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これからの時代は情緒が大事なのではないか?

どうもちらしおじさんです。お元気でしょうか。
花粉で死んでます。辛いです。毎年同じこと言ってますね。はい。
自分は花粉で喉を痛めて熱を出すことが多いのでこの時期は寝込んでることが多いかもしれません。とてもよくない。

今回はnoteをネットサーフィン(古)で見つけた気になる話題から。


若い頃は認知的信頼が重要だった

上記の記事にも引用されていますが、情緒的信頼と認知的信頼について。

情緒的信頼・・・相手の幸福・繁栄 に対する気遣いや関心に基づいた個人間の情緒的な絆を基盤とする信頼

認知的信頼・・・相手の有能さや責任感などの特性に関する認知に基づく信頼

https://www.jstage.jst.go.jp/article/careercounseling/23/2/23_91/_pdf

若い頃、特に仕事を始めた頃は認知的信頼ってとても大事だと思うんですよね。
「自分の能力、成果、行動に対する評価=信頼」って仕事をしていく上では大事なことですし。
仕事ができなくって無能って言われるのもキツいですよね。
また、世の中には成果や評価を上げるためにはどうすれば良いのかというライフハックや本が星の数ほどあるわけです。

仕事や一部の対人関係ではこの認知的信頼が重要なのは間違いないと思います。

能力なんていずれ衰えるということを想像してみる

若いうちはいいんですよ。若いうちは。伸び盛りだし、何でも吸収できるから自分に合う職場や環境だったらどんどん成長していくらでも成果を上げることができると思うんです。

駄菓子菓子! 人は当たり前ですが年を取ります。
老化は20才を超えたら始まるとも言いますし、30才を超えたらより努力しないと能力は下がる一方です。

人は休まずに走り続けることはできない。
どんなにデキる人だって時には失敗もするし、勝負に勝ち続けることはできない。
若いうちはまだそういった状況は少ないかもしれませんが、段々できないこと、難しいこと、成長できないことが増えていくんですよね。

最初は他人を成果や能力で判断していた自分が、やがて「能力がない」人間として逆に他人に判断されることになる。

じゃあ、そのときに他に選ばれる方法ってないのか?と考えると「情緒的信頼」に基づく人間関係が重要視されるのかなと。(冒頭の記事の内容を参照)
「え?何言ってるの当たり前じゃん?好意を持っている人や信頼してる人くらい自分にだっているし」って思うかもしれませんが…

情緒を軽視してきた人がいきなり情緒を理解することはできるのか

認知的信頼を重視していた人が情緒的信頼への比率を上げるのって、正直私は難しいんじゃないかって思ってるんですよね…
現代は特に「得するかしないか」「能力があるかないか」ということを重要視しすぎていて、そこに注力するすることを求められています。
年を取っても勉強、成長し続けることを期待される世の中ですしね。

若い頃から能力で判断されて認められていたから、いきなり相手の立場に立って理解しましょうとか相手の気持ちを考えましょう。共感しましょうって言われても難しい。

勿論人間なので感情自体はあるからある程度の理解はできるでしょうが、元々その感情の使い方が「他人じゃなくて自分中心」に使われているから、そもそも他人の心情を理解しにくい。
いざこざになった時に自分の感情を押しつけがちなのも、感情を自分中心に使っているからだと私は思っています。

また、個人主義の世の中なのもあって「他人を信頼するより自分の力を信じろどうせ他人は変わらない」みたいな思想になりがち。

今はそれでよくても、死ぬまでその価値観や信頼関係の築き方でやっていけるのか?

冒頭記事の作者さんは能力がある方だとは思うのですが、その人ですら情緒的信頼を築けないことに危機感を感じているのですから、情緒的信頼関係って無意味な信頼関係ではないはずなんですよね。

諦めないこと

ここから先は個人的な心がけになります。

じゃあもうダメじゃんワッハッハ
だと話が終わってしまうので、どうするの?

私は情緒的信頼を得るために大事なのは「忍耐」だと思っています。

自分が変わるのもそうですし、人が変わるのって難しいですし時間がかかるものですよね。
その変化を待つには相当な月日がかかると思います。

よく「今は反省したフリしてるけど、どうせ同じことを繰り返すから」って言われますけど、確かに人間は喉元過ぎたらすっかり忘れる生き物です。
変わらないことは心地が良い。同じような思考や価値観を持つ人と信頼関係を築いていたほうがラクで楽しいですしね。
それに似たような価値観の人は大事にしたほうがいいです。間違いなく。

でも、変わろうとしている人がいるなら、例えすぐに変わらなくても待ってみたいなとも思えるんですよね。
人は信頼されれば期待に応えようとする。それこそ情緒的信頼だと思いますし。
(ただ、相手にその信頼が理解されるかどうかは話が別だったりする)
(といってもそもそも個人が持っている信念や置かれている環境等で理解できない場合も多いので必ずしもこれが正しいとは言えない)

理解したい人がいるならできる限り見守る。ただ、理解へのきっかけ(重要性)を与えることはできない。

結局こうなっちゃうのかなーって感じです。
私自身が元々情緒的信頼を重視しているので(逆に認知的信頼というのが非常に苦手)だからこそ待つことに意味を見いだせますが、認知的信頼が強い人はなかなか成果や効果が出ない事柄だから難しいのかもしれないですね。

大してまとまってないけど、今回はソンナカンジ

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