
病院でそう言われて落ち込んで、赤信号に氣付かないで渡って事故にあってしまうとか、スマホの着信に氣を取られて運転操作を誤るとか。
そんな些細だと思えるようなことでも、人は命を落とすのだけど。
そんな中の「余命宣告」ってなんだろう?とちょっと思ってしまうのです。
それ言われた途端に、患者さんやその家族は「なんとか助かりませんか?」と、自分の居場所を医療の下に置いてしまう。「お願いだから助けて」という懇願の言葉は対等な立場では言えないのだ。
そうすると、医療の側は「最善を尽くします」とか「できるだけの努力をしましょう」とかっていうわけだけど、ここに「治します」とか「助けます」のニュアンスはない。そうして最期は「あとは本人の生命力です」と。
そこに、その病気以外の「死ぬ理由」がないようにすら見える。他にもいろんな事で人は命を落とすのに。
しかも、残念にも亡くなった時の死亡診断書に「がん」などの病名はほぼ書かれない。直接の死因ではないからだそうだけど、それでも「多臓器不全」「心不全」って書かれるのは、どうも腑に落ちない。って言うか、全然納得できない。
話が脇道に逸れて来た氣がしないでもないが・・・氣にしない😝
私はまだ今までに、自分も含めて身近な人の「余命宣告」を受けたことはない。それでも何人かの近しい人は亡くなっている。
生まれて、生きていることが良いことで、生まれない、亡くなっていくことが悪いことのように扱われる世の中。多くの人たちもそう思っているのだろう。いや、そう思っているというより「そう思わされてきた」と言った方がより真実に近いのかもしれない。
確かに、この間まで会えて話せていた人と突然会話が出来なくなるのはこの上なく寂しい。誰がなんて言おうとこれだけは譲りたくないぐらい寂しい。
だけれども、そのことを差っ引いても「死ぬことが悪いこと」とは思わない。
生まれてきた以上、誰もが必ず最後に迎えるのが死ぬことなのだ。それ以上でもそれ以下でもなく。こればかりは万人に平等。
「死んだら終わり」とよく言われる。本当にそうなのかな?
死んだことがないから、その先に何かがあるのか、何にも無いのかわからないけど。
わからないのを良いことに「死ぬことは悪」「悪いことはしちゃいけません」的な思い込みが蔓延している氣がしてならない。
だれなん?そんなことを吹き込んだのは・・・
話が「余命」から随分遠くへ来てしまった💦
先日、間接的に余命宣告されたっていう知人のご家族の話を聞いて、常々思っていたことをつらつらと書いてきました。
知人のお父様は末期ガンなんだそう。それでも普通に家の中で生活しておられる。今までと同じ、何も変わりなく。
それでも頭の片隅にこびりついた「余命」の期間。末期ガンだからね、覚悟はしているよ、と言った知人の顔が、いつもよりちょっと寂しそうに見えた。
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